忙殺されるエドガー
翌朝。
エドガーが執務室へ入ると、すでに仕事を始めていた補佐官や事務官たちが一斉に顔を上げた。
「若様、おはようございます」
「おはよう」
会釈を返しながら、エドガーはため息混じりに答えた。
昨晩調べたことが、どうしても頭から離れない。
水害被害が続いている地域の農作物の収穫高と、周辺商会の買付高。さらに水害の被害報告と河川工事の記録。それらを数年分遡って照らし合わせてみると、どうにも数字が噛み合わなかった。
昨晩の時点では、朝になったらハーグリーヴスへ相談しようと思っていた。
だが一晩経ってみると、今度は別の不安が頭をもたげてくる。
「おはようございます、若様。昨晩はよくお休みになれましたかな?」
声をかけられて顔を上げると、近くで資料を探していたハーグリーヴスが、いつもの鷹揚な笑みを浮かべていた。
――そうだ、ハーグリーヴスに相談を……。
そう思ったところで、エドガーの視線は手元のメモへ落ちた。
――いや、待てよ。
こんなことで呼びつけて、見当違いだったらどうしよう。
自分はまだ父の仕事を手伝っているだけの若造だ。それなのに、領内から上がってくる報告に不正があるのではないかなどと口にして、何もなかったら――。
「若様? どうかなさいましたか?」
気づけば、ハーグリーヴスがすぐ近くまで来ていた。顔色の悪いエドガーを心配しているらしい。
エドガーはメモを握ったまま、しばらく黙り込んだ。
――いや、僕の勘違いだったらそれで良いじゃないか。恥をかくのは今に始まったことじゃない。
何もなければ、それで済む。だが、もし本当に何かあるのなら、見なかったことにはできない。
それに、帳簿に詳しいハーグリーヴスの意見を聞くべきだ。
「……ハーグリーヴス……」
「はい」
「実は昨晩、昼に話していた水害地域の農作物収穫高と周辺の商会の買付高を、何年か遡って照らし合わせてみたんだ」
その言葉に、ハーグリーヴスがわずかに目を見開いた。
「やっぱり買付高はさして変動していないんだよ……おかしいと思わないか?」
エドガーは昨晩作ったメモを机の上に広げた。水害の被害件数と工事記録を照らし合わせ、自分なりに整理したものだ。
「それだけじゃない。実際の被害報告と工事申請、記録を照らし合わせてみたんだが……これがまったく噛み合わない。被害のない時に工事の申請が入ったり、同じ所を何回も直したり……」
「ふーむ……」
ハーグリーヴスはメモへ目を落とし、そのまま黙り込んだ。
ほんの数秒だったはずなのに、エドガーにはひどく長く感じられた。
やはり見当違いだったのだろうか。数字の読み方を間違えていたのか。それとも、自分が知らないだけで何か理由が――。
「……確かに、これは一度調べたほうがよろしいでしょうな」
その言葉を聞いた瞬間、エドガーはほっと息を吐いた。
「一度、私のほうでも資料を確認してみましょう。どの資料をご覧になりましたかな?」
「農務関係と、商会から提出された報告書を。あと河川工事の記録も少し……」
「何年度まで遡られましたかな」
「五年前までだ」
「五年……なるほど」
ハーグリーヴスは手元のメモからエドガーへ視線を戻すと、またいつものように穏やかな笑みを浮かべた。
「しかし若様、よくお気づきになりましたな」
「いや……数字を並べていたら、たまたま気になっただけだよ」
「たまたま気になったからといって、数年分を遡って照合する者はそうおりますまい」
そんな大したことではない、とエドガーは思った。気になった数字を追っていったら、結果としてそこまで遡ることになっただけだ。
「では、また調査結果が出たらお知らせ致しましょう」
「ああ、頼むよ」
ハーグリーヴスは自席へ戻ると、近くにいた事務官を呼び止めた。
「すまないが、過去五年分の農務報告と河川工事の記録を揃えておいてくれ。それから、商会から提出された買付報告もだ」
「承知しました」
事務官はすぐに動き始める。
その様子を見ながら、エドガーはようやく肩の力を抜いた。
――相談してよかった。
やはり、自分一人で考えているよりずっと心強い。
これで詳しく調べられる。
そう思っていたのだが――。
◇
その日の午後、エドガーは父であるローレンス辺境伯に呼び出された。
「急ですまないが、明日、王都から監理官が来ることになった。領内の視察を希望されている。お前が案内してくれ」
「……わかりました」
断れるはずもない。
ハーグリーヴスの調査結果を聞きたかったが、仕方ない。明日が終わってからだ。
そう考えたものの、翌日は監理官への対応で丸一日が潰れた。
◇
さらにその翌日。
朝食の席で、ヴィクトリアが何気ない様子で口を開いた。
「……そういえば、本日は叔父様がこちらへいらっしゃいますの」
「……今日!?」
思わず声を上げると、ヴィクトリアが不思議そうにエドガーを見る。
「ええ。お父様からお聞きになっていませんの?」
「ああ……いや……どうだったかな……」
聞いたような気もするし、聞いていないような気もする。ここ数日のことで頭がいっぱいだったせいか、まるで自信がない。
「お忙しいとは思いますけど、エドガー様にもお会い出来るのを楽しみにしていらっしゃいます」
「うん……わかったよ……」
――仕方ない。明日だ。明日こそ調べよう。
結局、その日も一日予定が潰れた。
◇
そして、また翌日。
ようやく執務室の机に着いたエドガーは、目の前に積み上がった書類の山を見てげんなりした。
二日まともに執務へ手をつけられなかっただけで、見事なまでに仕事が溜まっている。
それでも、先に確認しておきたいことがあった。
「先日見たウィロウ村の農務報告をもう一度見たいんだけど」
近くにいた事務官へ声をかけると、返ってきたのは申し訳なさそうな表情だった。
「申し訳ございません。現在会計部門で使用中でして……」
「じゃあ、グレンフォード地区の水害被害報告を……」
「大変申し訳ございません……ただいま倉庫整理のため別棟へ移動しております」
「……河川工事の記録は?」
「そちらは……本日担当者がお休みを頂いておりまして……」
エドガーはしばし黙った。
「……何か、見られるものは……」
「ただいま倉庫整理している関係で、見られる資料がかなり少なくなっております……」
事務官は本当に申し訳なさそうだった。
会計部門で使っているなら仕方がない。倉庫整理も必要な仕事だし、担当者にだって休みはある。
だが、これでは何も調べられない。
「……そうか……あとは動いてみるしかないか」
エドガーは椅子から立ち上がると、そのまま早足で執務室を出ていった。
「……若様?」
背後から事務官の声が聞こえたが、足は止めなかった。
◇
向かった先は、ローレンス辺境伯の居室だった。
「グレンフォード地方への視察か……」
「はい、近々視察したいのですが、日程を組んでも構いませんか?」
父はしばらく考えるような顔をしたが、やがて首を横に振った。
「今はやめておけ。王都からの監理がしばらく続く。お前にも同席してもらわねばならんこともある」
「ですが……」
「急ぎなのか?」
そう問われ、エドガーは言葉に詰まった。
手元にあるのは、いくつかの数字が噛み合わないという疑念だけだ。
農作物の収穫高と商会の買付高。水害の被害報告と工事記録。
確かにおかしい。だが、それだけだった。
不正があると裏付ける証拠は、まだ何ひとつ持っていない。
「……いえ、そこまでではありません」
「エドガー。執務に熱心なのも良いが、レンも帰ってきている。こういう時くらい他の者に任せてはどうだ」
「……はい」
父の部屋を出たエドガーは、廊下を歩きながら小さく息を吐いた。
――こんなに、何も進まないものなのか?
調べようと思えば予定が入る。ようやく時間ができたと思えば資料がない。それならば現地へ行こうと思っても、今は動けない。
そこまで考えてから、エドガーは足を緩めて首を振った。
――いや。王都から監理官が来ているのだから、城内が慌ただしいのは当然だ。
たまたま今回はヴィクトリアの親族の訪問まで重なった。それだけのことだ。
資料だってそうだ。会計部門での使用、倉庫整理、担当者の休暇。どれもおかしな理由ではない。
ただ、いくつもの事情が偶然重なっただけ。
エドガーはそう思った。
――いや。
そう、自分に言い聞かせた。




