大貴族アシュクロフト
それはそうと。
午前の書類を捌きながら、エドガーはふと考えた。
――何の書類なら、あるんだろう。
農務報告は会計部門で使用中。水害被害報告は倉庫整理で別棟へ移動し、河川工事の記録は担当者が休み。現地へ行くことも、しばらくは難しい。
ならば、今ある資料から調べるしかない。
あの晩、数字を追っている最中に引っかかったもの。手元に残してあるメモ。そこに書き留めた名前を、エドガーは頭の中でもう一度さらい直した。
「……あの……」
もう一度、近くにいた事務官へ声をかける。
「はい」
「ベルフォードの町の、土木関係業者の取扱高がわかる資料はあるかな。会社別に詳細がわかるようなものがあると良いんだけど」
エドガーは、先日調べた工事報告書に何度も名前が出てきた業者を紙に書き写し、事務官へ渡した。
「……お待ちくださいませ」
事務官はその紙を受け取り、棚の向こうへ下がっていく。
しばらくして戻ってきたその腕には、何冊かの分厚い書類の束が抱えられていた。
「お待たせしました。こちらがウェルナー資材商会、ブラントン土木工房、レドモンド商会、グレイヴス建設社の届出資料をまとめたものですね」
「ありがとう」
エドガーは早速、一番上の資料を開いた。
まずは資材問屋――ウェルナー資材商会。
水害関連の工事で、資材の仕入れ先として頻繁に名前が挙がっていた商会だ。
取扱品目、仕入れ先、取引高。順に数字を追っていたエドガーの目が、ある記載で止まった。
――あれ。
この商会は、ずいぶんアシュクロフト領からの仕入れが多い。
ローレンス領内にも同じような資材を扱う仕入れ先はある。それでも、かなりの量をわざわざアシュクロフト領から仕入れているらしい。
もっとも、それだけなら何もおかしくはない。アシュクロフト領には大きな商会や鉱山、製材所も多い。特定の仕入れ先との付き合いが長ければ、取引が偏ることもあるだろう。
エドガーは次の資料を手に取った。
施工業者、ブラントン土木工房。
この名には覚えがあった。
アシュクロフト家御用商会の主人の妹が、この家へ嫁いでいる。
エドガー自身、アシュクロフト家の縁戚として、結婚の際に祝いの品を贈った覚えがあった。
さらに次の資料を開く。
レドモンド商会。
農作物から建材、生活資材まで幅広く扱う商社で、この会社のこともよく知っていた。
独自の大規模な物流設備をほとんど持たず、アシュクロフト家が所有する倉庫や輸送網を継続的に利用することで事業を拡大してきた商会だ。自前で巨大な設備を抱えずに商圏を広げていく革新的な経営手法は、以前にも話題になったことがある。
「……やけに多いな」
思わず、声が漏れた。
アシュクロフト領は、王都をまたいだ西方にある。
ローレンス領南東部のグレンフォード地方から見れば、決して近くはない。
もちろん、アシュクロフト領には大きな商会や業者が多く、領外とも盛んに取引している。それ自体は何ひとつ不自然ではなかった。
「だけど……こんなに重なるものか?」
最後に残った、グレイヴス建設社の資料を開く。
ここがグレンフォード地方の水害関連工事を最も多く請け負っている施工業者だった。
頁を繰り、過去の受注記録まで目を通していく。
そして、エドガーの指が止まった。
グレイヴス建設社は過去に、アシュクロフト領内の公共事業も多数請け負っている。
「また……アシュクロフト」
偶然と言うには、少し多い。
だが、これだけで何か不正があると考えるには、あまりにも根拠が薄かった。
アシュクロフト侯爵家ほどの大貴族なら、多数の商会や施工業者と繋がりを持っていて当然だ。領内の事業規模を考えても、その名が各所に現れること自体はおかしくない。
それでも――。
エドガーの脳裏に、今朝方、朝食を共にしたばかりのヴィクトリアの顔が浮かんだ。
――そういえば。
昔から、一つだけ疑問に思っていたことがある。
なぜ、アシュクロフトほどの名家が、長女であるヴィクトリアの結婚相手に自分を選んだのか。
家格だけを考えれば、アシュクロフト家にはもっと条件の良い縁談もあったはずだ。
それなのに、なぜ自分だったのだろう。
エドガーは手元の資料へ視線を戻した。
ウェルナー資材商会。
ブラントン土木工房。
レドモンド商会。
グレイヴス建設社。
形は違う。繋がりの深さも、それぞれ違う。
だが、その向こうには何度も同じ名前が浮かび上がる。
アシュクロフト家。
まさか。
――僕が選ばれたのではなく。
ローレンス家との繋がりが必要だった……?
「…………」
エドガーは資料を見つめたまま、しばらく動けなかった。
やがて、自分の考えを振り払うように小さく首を振る。
「……何を考えているんだ、僕は」
まだ何も分かっていない。
業者同士の繋がりも、アシュクロフト家との関係も、それだけを見れば不自然なものではない。
ましてやヴィクトリア自身には、何の関係もないかもしれない。
そう自分に言い聞かせても、一度浮かんでしまった疑問だけは、完全には消えてくれなかった。
◇
その日の夕食。
エドガーは向かいに座るヴィクトリアを眺めながら、ふと遠い昔のことを思い出していた。
『エドガー様』
あれは、まだ幼い頃。
大きくなったら結婚する相手なのだと紹介されたヴィクトリアと、何度か顔を合わせるようになった頃だった。
『エドガー様だけは、ヴィカと呼んでもよろしくてよ』
幼いヴィクトリアは、いつものように背筋をしゃんと伸ばし、可愛らしくおすまししていた。
そんな姿と『ヴィカ』という幼い響きがどうにも不思議に思えて、エドガーの頬は思わずほころんだ。
『ヴィカ?』
『お母様しか呼ばない呼び名ですの』
『そう……僕はいいの?』
『ええ』
ほんの少し戸惑いながら、エドガーはその特別な呼び名を口にした。
『……じゃあ……ヴィカ』
◇
「エドガー様?」
呼びかけられ、エドガーは我に返った。
「どうなさいましたの」
「……え?」
「先ほどから、こちらを見ていらしたでしょう」
どうやら上の空のまま、ずっとヴィクトリアのほうを見ていたらしい。
「ああ……ごめん」
ヴィクトリアは小さくため息をついた。
「最近、よくぼんやりされていらっしゃるわ……また、執務のお悩みですの?」
「うん……まあね……」
止まっていた食事の手を動かす。
けれど頭の中にあるのは、執務室に残してきた資料のことばかりだった。
早く戻って、別の商会の数字も見てみたい。
それでもエドガーは少し迷った末に、向かいに座るヴィクトリアへ口を開いた。
「そういえば……君の実家は、グレイヴス建設社と昔から付き合いがあるの?」
「グレイヴス建設社?」
ヴィクトリアは少し考えるように視線を上げた。
「ええ……叔父様が昔から懇意になさっているようでしたわ。先日いらした時も、そんな話をなさっていたような……」
エドガーの手が一瞬止まった。
先日、この城を訪れていたヴィクトリアの叔父。
グレイヴス建設社と、そこまで直接的な繋がりがあったのか。
「それが何か?」
「いや……少し名前を見かけたんだ」
「どちらで?」
「……仕事の資料で」
今度はヴィクトリアも手を止めた。
紫の瞳が、じっとエドガーを見つめる。
「……何を調べていますの?」
エドガーはすぐには答えられなかった。
ヴィクトリア自身を疑っているわけではない。
むしろ、だからこそ言えなかった。
まだ何も分かっていない。いくつかの業者とアシュクロフト家に繋がりがあるというだけで、何の証拠もない。
そんな段階で、彼女の実家を疑っているようなことを口にしたくはなかった。
「……まだ、僕にもよくわからないんだ」
「わからない?」
「うん。だから……もう少し分かってから話すよ」
「……そうですの」
ヴィクトリアの長い金色のまつ毛が伏せられる。
そのまま黙ってしまうのかと思ったが、彼女はすぐにもう一度エドガーを見つめた。
「でしたら、最初からそう仰ればよろしいのに」
「え?」
「わたくしに聞きたいことがあるのでしょう? 先ほどから、随分言いにくそうになさっているから」
ヴィクトリアはまっすぐにエドガーを見たまま続けた。
「わたくしの知っていることでよろしければ、なんなりとお答えしますわ」
その声には、迷いのない響きがあった。
エドガーの肩から、わずかに力が抜ける。
「そうか……ありがとう……ヴィカ」
「!」
ヴィクトリアが目を見開いた。
その顔を見て、エドガー自身も気づいた。
先ほど幼い頃のことを思い出していたせいだろう。ずっと口にしていなかった呼び名が、何の意識もなく出てしまった。
けれど、ヴィクトリアは何も言わなかった。
エドガーも、それ以上は何も言わなかった。
――大丈夫だ。
彼女は僕の味方でいてくれる。




