英雄レナードの昔話
その夜。
ローレンス辺境伯居城の食堂では、久しぶりに帰還した次男レンと、その仲間である三人のSランク冒険者を歓迎するため、家族全員が揃っての夕食会が開かれていた。
長旅を終えた一行も昼間までの旅装から着替え、食卓には領内の食材をふんだんに使った料理と酒が並んでいる。
「これ、なんだ? 王都じゃ見ない酒だな」
セヴランはグラスに注がれた薄黄色の酒を光に透かして眺め、香りを確かめた。
「領内北部で作っている木の実の酒ですよ。この辺りは冬が厳しいので、日中との寒暖差で実の締まった果実が成るんです。食用には硬いし甘みも乏しいのですが、長期熟成させると雑味がなく美味い酒になります」
エドガーの説明に、セヴランは興味深げに耳を傾ける。
「へえ。坊っちゃん、酒はわかるのか」
「僕はあまり強くないんですけどね。領内の産品ですから」
すると、隣で同じ酒を飲んでいたローレンス辺境伯が口を挟んだ。
「セヴラン殿、エドガーは領内の産物については私より詳しいぞ」
「いえ、そんなことは……」
「ふーん……あ、これイケるな」
一口飲んだセヴランが驚いたように眉を上げる。
「ははは、貴殿はいける口だな。エドガーはこの通り真面目なもので、酒の相手はしてくれんでな。どんどん飲みたまえ」
一方、夫人は向かいに座るルシエラへ丁寧に声をかけた。
「聖女様にはいつも息子がお世話になっております」
旅装から清楚で上品なドレスへ着替えたルシエラは、まさに聖女と呼ぶにふさわしい佇まいで席についている。
「いいえ。わたしの方こそ何度も助けられています。ただ……」
そこでルシエラは、ちらりと横目にレンを見た。
「無茶をして一人で先行する癖だけは、もう少しどうにかしていただきたいと思っています」
「まあ! 昔からそうなのよ」
「……ルシエラ」
困ったようなレンの声に、エドガーが笑う。
「やっぱり今もそうなんだね」
「この子ったら五歳の頃には、家庭教師の魔術を見ただけで真似してしまって」
「五歳!?」
ミラが目を丸くする。
「覚えていない」
「それだけじゃないのよ。六歳の時には剣術の先生を泣かせてしまったの」
「そ、それはどうして……?」
「勝ってしまったのよ」
「えぇぇ!?」
「母上、あれは子供相手だから手加減してくれていたのだろう」
「……レン、それ聞いたら先生また泣くよ?」
エドガーの言葉にも、レンは不思議そうな顔をするばかりだった。
「七歳の時には騎士団の訓練に勝手に混ざっていたな」
今度は父が懐かしそうに口を挟む。
「勝手にではありません。許可は取った」
エドガーがまた小さく笑う。
「訓練を見学する許可だっただろう?」
「……そうだったか?」
「あれは騎士たちも悪ノリしてレンを招き入れたんだよ。結局コテンパンにされたけどね」
母もレンの話が尽きず、ご機嫌で続ける。
「馬術を習わせた時も大変だったのよ。初日にいきなり走らせて」
「それで落ちたんだよな」
「一度だけだ」
「三回だよ」
「……?」
「ぶはははは!!」
とうとうミラが耐えきれず吹き出し、食卓に大きな笑い声が響いた。
エドガーもまた、久しぶりに弟の昔話をしながら心から笑っていた。
そんな中、隣に座っていたヴィクトリアが静かに口を開く。
「……ですが、レナード様にも苦手なものはございましたでしょう」
「?」
「蛙ですわ」
「…………」
「カエル? そうだっけ? レン?」
ミラが首を傾げると、ヴィクトリアはどこか懐かしそうに微笑んだ。
「幼い頃、庭園に大きな蛙が出まして。わたくしも蛙が大嫌いでしたので、レナード様と二人で動けなくなりましたの」
エドガーの目線が思い出を探るように宙を泳ぐ。
「……あったね」
「結局、ふたりで泣いてしまって、エドガー様が慌てて駆けつけてお庭の外へ逃がしてくださいました」
「ぷっ! カエルで? あははは!」
ミラが再び笑い出す中、レンは少し考え込んでから真顔で言った。
「……兄上は昔から蛙に強かった」
「蛙に強いって何だよ?」
今度はミラだけでなく、母もヴィクトリアも声を合わせたように笑った。
ひとしきり笑いが収まったところで、母が思い出したようにレンへ顔を向ける。
「そういえば、レン。ロザリー嬢には今回の帰還を報せてあるのかしら?」
「あ、いや……ただ任務で戻っただけだからな」
「出た! ロザリーちゃん! 婚約者だ!」
「何故知っている」
「あなたがミラに問い詰められて名前を白状したのですよ、レン」
ルシエラに指摘され、レンは黙った。
「まあ! それはいけないわ。さっそく明日報せを出しましょう」
「いや、母上……」
「うわぁ……♡ レンとロザリーちゃんが並んでるのを見れるのぉ?」
「とっても可愛らしい方よ。もう幼いころからレンのことが大好きでね……あの美しい刺繍入りのハンカチ、一体何枚頂いたのかしら」
「ああ、全部取ってある」
「キャー♡♡♡」
ミラが身を乗り出す。
「使うには勿体無いし、捨てる理由もないからな」
「おいおい! そこは使いなよ!」
エドガーはくすくすと笑った。
「レンはずっとこの調子だから、ロザリー嬢も苦労するね」
再び皆の笑い声が食卓に響く。
エドガーも笑った。
その笑顔に嘘はなかった。
弟が帰ってきたことも、こうして家族が揃って食卓を囲んでいることも、レンの仲間たちと話せたことも、心から嬉しかった。
こんな夜は、いつぶりだろう。
ふと、エドガーは食卓を見渡した。
楽しそうにレンの幼少期を語る母。
酒を片手にセヴランと話す父。
レンの婚約話に目を輝かせるミラ。
上品に微笑みながら会話を聞いているルシエラ。
そして隣を見れば、ヴィクトリアも珍しく柔らかな笑みを浮かべている。
自分と二人でいる時には、ほとんど見たことのない表情だった。
――レンがいるから、なのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな影が落ちた。
振り返れば、今夜の話題の中心にはいつもレンがいた。
もちろん当然だ。今日は長旅から帰ってきた弟を歓迎するための夕食会なのだから。
両親がレンとの再会を喜ぶ気持ちもわかる。自分だって嬉しい。
それでも、考えてしまう。
――自分だけなら、こんなふうに皆を笑顔にすることが出来るだろうか。
楽しかったはずの時間が終わったあと、またいつもの日々に戻った食卓を想像してしまう。
楽しい晩餐のあとに訪れる空虚さに、早くもエドガーの心は囚われていた。
それでも食卓から笑い声が絶えることはなく、その夜の夕食会はいつもよりも長く続いた。




