自慢の兄
翌日の午後。
長い街道を走り続けた幌馬車の先に、ようやく巨大な白い城壁が見えてきた。
「ん?……おいレン、あれは……街か?」
手綱を握っていたセヴランは首から下げた双眼鏡を手に取り、遠方の小高い丘を覗き込んだ。
白い石造りの広大な本館を中心に、いくつもの棟や塔、中庭、厩舎、兵舎らしき建物が巨大な城壁の内側にまとまっている。遠目には、小規模な街そのものにしか見えない。
呼ばれたレンが幌馬車の隙間から顔を出し、セヴランの視線の先を確認する。
「いや、俺の家だ」
「…………」
「えーーっ?」
「……まあ」
セヴランは無言で双眼鏡から目を離した。ミラは目を丸くし、ルシエラも珍しく驚きを隠せない。
「お前、今まで『実家』って言ってたよな?」
「ああ。実家だからな」
レンにとっては、何もおかしなことを言ったつもりはない。
馬車が近づくにつれ、高い城壁によってその全貌は一旦隠れていった。
やがてローレンス家の紋章が刻まれた巨大な城門へたどり着くと、門を守る衛兵たちはレンの姿を認め、一斉に深く礼をする。
重厚な城門が、ゆっくりと開いた。
「うわぁぁぁ……♡」
幌馬車から見える光景に、ミラが感嘆の声を上げる。
堅牢な城壁の内側には、その外観からは想像できないほど美しい景色が広がっていた。石畳の両側には丁寧に手入れされた植栽が並び、中庭には庭園と噴水。建物同士をつなぐ回廊には蔓薔薇が絡まり、白い石壁にも緑の蔦が這っている。各所に作られた小さな庭園では、季節の花々が咲き誇っていた。
「かわいーーー♡ お花いっぱい♡♡」
「そうか?」
目を輝かせるミラとは対照的に、レンはさして興味もなさそうだった。
一方、セヴランが興味を示したのは庭園ではない。再び双眼鏡を覗き込み、城壁や塔をじっくりと観察している。
「……壁厚いな。あの塔、見張りだけじゃねぇだろ」
「ああ。いかなる襲撃にも備えられるようになっている。地下には武器庫がある」
「……地図はサッパリでもそっちは詳しいんだな」
「?」
街道では山の見え方でしか現在地を説明できなかった男が、自宅の防衛設備については迷うことなく即答する。レンは何を指摘されているのか分からないらしく、首を傾げただけだった。
城壁内の道をさらに進んでいくと、今度は小規模な住宅街と商店街が姿を現す。
「やっぱ街じゃねえか」
「ほとんどは使用人棟や兵舎だ。彼らのための商店だろう」
「それを街って言うんだよ」
レンにはいまいち理解できないらしい。
そんなやり取りをしているうちに、街の人々が馬車へ気づき始めた。
「あ、レナード様だ!!」
「レナード様のお帰りだ!」
「レナード様ー!」
あちらこちらから声が上がり、人々が笑顔で手を振る。
レンもごく自然に片手を上げ、それに応えた。
「ぷくくく♡ レナード様ーだって!」
ミラが笑いをこらえながら、隣にいるルシエラの袖を引っ張る。
「ミラ、笑うものではありませんよ。わたしたちにとってはレンでも、彼らにとってはレナード様ー!なのです」
「レナード様ー」
「セヴラン、真顔で言うのはおやめなさい」
「お前たち、楽しそうだな」
何をそんなに面白がられているのか、レン本人だけはいまひとつ分かっていなかった。
やがて馬車は城壁のさらに奥へ進み、ローレンス家本館の正門前へたどり着く。
「着いたぞ」
レンの言葉とともに、正門の扉が重い音を立てて開いた。
その向こうに広がっていた光景を目にして、今度こそ三人は言葉を失った。
家臣、騎士、執事、侍女、従僕、料理人、庭師。大勢の者たちが正装し、左右に整然と並んでいる。
「「「お帰りなさいませ、レナード様」」」
一斉に、深々と頭が下げられた。
「…………」
「…………」
「…………」
「ただいま」
レンだけが、ごく普通に帰宅の挨拶を返した。
「やべえ……引くわ」
「えっ、えっ、あたしも礼とかしたほうがいいの? レン!」
「普通でいいぞ」
一瞬驚いていたルシエラはすでに背筋を正し、聖女として来賓を迎える場にふさわしい佇まいへ戻っていた。
「あなたの普通が一番信用なりません」
馬車がゆっくりと止まる。
出迎えの列の一番奥には、一人の青年が立っていた。
眼鏡をかけた、物腰の柔らかそうな青年。周囲の家臣たちとともに帰還した一行を迎えながら、穏やかに微笑んでいる。
その姿を見つけた瞬間、レンの表情がふっと緩んだ。
「兄上」
◇
馬車が止まると、使用人たちがすぐに集まり、積まれていた荷物を下ろし始めた。
「あ、おい。それは触るな。俺が運ぶ」
荷物の一つへ手を伸ばした使用人を、セヴランが慌てて制する。
「え? そういう訳には……」
「いい。中身ひっくり返されたらこの辺一帯吹っ飛ぶぞ」
「!?」
使用人の手が即座に引っ込んだ。
一方のルシエラは、次々と荷物を確認していく。
「ミラ、すぐに必要な装備類の箱だけ先に運んでください」
「ねえねえ、見てルシエラ! メイドさんがいるよぉ♡ フリフリのエプロン着てる♡ きゃー!」
「ミラ、聞いていますか」
ルシエラは小さく息をつくと、馬車を降りようとしていたレンへ目を向けた。
「あとのことはわたしたちに任せて、お兄さまとゆっくりお話してきてください」
「……そうか、すまない」
レンが馬車を降りると、エドガーもこちらへ歩み寄ってくる。
「レン! おかえり」
「ただいま。兄上」
久しぶりに向かい合った弟を、エドガーはまじまじと見上げた。
「……少し背が伸びた?」
「そうか?」
「また鍛えたんだろう。前より肩回りも大きくなった気がするよ」
すると今度はレンが兄をじっと見る。
「兄上は少し痩せたな」
「え、そうかな」
エドガーは思わず自分の頬に手を当てた。そういえば先日、ヴィクトリアからも顔色がよくないと言われたばかりだ。
「相変わらず、寝ていないのではないか?」
「…………」
「兄上が倒れたら皆が困る。大事にしてくれ」
――僕が倒れたところで、そんな大したことはないけど。どうして皆、同じことを言うのかな。
そんな言葉がエドガーの胸に浮かび、そのまま消えていった。
「……それにしても」
エドガーは馬車の方へ視線を移し、くすっと笑った。
「ずいぶん賑やかな仲間ができたんだね」
「セヴランの荷物これ? あたしが運んでやるよお!」
「うわよせ、お前はこの線からこっちに来んな!」
「二人ともいい加減にしなさい」
実際に賑やかな三人を振り返り、レンは少し照れたように頭へ手をやった。
「……そうだな。頼りになる仲間だ」
その嬉しそうな様子を見て、エドガーも自然と笑みを浮かべる。
「そうか。良かった。ここにはお前と肩を並べられる者なんていなかったから」
「そんなことはないが」
「いや、おかげで幼いころから一人でなんでもやろうとする癖がついてしまったから、それだけ心配していたんだ。本当に良かった」
――それは今でもルシエラから叱られている。
そうは言えず、レンも笑って俯いた。
「それにしても、王国から直接勅命を受けて帰ってくるなんて。本当に立派になったな」
嬉しい。
本当にそう思う。
幼い頃から才能に溢れていた弟が、今では王国から直接頼られるほどの冒険者になった。兄として、これほど誇らしいことはない。
ただ、レンが立派になればなるほど、自分との距離まで遠くなっていくような気がしてしまう。
弟が先へ進んでいるのではない。
自分だけが、同じ場所に取り残されているような気がするのだ。
「ただの任務だ。立派でもなんでもない」
「立派だよ。十六でSランク冒険者になって、今度は王国から直接頼られる冒険者か。僕とはずいぶん違う人生になったね」
急にしんみりした兄を見て、レンは意味が分からないというように首を傾げた。
「?」
「今ではお前はローレンス家の誇りだよ。皆がそう思っている。本当に良かった。僕にはできないことばかりだから……」
「兄上でもそんな風に思うことがあるのだな」
「……?」
「俺も旅をしていていつも思う。うまくいかず、仲間に叱られてばかりだ」
「え?」
「少し安心した」
レンが、はにかむように笑う。
それを見て、エドガーは胸が痛くなった。
――また気を遣わせてしまった。
そんなはずはないのに。
――本当に優しい弟だ。
「レーン! 荷物終わったよー!」
遠くから声が響き、カルミラがこちらへ走ってくる。その後ろからセヴランとルシエラが追いついてくるのも見えた。
「兄上、カルミラだ。こう見えて名うての戦士だ」
「わーー! レンの自慢のお兄さんだね! ミラって呼んでね!」
「じま……」
エドガーは目から火花が出そうになった。
「……レン。そういうことをあまり人に言うものじゃないよ」
「なぜだ?」
「なぜって……実際に会ったらお前が困るだろう?」
「本当のことだ。何故困る?」
「…………」
レンは本当に分からないという顔をしている。
言葉を失った兄をよそに、レンは続いてやってきた二人へ向き直った。
「兄上、紹介する。こちらが……」




