轟音の再会
同じ頃、アシュクロフト侯爵居城の西側に建つ別邸では、エドガーが窓の外から響いてくる轟音に気づき、顔を上げていた。
最初は遠くで何かが崩れるような音だった。それが次第に大きくなり、今では重い衝撃が断続的に伝わってくる。静かな湖畔の別邸には似つかわしくない、不穏な響きだった。
エドガーは窓辺へ歩み寄り、カーテンを開けた。
「……これは……敵襲か?」
窓の向こうに見えた光景に、思わず声が漏れた。
「どうなさいましたの?」
ヴィクトリアが不安そうに尋ねる。
「ヴィカ……見てごらん、城のほうが燃えているようだ」
「なんですって!?」
ヴィクトリアも慌ててエドガーの隣へ駆け寄り、窓の外を覗き込んだ。
湖の向こうにそびえるアシュクロフト侯爵居城。その外周を取り囲む城壁や塔のあちこちに、赤々とした火の塊が見えていた。最初は点々と灯っていた炎が、やがて煙を伴いながら広がり、城の周囲を不気味に照らし出している。
時折、遠くから新たな轟音が響き、そのたびに別の場所から煙が立ち昇った。
「一体……何が起こっていますの……?」
ヴィクトリアは呆然と呟いた。
「わからない……でも、ここにも火が放たれるかもしれない……逃げなければ」
エドガーは窓の外を見つめながら、必死に考えを巡らせた。
この数日、彼は何度も部屋からの脱出を試みようとしていた。扉には外側から鍵がかけられ、窓の下には湖が広がっている。別邸は湖のほとりに建っており、この部屋から外へ出ようとすれば、水の中へ飛び込むほかなかった。
それでも、ヴィクトリアを連れて逃げることを考えれば、あまりに危険だった。彼女を抱えて泳ぎ切れる保証などない。だからこそ、これまで実行に移すことができずにいた。
だが、今は状況が違う。
本城で何が起こっているのかは分からない。しかし、あの炎がこちらへ及べば、閉じ込められたままでは逃げ場を失ってしまう。
自分一人なら、なんとか湖を泳いで建物の外側へ回り込めるかもしれない。そこから別の出入口を探し、ヴィクトリアを助け出すことができれば。
エドガーは隣に立つヴィクトリアへ向き直った。
「ヴィカ。僕が湖に飛び込んで外から回り込む。どこかに入れる場所がないか探してみる。君はここで待っていて」
「!? そんな、エドガー様! いけません! まだお体が……」
ヴィクトリアは思わず声を上げた。
エドガーはこの数日、ようやく体調を取り戻しつつあるところだった。長く無理を重ねてきた身体が、すぐに元どおりになるはずもない。まして湖へ飛び込み、泳いで建物を回り込むなど、あまりに無謀な話だった。
けれどエドガーは、そんな彼女の不安を和らげるように微笑んだ。
「君が側に居てくれたおかげで体は良くなったよ。大丈夫だ」
そう言って、ヴィクトリアの頬を片手でそっと包んだ。
その手の温もりに、ヴィクトリアは胸が締めつけられる思いだった。
エドガーはいつもそうだった。自分がどれほど苦しい状況にあっても、まず相手を安心させようとする。今も、自分の身体より彼女の身を案じているのだ。
「でも……」
ヴィクトリアがなおも言いかけた、その時だった。
廊下の向こうから、地響きのような音が聞こえてきた。
何か重いものが激しくぶつかるような音が、次第にこちらへ近づいてくる。
二人は思わず顔を見合わせた。
そして、廊下の奥から突然、場違いなほど明るい声が響き渡った。
「お兄ちゃーーーん!!!」
「……あの声は!?」
エドガーが驚いて扉へ振り返った。
次の瞬間、凄まじい衝撃音が部屋中に響いた。
ドゴォォォン!!
分厚い扉が、鍵も閂もろとも内側へ吹き飛んだ。
頑丈に作られていたはずの木製の扉は、まるで腐った老木のようにバラバラと砕け散り、破片が床一面に降り注ぐ。
エドガーは、目の前で起きた出来事を呆然と見つめていた。
壊れた扉の向こうに立っていたのは、大斧を携えたカルミラだった。
途中で立ちはだかった護衛たちを跳ね除け、その凄まじい脚力で、鍵のかかった扉を蹴破ったのである。
その背後から、黒髪の青年が顔を覗かせた。
「兄上っ!!」
「レン!?」
エドガーは目を見開いた。
そこにいたのは、間違いなく弟のレナードだった。
レンは部屋の中にいる二人を見つけると、すぐに声をかけた。
「二人とも無事か?」
「ああ……でも、どうしてここに?」
エドガーには、何が起こっているのかまるで分からなかった。
本城では炎が上がり、今度は弟が突然現れた。しかも、扉を蹴破って飛び込んできたのは、見知らぬ大斧使いの女性である。
あまりに唐突な出来事の連続に、驚くばかりだった。
レンは兄の姿を確かめると、真剣な表情で答えた。
「……ハーグリーヴスにすべて吐かせた」
「……なんだって?」
「セドリック卿のこともだ。兄上、もう何も心配はいらない」
その言葉に、エドガーは息を呑んだ。
ハーグリーヴスが何を話したのか。セドリックの関与を、レンたちはどこまで知っているのか。
聞きたいことはいくつもあったが、今はそれ以上に、弟がここまで来てくれたという事実が胸に迫っていた。
一方、ヴィクトリアはレンの言葉を聞いた途端、はっと目を見開いた。
「叔父様は……! 叔父様はどうなったのです!?」
セドリックが自分たちを閉じ込めたことは、ヴィクトリアも知っている。
それでも、幼い頃から自分を気にかけてくれた叔父のことを、簡単に割り切れるはずがなかった。
まして本城は、今も炎と煙に包まれている。叔父があの城にいるのなら、無事で済んでいるのだろうか。
ヴィクトリアの切迫した声に、レンが答えようとしたところで、カルミラが慌てて口を挟んだ。
「ちょちょちょ、ここで詳しく話してる時間ないんだよね。ここの屋敷の人も逃げてるみたいだから、早く逃げよう?」
確かに、今は事情を説明している場合ではなかった。
窓の外では本城の炎が見え、遠くからはまだ騒ぎの音が聞こえている。別邸の中も落ち着いた様子ではなく、このまま部屋に留まっていてよい状況ではなかった。
レンはヴィクトリアに視線を向けた。
「セドリック卿は……ルシエラ達と一緒に避難しているはずだ」
その表情には、苦々しいものが浮かんでいた。
セドリックが何をしたのか、レンはすでに知っている。兄を陥れ、ローレンス家を手に入れようとした男のことを、穏やかな気持ちで語れるはずもなかった。
それでも、今のレンにはセドリックが無事に避難したと断言することはできなかった。
エドガーは、弟の表情を静かに見つめていた。
レンは昔から、兄である自分のことになると、普段の冷静さを失いかけることがある。そのレンが、セドリックの名を口にした途端、これほど苦々しい顔をする。
自分たちが閉じ込められている間に、ただならぬ出来事があったのだろう。
しかし、今はそれを問いただす時ではない。
エドガーはヴィクトリアへ向き直った。
「ヴィカ、行こう」
ヴィクトリアはその言葉を受け、エドガーのそばに寄り添った。
ようやく、この部屋から出られる。
数日間、何度も脱出の方法を考えながら、それでもヴィクトリアを危険に晒すことを恐れて踏み出せなかった場所。その扉は今、カルミラによって跡形もなく蹴破られていた。
エドガーはもう一度、窓の外へ目を向けた。
湖の向こうでは、アシュクロフト侯爵居城の城壁や塔に炎が上がり、黒い煙が空へと立ち昇っている。
その光景を見つめるエドガーの瞳には、驚きと、まだ整理のつかない思いが浮かんでいた。
やがて彼は窓から視線を外し、ヴィクトリアとともにレンたちの後を追って、壊れた扉の向こうへと歩き出した。




