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エドガー・ローレンスの憂鬱  作者: ヒナツキスバル
第六章 灰燼のアシュクロフト
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兄弟の肖像

挿絵(By みてみん)


「待て」


炎と煙の渦巻く城内へ向かおうとしていた三人の背に、セドリックの低い声が響いた。


レンが足を止める。応接室の外では人々の叫び声が飛び交い、時折、何かが崩れるような音が聞こえていた。砕けた窓から流れ込む煙が、荒れ果てた室内を薄く覆っている。


セドリックは俯いたまま、しばらく何も言わなかった。


「……ハーグリーヴスか」


その名を聞いても、レンは答えなかった。


「……」

「あの男が口を割ったのだな……何を話した」


レンはゆっくりと振り返った。

セドリックを見据える灰色の瞳には、先ほどまでの穏やかさとは異なる鋭い光が宿っていた。


「……すべてです。セドリック卿……あなたが、兄をなんと呼んだかも」


レンの拳が固く握られる。

ハーグリーヴスの口から語られた数々の裏切り。その中でも、セドリックがエドガーを侮辱した言葉は、今なおレンの胸に焼き付いていた。


兄がどれほど領地のために尽くしてきたか。どれほど自分を後回しにして、人々の暮らしを守ろうとしてきたか。


それを知るレンにとって、エドガーを都合よく使える道具のように扱った言葉だけは、到底聞き流せるものではなかった。


「ハーグリーヴスは……すでに捕らえました」

「……なるほど。だから君たちは、最初から私を疑っていたのか」

セドリックは苦々しげに笑った。


先ほどまで侯爵家の権威を振りかざしていた男の声には、もはやレンたちを威圧するような勢いはなかった。


「……そこまでして、何故ローレンス家を手に入れようと……」

レンの問いに、セドリックは顔を上げた。


「この状況で思い出話か? 君はやはり大物だな」

皮肉めいた口調だったが、レンは何も言い返さなかった。


セドリックの視線が、ふと遠くへ向けられる。砕けた窓の向こうでは煙が立ち昇り、城のあちこちに炎が見えていた。


「……君には分からないだろう」

「……」

「君は、兄上を心から慕っているようだからね」


「……?」

レンはわずかに眉を寄せた。


兄を慕うことと、ローレンス家を手に入れようとした理由。その二つがどう結びつくのか、すぐには理解できなかった。


「……私にも、兄がいる。もっとも、エドガー君とは正反対のような兄だがね」


セドリックは、まるで窓の向こうに燃え広がる炎など見えていないかのように、不敵に笑った。


レンは黙ってその顔を見つめていた。


セドリックの兄は、現アシュクロフト侯爵である。だが、セドリックが何を思って兄のことを語ったのか、レンには分からなかった。


そのまま短い沈黙が流れた後、セドリックは唐突に口を開いた。


「エドガー君とヴィクトリアは、この城にはいないよ」

「なんだと……?」


レンが一歩、セドリックに詰め寄った。

先ほどまで窓の外に兄の姿を探し続けていたレンにとって、その言葉は思いもよらないものだった。


「ふっ、落ち着きたまえ。城の西側にある別邸だ。二人とも、そこにいる」


レンの表情が変わった。

ようやく兄の居場所が分かった。しかし、そこにいるというだけでは、エドガーが無事なのかどうかまでは分からない。


「……兄上は、ご無事なのですか」

「少なくとも、私が最後に確認した時にはね」


セドリックの答えは、それ以上の保証を含んでいなかった。

レンは唇を引き結んだ。今すぐにでも別邸へ向かいたい。しかし、目の前の男はまだ何かを言おうとしているようだった。


「……これで、君の望みは叶うだろう」

「……セドリック卿?」


セドリックは力なく息を吐いた。


「私はもう終わりだ」

その声は、妙に静かだった。


城内では今も人々が逃げ惑い、煙が窓から流れ込んでいる。それでもセドリックは、周囲の騒ぎに目を向けようとしなかった。


「……殺せ」

「…………」


レンは言葉を失った。


「どうした。君なら容易いことだろう。剣を抜けばいい」


セドリックはレンを見据えた。

その視線には、先ほどまでの傲慢な態度とは異なる、投げやりなものがあった。


レンは腰の剣に手を伸ばさなかった。


「……俺は、あなたを殺すために来たのではありません」


静かな返答だった。


セドリックが兄を侮辱したことも、ハーグリーヴスと共謀してローレンス家を陥れようとしたことも、許せるわけではない。


だが、レンがここへ来た目的は、初めから一つしかなかった。


兄を迎えに来たのだ。



「……君は、不思議な青年だ」


「……?」


「それほどの力を持ちながら、兄の下にいることを望むのか」


レンは少しだけ不思議そうな顔をした。

セドリックの言葉は、レンにとって意外なものだった。自分が兄の下にいるかどうかなど、これまで考えたこともなかったからだ。


「……上か下かなどと考えたことはありません。兄上は兄上で、俺は俺です」

レンは迷わず答えた。


エドガーにはエドガーにしかできないことがあり、自分には自分にできることがある。兄が領地を治めることも、自分が剣を振るうことも、レンにとっては優劣を比べるようなものではなかった。


何より、エドガーは自分が幼い頃から尊敬してきた兄である。


どれほど剣の腕を磨こうと、どれほど武功を挙げようと、そのことが変わるはずもなかった。


「…………そうか」


セドリックはしばらくレンを見つめていた。

やがて、その視線がゆっくりと落ちる。


「……君は、私とは違うのだな」


レンは何も答えなかった。


セドリックが何を思ってそう言ったのか、今のレンには分からない。ただ、その言葉を聞いた時、これまで自分を威圧し続けていた男が、ひどく疲れたように見えた。


「場所がわかったなら早く行け」

それまで黙っていたセヴランが口を挟んだ。

彼はレンとカルミラに目を向け、先を急ぐよう促した。


レンも頷いた。今はセドリックの事情を聞いている場合ではない。エドガーとヴィクトリアが無事かどうか、一刻も早く確かめなければならなかった。


「俺たちもここを出るぞ。立てよ」

セヴランがセドリックに声をかけた。


「置いていけ」

セドリックは動こうとしなかった。


「……何もかも失った。もはや生きる意味などない」


その言葉には、先ほどレンに殺せと告げた時と同じ、諦めが滲んでいた。


ルシエラが静かに口を開いた。


「……それは、あなたが決めることではありません」


「……何?」


セドリックが顔を上げる。


ルシエラはまっすぐに彼を見つめていた。


「簡単に投げ出すことを命は赦してはくれません」


セドリックの口元に、かすかな苦笑が浮かんだ。


「……聖女様は、ずいぶんと残酷なことを仰る」


生きる意味を失ったと告げる男に、生き続けろと言う。それがどれほど厳しい言葉であるか、ルシエラにも分かっていた。


だが、彼女は目を逸らさなかった。


「もちろん、生きて償うことは辛いことでしょう。ですが、その向こうには夜明けがあります。必ず」



挿絵(By みてみん)

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