兄弟の肖像
「待て」
炎と煙の渦巻く城内へ向かおうとしていた三人の背に、セドリックの低い声が響いた。
レンが足を止める。応接室の外では人々の叫び声が飛び交い、時折、何かが崩れるような音が聞こえていた。砕けた窓から流れ込む煙が、荒れ果てた室内を薄く覆っている。
セドリックは俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
「……ハーグリーヴスか」
その名を聞いても、レンは答えなかった。
「……」
「あの男が口を割ったのだな……何を話した」
レンはゆっくりと振り返った。
セドリックを見据える灰色の瞳には、先ほどまでの穏やかさとは異なる鋭い光が宿っていた。
「……すべてです。セドリック卿……あなたが、兄をなんと呼んだかも」
レンの拳が固く握られる。
ハーグリーヴスの口から語られた数々の裏切り。その中でも、セドリックがエドガーを侮辱した言葉は、今なおレンの胸に焼き付いていた。
兄がどれほど領地のために尽くしてきたか。どれほど自分を後回しにして、人々の暮らしを守ろうとしてきたか。
それを知るレンにとって、エドガーを都合よく使える道具のように扱った言葉だけは、到底聞き流せるものではなかった。
「ハーグリーヴスは……すでに捕らえました」
「……なるほど。だから君たちは、最初から私を疑っていたのか」
セドリックは苦々しげに笑った。
先ほどまで侯爵家の権威を振りかざしていた男の声には、もはやレンたちを威圧するような勢いはなかった。
「……そこまでして、何故ローレンス家を手に入れようと……」
レンの問いに、セドリックは顔を上げた。
「この状況で思い出話か? 君はやはり大物だな」
皮肉めいた口調だったが、レンは何も言い返さなかった。
セドリックの視線が、ふと遠くへ向けられる。砕けた窓の向こうでは煙が立ち昇り、城のあちこちに炎が見えていた。
「……君には分からないだろう」
「……」
「君は、兄上を心から慕っているようだからね」
「……?」
レンはわずかに眉を寄せた。
兄を慕うことと、ローレンス家を手に入れようとした理由。その二つがどう結びつくのか、すぐには理解できなかった。
「……私にも、兄がいる。もっとも、エドガー君とは正反対のような兄だがね」
セドリックは、まるで窓の向こうに燃え広がる炎など見えていないかのように、不敵に笑った。
レンは黙ってその顔を見つめていた。
セドリックの兄は、現アシュクロフト侯爵である。だが、セドリックが何を思って兄のことを語ったのか、レンには分からなかった。
そのまま短い沈黙が流れた後、セドリックは唐突に口を開いた。
「エドガー君とヴィクトリアは、この城にはいないよ」
「なんだと……?」
レンが一歩、セドリックに詰め寄った。
先ほどまで窓の外に兄の姿を探し続けていたレンにとって、その言葉は思いもよらないものだった。
「ふっ、落ち着きたまえ。城の西側にある別邸だ。二人とも、そこにいる」
レンの表情が変わった。
ようやく兄の居場所が分かった。しかし、そこにいるというだけでは、エドガーが無事なのかどうかまでは分からない。
「……兄上は、ご無事なのですか」
「少なくとも、私が最後に確認した時にはね」
セドリックの答えは、それ以上の保証を含んでいなかった。
レンは唇を引き結んだ。今すぐにでも別邸へ向かいたい。しかし、目の前の男はまだ何かを言おうとしているようだった。
「……これで、君の望みは叶うだろう」
「……セドリック卿?」
セドリックは力なく息を吐いた。
「私はもう終わりだ」
その声は、妙に静かだった。
城内では今も人々が逃げ惑い、煙が窓から流れ込んでいる。それでもセドリックは、周囲の騒ぎに目を向けようとしなかった。
「……殺せ」
「…………」
レンは言葉を失った。
「どうした。君なら容易いことだろう。剣を抜けばいい」
セドリックはレンを見据えた。
その視線には、先ほどまでの傲慢な態度とは異なる、投げやりなものがあった。
レンは腰の剣に手を伸ばさなかった。
「……俺は、あなたを殺すために来たのではありません」
静かな返答だった。
セドリックが兄を侮辱したことも、ハーグリーヴスと共謀してローレンス家を陥れようとしたことも、許せるわけではない。
だが、レンがここへ来た目的は、初めから一つしかなかった。
兄を迎えに来たのだ。
「……君は、不思議な青年だ」
「……?」
「それほどの力を持ちながら、兄の下にいることを望むのか」
レンは少しだけ不思議そうな顔をした。
セドリックの言葉は、レンにとって意外なものだった。自分が兄の下にいるかどうかなど、これまで考えたこともなかったからだ。
「……上か下かなどと考えたことはありません。兄上は兄上で、俺は俺です」
レンは迷わず答えた。
エドガーにはエドガーにしかできないことがあり、自分には自分にできることがある。兄が領地を治めることも、自分が剣を振るうことも、レンにとっては優劣を比べるようなものではなかった。
何より、エドガーは自分が幼い頃から尊敬してきた兄である。
どれほど剣の腕を磨こうと、どれほど武功を挙げようと、そのことが変わるはずもなかった。
「…………そうか」
セドリックはしばらくレンを見つめていた。
やがて、その視線がゆっくりと落ちる。
「……君は、私とは違うのだな」
レンは何も答えなかった。
セドリックが何を思ってそう言ったのか、今のレンには分からない。ただ、その言葉を聞いた時、これまで自分を威圧し続けていた男が、ひどく疲れたように見えた。
「場所がわかったなら早く行け」
それまで黙っていたセヴランが口を挟んだ。
彼はレンとカルミラに目を向け、先を急ぐよう促した。
レンも頷いた。今はセドリックの事情を聞いている場合ではない。エドガーとヴィクトリアが無事かどうか、一刻も早く確かめなければならなかった。
「俺たちもここを出るぞ。立てよ」
セヴランがセドリックに声をかけた。
「置いていけ」
セドリックは動こうとしなかった。
「……何もかも失った。もはや生きる意味などない」
その言葉には、先ほどレンに殺せと告げた時と同じ、諦めが滲んでいた。
ルシエラが静かに口を開いた。
「……それは、あなたが決めることではありません」
「……何?」
セドリックが顔を上げる。
ルシエラはまっすぐに彼を見つめていた。
「簡単に投げ出すことを命は赦してはくれません」
セドリックの口元に、かすかな苦笑が浮かんだ。
「……聖女様は、ずいぶんと残酷なことを仰る」
生きる意味を失ったと告げる男に、生き続けろと言う。それがどれほど厳しい言葉であるか、ルシエラにも分かっていた。
だが、彼女は目を逸らさなかった。
「もちろん、生きて償うことは辛いことでしょう。ですが、その向こうには夜明けがあります。必ず」




