父の決意
ローレンス辺境伯居城の大広間には、まだ重苦しい空気が漂っていた。
聖女ルシエラの「審判」によって、長年ローレンス家に仕えてきたハーグリーヴスの不正と陰謀が明らかになった。領内の公金を横領し、アシュクロフト家と結託して領政の実権を奪おうとしていたこと。そして、その障害となるエドガーを陥れるため、長年にわたって工作を続けていたこと。
あまりにも衝撃的な告白に、居並ぶ家臣たちは動揺を隠せずにいた。
ハーグリーヴスはすでに連行されている。レンに斬り落とされた右腕はルシエラの回復魔法によって繋がれたものの、以前のように動かすことは難しいだろう。
そのレンはというと、広間の床に横たわったまま、まだ意識を取り戻していなかった。
「レン……レン!」
カルミラが傍らにかがみ込み、レンの頬を軽く叩いた。
ぺちぺちと頬を叩かれる感触に、レンはようやく瞼を開いた。
「……ん?」
目の前には、こちらを覗き込むカルミラの顔があった。
どうやら少しの間、気を失っていたらしい。
ぼんやりとした意識の中で、直前の出来事が少しずつ蘇ってくる。
「そうだ…俺はミラに後から殴られて…」
「あ、それは覚えてるんだ。」
カルミラがくすりと笑った。
レンはゆっくりと体を起こした。後頭部に鈍い痛みが残っている。何が起こったのかを思い返すうちに、ハーグリーヴスへ剣を振るった瞬間が鮮明に蘇った。
自分は確かに、あの男の右腕を斬り落とした。
「ハーグリーヴスは……?」
その問いに答えたのは、傍らに立ったセヴランだった。
「お前が切った腕くっつけてもらって、連行されたよ。まあ、あれじゃもう帳簿は書けねぇだろうけどな」
「………」
レンは何も言わなかった。
ハーグリーヴスが語った言葉を思い出す。
兄の能力を疎み、健康状態を利用して職務から遠ざけ、挙げ句の果てには他家の道具として利用しようとしていた。
そして、セドリックがエドガーを「頭のいい犬」と呼んだという、あの侮辱。
思い返すだけでも怒りが込み上げてくる。
そんなレンの横顔を見て、カルミラは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
「…ゴメンね、レン。止めてあげらんなくって」
カルミラは、レンがどれほど兄を大切に思っているか知っていた。だからこそ、あの言葉を聞いて激昂した気持ちも理解できた。
それでも、剣を抜く前に止めてやれなかったことが心残りだった。
「いや、いい…兄上を侮辱された相手に何も報いなければ逆に後悔したはずだ」
レンは静かに答えた。
その声には、先ほどまでの激しい怒りはなかった。しかし、自分の行動を悔いている様子もなかった。
兄をあれほどまでに貶めた相手を、何もせずに見過ごすことなどできなかった。それだけは、今も変わらない思いだった。
やがてレンは立ち上がり、改めて父親の方へ向き直った。
リチャード・ローレンス辺境伯は、領主の席に座ったまま、静かに息子を見つめていた。
レンはその前に進み出ると、片膝をついて頭を下げた。
「……父上の御前で剣を抜いてしまったことだけはお詫びします」
いかなる理由があろうとも、辺境伯の御前で剣を抜いたことは、決して軽い行為ではない。
だが、リチャードは息子を咎めなかった。
「構わん…私もお前の立場ならああしたかもしれん」
その言葉には、父親としての率直な思いが込められていた。
リチャード自身、武人として長く生きてきた男だった。大切な者を侮辱され、踏みにじられたときの怒りがどのようなものか、理解できないはずがなかった。
しかし、その表情は晴れなかった。
「レン……私は、お前ほどではないが、剣を振るうことならば、誰にも後れを取らぬつもりでいた」
リチャードは一度言葉を切った。
「だが、領地を治めることとなると、どうにも不得手でな。ハーグリーヴスには長く任せきりにしていた」
辺境伯として領地を守り、家臣たちを率いる。その責務を果たしてきたつもりだった。
だが、複雑な帳簿や領政の細かな取り決めとなると、どうにも性に合わなかった。だからこそ、長年仕えてきたハーグリーヴスの手腕を信頼し、多くを委ねてきたのである。
「奴が私の信頼を盾に、あれほどの野心を育てていたとは……」
リチャードの声が沈んだ。
信頼していた家臣は、その信頼を利用していた。
自分が目を向けなかった場所で公金を奪い、嫡男の能力を疎んじ、領地そのものを他家の手に渡そうとしていた。
「領民の金を奪われ、エドガーを追い詰め、それでも気づかなかった。これは私の失態だ」
「父上……」
レンは顔を上げた。
父がこれほど深く悔いている姿を見るのは、珍しいことだった。
リチャードは息子から目を逸らさなかった。
「お前たちにも、エドガーにも、詫びねばならぬ」
その言葉に、レンはすぐには答えられなかった。
父がハーグリーヴスを信頼していたことは知っている。領地を守るために、これまで剣を振るい続けてきたことも。
だが、その一方で、兄がどれほど苦労してきたのかを思うと、簡単に言葉を返すことはできなかった。
リチャードはしばらく息子を見つめたあと、改めて口を開いた。
「レン。改めて言っておく」
「はい」
「ローレンス辺境伯家の跡取りは、エドガーだ。今までもこの先も、それは変わらぬ」
「……はい」
レンは深く頷いた。
それは、彼自身がずっと望んできたことだった。
兄こそが次期当主にふさわしい。その思いに、迷いなど一度もなかった。
「お前の武勇は、父として誇らしい。だが、エドガーにはエドガーの才がある」
リチャードは穏やかに続けた。
「私が剣で守ってきたこの領地を、あれは知恵と誠実さで守ろうとしている」
その言葉を聞いたレンの胸に、静かな喜びが広がった。
父は兄の働きを、きちんと見ていたのだ。
エドガーは剣を振るうことこそ得意ではないが、領民の暮らしに心を配り、複雑な問題を一つ一つ解決しようとする。誰よりも責任感が強く、自分の体を顧みずに働いてしまうことさえある。
その姿を、レンは幼い頃からずっと尊敬していた。
「……兄上は、俺よりずっと立派な方です。」
レンがそう答えると、リチャードはわずかに眉を寄せた。
「そうやって自分を下げるな。お前たちは、どちらも私の誇りだ」
レンは思わず父を見上げた。
リチャードの表情には、先ほどまでの厳しさとは違う、父親らしい温かさがあった。
レンの武勇と、エドガーの知恵。
どちらもローレンス家にとって大切なものであり、比べて優劣をつけるようなものではない。
リチャードは、二人の息子をそれぞれ誇りに思っていた。
レンはその言葉を胸に受け止め、静かに頭を下げた。
しかし、父子の間に流れた穏やかな空気は、長くは続かなかった。
「……それから、レン。エドガーのことだ」
リチャードの表情が再び険しくなる。
その名を聞いた瞬間、レンは顔を上げた。
「そうだ、兄上は何処に……!」
ハーグリーヴスの告白によって、兄が置かれている状況は、もはや単なる療養などでは済まされないものになっていた。
リチャードは重々しく口を開いた。
「ハーグリーヴスの話が真実ならば、エドガーとヴィクトリア嬢は、セドリック卿によって自由を奪われている」
「…………」
レンは唇を引き結んだ。
兄の馬車が城になかったこと。執事から聞かされた、アシュクロフト家で療養しているという説明。そして、帰還の予定さえ分からないという不自然な状況。
そのすべてが、今は恐ろしい意味を持っていた。
「居場所までは分からぬ。だが、アシュクロフト家が関与していることは間違いあるまい」
リチャードの言葉を聞き終えると、レンは迷うことなく答えた。
「……では、行きます」
「レン?」
「兄上を迎えに行きます。アシュクロフトへ」
その声は静かだった。
だが、そこには誰にも揺るがすことのできない決意があった。
兄がどこにいるのか、今どのような状況に置かれているのか、まだ何も分からない。
それでも、向かうべき先は明らかだった。
レンが立ち上がろうとしたとき、ルシエラが声をかけた。
「レン、お待ちなさい」
「……ルシエラ?」
ルシエラは真剣な表情でレンを見つめていた。
「アシュクロフト家は侯爵家です。どれほど非があろうとも、正式な交渉を経ずに踏み込めば、両家の争いに発展しかねません」
その指摘は、決して軽視できるものではなかった。
アシュクロフト家はローレンス家よりも格上の侯爵家である。たとえ相手に非があるとしても、正式な手続きを踏まずに行動すれば、事態は両家の対立へと発展しかねない。
エドガーとヴィクトリアは婚約関係にある。
「まして、エドガー様とヴィクトリア様の婚約もあるでしょう。今後の関係を考えれば、慎重に……」
ルシエラは言葉を選びながら、穏便な解決の可能性を示そうとした。
しかし、その言葉を遮ったのはリチャードだった。
「……ルシエラ嬢」
「はい」
ルシエラが辺境伯へ向き直る。
リチャードは領主の席に座ったまま、静かに、しかし揺るぎない声で告げた。
「長年に渡り公金を吸い取られ、嫡男を取られ……
ここまで虚仮にされて、こちらも穏便にとは考えていない」
その表情には、もはや迷いはなかった。
ハーグリーヴスを信頼し、領政を任せきりにしていたことは自分の失態である。その責任から逃れるつもりはない。
だが、だからといって、アシュクロフト家の行いを見過ごすつもりもなかった。
領民のために使われるべき金を奪われ、息子を陥れられ、さらにはその身柄まで自由にされている。
それほどの仕打ちを受けてなお、相手の顔色を窺う理由などなかった。
リチャードはレンへ視線を戻した。
「レン」
「はい、父上」
父と息子の視線が交わった。
「……行ってくれ」
その一言に、レンは息を呑んだ。
傍らにいたカルミラ、セヴラン、ルシエラも互いに顔を見合わせる。
ローレンス辺境伯は、四人がエドガーとヴィクトリアを救出するためにアシュクロフト家へ向かうことを、正式に認めたのだった。
レンは改めて父を見つめ、力強く頷いた。
「はい……!」
その返事に、もはや迷いはなかった。
カルミラも、セヴランも、ルシエラも、レンとともに向かう覚悟を決めていた。
エドガーとヴィクトリアがどこに囚われているのか、まだ誰にも分からない。
それでも、四人が次に向かう場所は決まった。
アシュクロフト家。
レンは父の決断を胸に、兄を迎えに行く決意を固めた。




