追憶の愛称
「ヴィカ…おいで、私のヴィカ…」
優しい声が聞こえる。
幼いヴィクトリアが覚えている母は、いつも白いベッドの上にいた。
柔らかな枕に身を預け、少し痩せた顔に微笑みを浮かべて、自分を迎えてくれる。差し伸べられた手に駆け寄ると、母は決まってヴィクトリアの頬を撫でてくれた。
「ヴィカは侯爵家の娘として、どこに出しても恥ずかしくない良い子だわ」
そう褒めてもらえるのが、何よりも嬉しかった。
侯爵家の令嬢として、ヴィクトリアには幼い頃から厳しい教育が課せられていた。家庭教師の授業も礼儀作法の稽古も、決して楽しいことばかりではなかったが、母の笑顔が待っていると思えば、どんなに厳しいレッスンにも耐えられた。
「美人で賢くて…大人になったら、どんなに素晴らしい女性になるでしょう」
母の手が、愛おしそうに頬を撫でる。
その温もりも、優しい声も、ヴィクトリアは大好きだった。
けれど、母はヴィクトリアが四歳の時にこの世を去った。
それから、彼女を取り巻く世界はすっかり変わってしまった。
父は喪も明けないうちに、使用人として屋敷に仕えていた子爵家の娘を後添いに迎えた。やがてヴィクトリアには妹が生まれ、続いて弟も生まれた。
新しい母となった女性は、最初のうちこそヴィクトリアと仲良くしようとしていた。
「ヴィカ、おいでなさい。今日はあなたの好きなお菓子を用意したのよ」
優しく手招きする継母を、幼いヴィクトリアは冷ややかに見つめた。
「……その名前で呼ばないで」
「え?」
「その名を呼んでいいのは、お母さまだけです」
継母は一瞬言葉を失ったものの、すぐに笑顔を取り繕った。
「……そう。でも、わたくしもあなたのお母さまになるのよ?」
「違います! わたくしのお母さまは、もういらっしゃいません!」
ヴィクトリアにとって、「ヴィカ」は母が愛情を込めて呼んでくれた特別な名前だった。
あの白いベッドの上で、いつも自分を待っていてくれた母。その人がもう二度と帰ってこないことは、幼いながらにも理解していた。だからこそ、ほかの誰かが母と同じように自分を呼ぶことが、どうしても許せなかった。
そんなやり取りが繰り返されるうちに、継母の態度は次第に変わっていった。
初めは取り繕っていた笑顔も、やがてヴィクトリアに向けられることはなくなった。代わりに向けられるようになったのは、隠しきれない憎しみの眼差しだった。
「お前も私を下級貴族の娘だと馬鹿にしているんだろう!?」
人目のないところで、そう怒鳴られることが増えた。
時には頬を打たれることもあった。
何が継母の怒りに触れるのか、幼いヴィクトリアには分からなかった。ただ、屋敷の中では決して隙を見せてはいけないのだということだけは、次第に身に染みていった。
侯爵家の娘として、誰にも恥じることのない振る舞いをする。背筋を伸ばし、礼儀正しく、弱いところなど見せない。
それは母が喜んでくれた姿であり、いつしかヴィクトリアが自分を守るための鎧にもなっていた。
そんな彼女を、叔父のセドリックが自分の別邸に置くようになったのは、この頃だった。
継母の顔色を窺いながら暮らす日々から離れられたことは、ヴィクトリアにとって大きな救いだった。
母を失い、父の再婚によって居場所さえ失いかけていた自分を、叔父は守ってくれた。
だからヴィクトリアは、セドリックを心から信頼していた。
◇
初めてローレンス辺境伯の居城を訪れたのは、七歳の時だった。
「ヴィクトリア、お前は将来、この人と結婚するんだよ」
セドリックにそう紹介された少年は、ヴィクトリアより四歳年上だった。
十一歳のエドガー・ローレンスは、七歳のヴィクトリアから見れば、ずいぶんと大人びたお兄さまに見えた。
穏やかな表情で自分を見つめるその少年は、将来の結婚相手として紹介されたものの、まだ幼い自分には似つかわしくないほど立派に思えた。
ヴィクトリアは教え込まれた通り、スカートの裾をつまんで優雅に一礼した。
「ヴィクトリア・アシュクロフトでございます」
「よろしくね、ヴィクトリア」
エドガーは柔らかく微笑んだ。
そのときだった。
華麗にお辞儀をするヴィクトリアのスカートを、後ろから小さな手がつんつんと引っ張った。
「きゃあ!」
「こら、レン!」
エドガーが慌てて声を上げる。
ヴィクトリアが振り返ると、そこには黒髪の小さな男の子が立っていた。
「驚かせてごめんね、ヴィクトリア。弟のレナードだよ。君の1歳下だ。」
エドガーが紹介し終えるより早く、少年は元気いっぱいに声を上げた。
「ヴィクトリア!あっちで剣のけいこしよう!」
「レン、ヴィクトリアは女の子だから剣の稽古はしないんだ。」
「でも、ヴィクトリアはつよそうだ!」
レンは大真面目だった。
初対面の令嬢を相手に何を言い出すのかとヴィクトリアは面食らったが、エドガーは弟の顔を見て、少し困ったように笑った。
「なんだろう、仲良くしたいのかな?」
どうやら弟なりの歓迎らしい。
「じゃあ、レン。ヴィクトリアに庭を案内してあげて」
「わかった!あにうえ!」
返事をするなり、レナードはヴィクトリアの手を取って走り出した。
「ちょ、ちょっと待ってくださいな」
「レン!走るんじゃないよ!」
背後からエドガーの声が追いかけてきたが、レナードはお構いなしだった。
ヴィクトリアはスカートを乱さないよう必死に足を動かしながら、初めて訪れたローレンス家の庭園へと連れていかれた。
やがて二人は、庭園の中にあるあずま屋にたどり着いた。
「まあ…ここはお花がいっぱいですのね」
辺りには美しく手入れされた花々が咲き、緑の枝葉があずま屋を囲んでいた。
ヴィクトリアが感心して眺めていると、レナードは得意げに胸を張った。
「ここでは、『にわし』がおおきなハサミをもって、シャキーン!って切るんだ!」
そう言うなり、腰に差していた小さな木剣を抜き、勢いよく振り下ろしてみせた。
「まあ、レナード様…お上手」
ヴィクトリアが褒めると、レナードはますます得意になって木剣を振り回した。
その様子をしばらく眺めていたヴィクトリアは、ふと足元に目を落とした。
ベンチのすぐそばに、何やら黒い塊がある。
漬物石のように大きく、ずんぐりとしたそれは、よく見ると生き物だった。
「きゃあ!」
思わず悲鳴を上げると、レナードも足元を覗き込んだ。
「うわあ!でっかいカエル!」
そこには、見たこともないほど大きなカエルが鎮座していた。
カエルはまるで動く気配がなかったが、よりによってあずま屋の出口を塞ぐような場所にいる。
外へ出るには、どうしてもその上を跨がなければならなかった。
ヴィクトリアは青ざめた。
あの黒くてぬめぬめしていそうな体が、自分のスカートに触れたらどうしよう。そう考えただけで、泣きそうになってしまう。
「レナード様、その剣でカエルを追い払えませんの…?」
頼みの綱は、先ほどまで勇ましく木剣を振り回していたレナードだった。
しかし、少年もまた顔を引きつらせていた。
「む、むりだよー。だってこれで叩いたら、あいつベチョベチョして……うわーん!あにうえー!」
想像してしまったらしい。
レナードは木剣を握りしめたまま、とうとう泣き出してしまった。
その声を聞いた途端、ヴィクトリアも我慢できなくなった。
侯爵家の娘は人前で泣いたりしない。そう自分に言い聞かせても、目から涙がこぼれてしまう。
二人はあずま屋の中で抱き合い、声を上げて泣いた。
しばらくすると、庭の向こうからエドガーが走ってくるのが見えた。
「どうしたんだい?二人とも。」
「ひっく…カエルがぁ…」
「カエル!?」
レンの指差す先を見て、エドガーは事情を理解したようだった。
彼は手近にあった木の枝を手折ると、その先でカエルを軽くつついた。
すると、あれほど頑として動かなかったカエルが、のそのそとあずま屋の外へ出ていった。
「さあ、これで大丈夫」
エドガーは何事もなかったように笑った。
そしてヴィクトリアの顔を覗き込むと、少し申し訳なさそうな表情になった。
「ヴィクトリア、泣いてしまったの?ごめんね。来るのが遅くなって」
取り出したハンカチで、彼女の頬に残る涙の跡を優しく拭ってくれる。
ヴィクトリアは思わず顔を背けた。
「……泣いていません」
つい先ほどまでレナードと抱き合って泣いていたのだから、そんな言い訳が通るはずもなかった。
けれど、エドガーは不思議そうに首を傾げただけだった。
「……? そう?大丈夫なら良かった」
そう言って、いつもの穏やかな笑顔を向けてくれた。
泣いていたことをからかうでもなく、強がりを咎めるでもない。
その優しさが、幼いヴィクトリアには少しくすぐったかった。
◇
それからも、ヴィクトリアは定期的にローレンス辺境伯の居城を訪れるようになった。
エドガーはいつも穏やかで、彼女がどれほど礼儀正しく振る舞っても、必要以上に感心したり褒めそやしたりすることはなかった。
ただ、自然に接してくれた。
ある日のこと、二人は城のテラスでお茶を飲んでいた。
ヴィクトリアはいつものように背筋をぴんと伸ばし、侯爵家で叩き込まれた礼儀作法を忠実に守っていた。
カップを持つ手も、椅子に腰掛ける姿勢も、隙のない令嬢そのものだった。
そんな彼女を眺めていたエドガーが、感心したように口を開いた。
「ヴィクトリアは、いつも背筋がまっすぐだね」
「当然ですわ。アシュクロフト侯爵家の娘ですもの」
ヴィクトリアは少し誇らしげに答えた。
ところが、エドガーは思いがけないことを尋ねた。
「疲れない?」
「……何がですの?」
「ずっと、ちゃんとしているの」
ヴィクトリアは目を瞬かせた。
そんなことを聞かれたのは初めてだった。
礼儀正しくあることも、背筋を伸ばしていることも、侯爵家の娘なら当然のことだ。そう教えられてきたし、それを疑ったこともなかった。
「……わたくしは、いつもこうですわ」
「そっか。でも、うちではそんなにがんばらなくていいよ」
「……え?」
ヴィクトリアは思わずエドガーを見つめた。
がんばらなくていいよ。
そんな言葉を掛けられたことは、これまで一度もなかった。
母はいつも、自分が立派な侯爵令嬢になることを喜んでくれた。家庭教師たちはもっと上手に、もっと美しく、もっと完璧にと教え続けた。
継母の前では、少しでも弱みを見せれば何を言われるか分からなかった。
叔父のセドリックも、ヴィクトリアが優秀であることを誇りに思ってくれていた。
だから、頑張ることは当たり前だった。
けれど、目の前の少年は、そんな自分に頑張らなくてもいいと言った。
エドガーは特別なことを言ったつもりもないらしく、ただ柔らかく微笑んでいる。
その笑顔を見ていると、不思議と胸の奥が温かくなった。
お母さま。
叔父様。
エドガーさま。
ヴィクトリアの中の「とくべつ」が、一つ増えた瞬間だった。
「……エドガーさまって、変わってらっしゃるのね!」
「そうかな?」
エドガーはきょとんとした顔で首を傾げた。
本当は、もっと別のことを言いたかったのかもしれない。
けれど、なんとなく気恥ずかしくて、そんな言葉しか出てこなかった。
ヴィクトリアは少し迷ったあと、改めてエドガーを見つめた。
「……エドガーさまは、ヴィカと呼んでもよろしくてよ」
「ヴィカ?」
エドガーは不思議そうに繰り返した。
「お母さまとエドガーさまだけ呼んでもいい呼び名ですの」
ヴィクトリアにとって、それはとても大切な申し出だった。
亡くなった母が自分を呼んでくれた、たった一つの特別な名前。
継母にさえ許さなかったその呼び名を、エドガーには使ってほしいと思った。
けれど、エドガーはその意味の深さまでは分かっていないようだった。
「……じゃあ、ヴィカ?」
「ええ」
ヴィクトリアは満足そうに微笑んだ。
エドガーもつられるように笑った。
その何気ないやり取りが、彼女にとってどれほど大切な思い出になるのか、きっとエドガーは知らなかった。
そして、その頃にはもう、ヴィクトリアの胸の中には幼い恋心が芽生えていた。
優しくて、少し頼りなさそうで、いつも穏やかに笑っているエドガー。
立派な侯爵令嬢でなくても、無理に背筋を伸ばしていなくても、そのままの自分を受け入れてくれる人。
ヴィクトリアは、そんなエドガーが好きだった。
ずっと、ずっと昔から。
◇
ふと、ヴィクトリアは目を覚ました。
辺りは静まり返っていた。
夜更けのアシュクロフト家別邸。窓の外は暗く、客室には夜の静けさが満ちている。
夢だったのだ。
幼い頃の母の声も、継母とのつらい記憶も、ローレンス家の庭園で泣いた日のことも。
そして、エドガーが初めて自分を「ヴィカ」と呼んでくれた日のことも。
ヴィクトリアはしばらく目を開けたまま、夢の余韻に浸っていた。
叔父の裏切りを知った今、幼い頃の記憶は以前とは違う痛みを伴っていた。
あの頃、自分を救い出してくれた叔父のことを、心から信じていた。
その信頼が崩れてしまった悲しみは、まだ胸の奥に重く残っている。
けれど、夢の中で見たエドガーの笑顔だけは、少しも変わっていなかった。
ヴィクトリアはそっと隣に目を向けた。
同じ寝台の少し離れたところで、エドガーが背を向けて眠っていた。
規則正しい寝息が聞こえる。
心身ともに疲れ切っているはずの彼は、今は静かに眠っていた。
ヴィクトリアはその背中に、そっと手を伸ばした。
指先に伝わる温もりを確かめるように、優しく触れる。
……エドガー様。
わたくし、幼い頃からずっとあなたが好きでしたのよ。
あなたは、きっとご存知ないのでしょうけど
エドガーは昔から変わらなかった。
自分がどれほど傷ついていても、まず相手のことを心配してしまう。自分のしたことを誇るどころか、何かあるたびに自分を責めてしまう。
幼い頃、泣いていた自分を助けてくれたときもそうだった。
彼にとっては、きっと何でもないことだったのだろう。
けれど、ヴィクトリアは覚えている。
泣いていないと強がった自分を、そのまま受け入れてくれたことも。
頑張らなくていいと言ってくれたことも。
何のためらいもなく、ヴィカと呼んでくれたことも。
その一つ一つが、どれほど自分を救ってくれたことか。
ヴィクトリアは少しだけ体を寄せ、エドガーの背中にそっと身を寄せた。
そして、眠りを妨げないように気をつけながら、後ろから彼を抱きしめた。
……今度は、わたくしがあなたをお守りしますわ…
「うーん……」
エドガーが小さく寝息混じりの声を漏らした。
起こしてしまったかしら、とヴィクトリアが思ったとき、エドガーの手がゆっくりと動いた。
彼は目を覚まさないまま、自分の体に回されたヴィクトリアの腕に、そっと手を重ねた。




