仮面と閂
「エドガー様……」
ヴィクトリアの声に、エドガーはうっすらと目を開けた。
「………ん……」
見慣れない天井が目に入る。
そうだった。ここはアシュクロフト家の別邸だ。
到着してから用意された寝台に入り、そのまま少し眠っていたらしい。まだ身体は重く、頭の奥には熱の名残があったが、馬車の中で感じていたひどい倦怠感は、幾分和らいでいた。
ヴィクトリアの滑らかな手が、そっと額に触れた。
「お熱は少し下がったようですわ……でもだいぶ汗をかかれたのかしら。お体を拭きますから、お召し替えを致しましょう」
そう言って、ヴィクトリアの手がエドガーの襟元へ伸びる。
「わわっ、ヴィカ! 一人でできるから大丈夫だよ!」
エドガーは慌てて身を起こした。
看病してもらうことには、少しずつ慣れてきたつもりだった。けれど、さすがに着替えまで手伝ってもらうのは気恥ずかしい。
「……そうですの?」
ヴィクトリアは少し口を尖らせた。
せっかく世話をしようと思ったのに、とでも言いたげな表情だった。
その様子に、エドガーは申し訳なさを覚えたが、だからといって着替えを任せる勇気もなかった。
「もうすぐ食事の支度が出来るそうですの。セドリック叔父様もいらっしゃるそうですから、召し上がれそうなら召し上がってくださいな」
「……ああ、支度が出来たら行くよ」
ヴィクトリアはまだ少し心配そうにエドガーを見つめていたが、彼が頷くと、ようやく納得したようだった。
◇
その日の夕食は、客室内に設けられた食事スペースで用意された。
大きなダイニングテーブルには料理が並び、エドガーとヴィクトリア、そしてセドリックの三人が席に着いていた。
食事は穏やかな雰囲気で始まった。
セドリックは気さくに話しかけ、ヴィクトリアも叔父との会話を楽しんでいる。エドガーも時折相槌を打ちながら、無理のない範囲で食事を口に運んでいた。
もっとも、エドガーにとってアシュクロフト家の人々との会話は、昔から少しばかり苦手なものだった。
セドリックもヴィクトリアもそうだが、アシュクロフト侯爵家の関係者には闊達で雄弁な人物が多い。
それに比べて、ローレンス辺境伯家はどちらかといえばのんびりした家風だった。
そんな環境で育ったエドガーは、彼らの堂々とした物言いを前にすると、どうしても気後れしてしまう。
今日も、セドリックの話に耳を傾けながら、静かに微笑んでいることのほうが多かった。
「……そういえば」
ふと、セドリックがワイングラスを傾けながらヴィクトリアを見た。
「エドガー君が調べていたという、グレイヴスの件はその後進んだのかね?」
「………!?」
エドガーの手が、ぴたりと止まった。
ヴィクトリアは特に不思議そうな様子もなく答えた。
「それが、エドガー様ったらまだ確かではないからと言って、わたくしにもお話してくださいませんのよ」
……ヴィクトリア……話していたのか……。
エドガーは内心で息を呑んだ。
彼女に悪気がないことはわかっている。
セドリックは、幼い頃からヴィクトリアを守ってきた叔父だ。彼女にとって、誰よりも信頼できる相談相手なのだろう。
それでも、自分がグレイヴス建設社について調べていることを、セドリックがすでに知っていたとは思わなかった。
エドガーは動揺を表に出さないよう努めながら、慎重に口を開いた。
「……いや、ベルフォードの街の会社は、遠く離れたアシュクロフト領との取引がある会社が多くて……何か利点があるのかと、興味本位で調べていただけなんだ……」
我ながら下手な嘘だった。
セドリックの眉が、わずかに上がった。
「ベルフォードのレドモンド商会は、自ら倉庫を持たずアシュクロフトの物流施設をうまく利用して大きくなった会社だ。あれが物流の中心にいるから、自然とベルフォード周辺の会社はアシュクロフトとの関わりが多くなるのだ」
「そうですのね。さすが叔父様、ローレンス領の事情までよくご存知でいらっしゃるわ」
ヴィクトリアは感心したように微笑んだ。
エドガーも曖昧に頷いたが、胸の内では別のことを考えていた。
……それは知っている。
レドモンド商会がアシュクロフト領の物流施設を利用していることも、そのために周辺企業との取引が増えていることも、調査の過程ですでに把握していた。
それ自体は、何ら不自然なことではない。
だが、それだけでは説明のつかない金の動きがある。
グレンフォード地区の公共事業費として支出された金が、いくつもの会社を経由し、借入金の返済という形でハルフォード商業金融社へ流れている。
そして、その先にアシュクロフト家とのつながりが見え隠れしていた。
単なる物流上の利便性では、説明できないことがあるのだ。
「……次にエドガー君が聞きたいことを当ててあげよう」
セドリックが、穏やかな声で言った。
「………え?」
エドガーが顔を上げる。
「ハルフォード商業金融社とアシュクロフト家の関係……ではないかな?」
ぞくりと、背筋に悪寒が走った。
セドリックは笑っていた。
先ほどまでと変わらない、親しみやすい笑顔だった。
けれど、その青い瞳は冷たかった。
まるでエドガーの心の内を見透かそうとするかのように、鋭くこちらを見据えている。
……僕がどこまで知っているかを測っている……?
エドガーは膝の上で指を握りしめた。
また逃げようか。
何も知らないふりをして、適当な理由をつけて話を終わらせることもできる。
相手はアシュクロフト侯爵家の人間だ。ここはその別邸であり、自分は療養のために滞在させてもらっている身でもある。
不用意なことを言うべきではない。
そう考える一方で、別の思いが胸の奥に生まれていた。
もし、自分がここまで知っていることを示したら。
セドリック卿は、どう出るのだろう。
恐ろしさとともに、好奇心ともつかない小さな炎が首をもたげた。
エドガーはゆっくりと顔を上げた。
「それは……存じています。ハルフォード商業金融社が、単なる取引先ではないことも」
静かな声だった。
ハルフォード商業金融社は、架空の公共工事によって得られた金をアシュクロフト家へ流す、その中心に位置していると疑われる存在だった。
もちろん、すべてを立証できたわけではない。
それでも今の返答は、単に商会同士の取引を調べているのではなく、その裏にある資金の流れにまで疑いを向けていると示すものだった。
「………ふーん……」
セドリックの口元が、ゆっくりと上がった。
その表情を見たエドガーは、自分の言葉が相手に伝わったことを悟った。
胸の奥で心臓が早鐘を打っている。
それでも、エドガーはセドリックの青い目から視線をそらさなかった。
◇
夕食が終わると、ヴィクトリアは湯浴みのため、侍女を伴って客室を出ていった。
エドガーは一人、部屋に残っていた。
身体の熱はまだ完全には引いていない。食事を終えただけでも少し疲れを感じていたが、先ほどの会話が頭から離れなかった。
セドリックは、どこまで知っているのだろう。
いや、そもそも、なぜあの質問をしたのだろうか。
エドガーが考え込んでいると、しばらくして客室の扉がノックされた。
扉を開けると、そこにはセドリックが立っていた。
「……やあ、先程はヴィクトリアも居てゆっくり話せなかったものだから。どうだい、男同士の話でも」
「光栄です。それは是非」
エドガーは礼儀正しく応じた。
警戒を解いたわけではない。
むしろ、セドリックがわざわざ一人で訪ねてきたことに、先ほどの会話の続きをするつもりなのだと感じていた。
エドガーはセドリックを応接間へ招き入れた。
ソファに向かい合って座ると、エドガーは静かに尋ねた。
「……それで、お話とは何でしょう。セドリック卿」
「……いや、エドガー君。私は君を誤解していたよ」
「……誤解?」
セドリックは愉快そうに喉を鳴らした。
「くっくっく……君は私が思っていたよりずっと優秀だったようだね」
その口元には、笑みがこびりついていた。
エドガーは黙って続きを待った。
「あの狸の巧妙なやり口で、現辺境伯の目はすっかり誤魔化せたと思っていた。君のことも、ヴィクトリアを使ってすっかり丸め込めると思っていたよ。このセドリック・アシュクロフト、最大の誤算だった」
「……!? 今、なんと……?」
エドガーは思わず聞き返した。
あの狸。
その言葉が指す人物には、心当たりがあった。
長年ローレンス家に仕え、父からも厚い信頼を寄せられてきたハーグリーヴス子爵。
そして、ヴィクトリアを使って丸め込むという言葉。
エドガーは息を呑んだ。
ヴィクトリアをローレンス家に送り込んだのが、よりにもよって、彼女がただ一人心から信じているこの叔父だったというのか。
幼い頃から彼女を守り、居場所を与えてきた人物が。
その信頼を、最初から利用するつもりだったというのか。
「だが、もうそれはいい」
セドリックは、何でもないことのように言った。
「エドガー君。君はこのままアシュクロフトに居るといい。ローレンス家では今頃あの狸が君の御立派な弟君を擁立しようと画策している。だが、ローレンス領などちっぽけな物。弟君にくれてやればいい。どうせ狸の傀儡だ」
エドガーは唇を引き結んだ。
レンを次期当主に据えようとする動きがあることは、すでに知っていた。
だが、それがハーグリーヴスの独断ではなく、アシュクロフト家の思惑とも結びついていたのだとすれば。
これまで調べてきた不自然な金の流れと、領内で起きていた一連の出来事が、ようやく一つの輪郭を持ち始める。
セドリックはそんなエドガーの様子を眺めながら、楽しげに続けた。
「アシュクロフト現侯爵の跡取りはまだ幼く、政治的な後ろ盾も十分ではない。こちらにはヴィクトリアが居る。君と私が組めば、いずれアシュクロフトの実権を握ることも夢ではない。どうだ? 悪い話ではないだろう」
「………っ!!」
エドガーは膝の上で拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
ヴィクトリアを使う。
こちらにはヴィクトリアが居る。
セドリックは、彼女のことをまるで自分の手元にある駒のように語っていた。
あれほど嬉しそうに叔父と話していたヴィクトリアの顔が、脳裏に浮かぶ。
母を亡くし、家族との折り合いも悪かった彼女にとって、この別邸がどれほど大切な場所だったのか。
セドリックが、どれほど大きな支えだったのか。
エドガーは知っていた。
この男は、ヴィクトリアをいつか利用するために守ってきたのか。
自分が頼りなく見えることにも、弟と比べられることにも、もう慣れていた。
けれど、ヴィクトリアの信頼を当然のように利用しようとする言葉だけは、どうしても聞き流せなかった。
エドガーは顔を上げた。
何か言わなければならない。
そう思って口を開こうとした、その時だった。
「………何の話をしていらっしゃいますの」
背後から、聞き慣れた声がした。
エドガーが振り返ると、そこにはヴィクトリアが立っていた。
いつの間にか湯浴みから戻ってきていたらしい。
その顔からは、すっかり血の気が引いていた。
ヴィクトリアが聞いたのは、会話のすべてではなかった。
けれど、セドリックがエドガーを自分の側に引き入れようとし、そのために自分を利用するつもりでいることは、十分に理解できた。
信じられなかった。
幼い頃から自分を守り、味方でいてくれた叔父が、そんなことを口にするなど。
「………ヴィカ、聞いちゃだめだ、君は……」
エドガーは立ち上がった。
ヴィクトリアがセドリックへ向かっていこうとする。
その肩を、エドガーは咄嗟に抱きとめた。
「離して!! いまの話は何ですの? 叔父様!!」
ヴィクトリアの声が震えていた。
怒りだけではなかった。
そこには、信じていた相手に裏切られた深い悲しみがあった。
エドガーは彼女を抱きとめたまま、離さなかった。
まだ熱の残る身体には、その動作さえ負担だったが、今は彼女を一人でセドリックの前に立たせたくなかった。
セドリックは、そんな二人を見ても表情を変えなかった。
「ヴィクトリア、お前は賢い子だ。わかるだろう? それとも、ローレンスに毒されたか?」
その顔には、貼りついたような笑みが消えずに残っていた。
ヴィクトリアは言葉を失った。
セドリックは弁解しなかった。
謝ることも、取り繕うこともしなかった。
ただ、自分の考えを理解して当然だというように、穏やかな顔で彼女を見ていた。
エドガーは、腕の中のヴィクトリアを抱きとめたまま、セドリックへ視線を向けた。
「……僕が嫌だと言ったら、どうするおつもりですか」
声は静かだった。
けれど、その言葉には明確な拒絶があった。
セドリックは一瞬エドガーを見つめ、それから声をあげて笑った。
「はははは……笑わせてくれるな。君に選ぶ権利があると思うのかね」
セドリックが扉へ近づいた。
すると、外側から扉が開かれた。
彼は振り返り、相変わらず穏やかな笑顔のまま二人に告げた。
「二人ともしばらくここで大人しくしておいで。何も心配はいらない」
そう言い残して、セドリックは部屋を出ていった。
扉が閉じられる。
次の瞬間、重い金具が噛み合う音が、静まり返った客室に響いた。
外側から、閂が下ろされたのだ。
扉の向こうには、護衛の足音が聞こえていた。
エドガーとヴィクトリアは、固く抱き合ったまま、ただその扉を見つめていた。




