慈愛と微笑
「エドガー様……」
ヴィクトリアの声に、エドガーはゆっくりと目を覚ました。
規則正しく揺れる馬車の中で、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
身体が熱い。手足が鉛のように重く、少し身じろぎするだけでもひどく億劫だった。
ぼんやりとした意識の中、火照った頬と額に柔らかく冷たい手が触れた。
「お熱が上がっているようですわ……」
ヴィクトリアの声が、すぐ近くから聞こえた。
続いて、水の音がした。傍らに置かれた桶に布を浸し、絞っているらしい。
ひんやりと湿った布が、額からこめかみへ、そして首すじへと滑っていく。汗を拭われるたびに、火照った肌が少しだけ楽になった。
エドガーがうっすらと目を開けると、すぐ側にヴィクトリアの紫の瞳があった。
細く優雅な指先が、濡れた布を丁寧に動かしている。
いつも美しく整えられている彼女の手が、今は自分の汗を拭うために休みなく働いていた。
その顔を見て、エドガーは胸が苦しくなった。
ヴィクトリアは、今にも泣き出しそうな表情をしていたのだ。
「ヴィカ……ありがとう……ごめんね……」
「もう……こんなときまでどうして謝るのです……」
少し咎めるような口調だった。
今までに何度も言われてきた言葉だ。
けれど、今日はなんだか、いつもとは違って聞こえた。
ヴィクトリアはそれ以上何も言わず、再び布を水に浸した。冷たい布を絞り、エドガーの額にそっと当てる。
その手つきは決して慣れたものではなかったが、ひどく丁寧だった。
エドガーは黙って彼女を見つめていた。
いつも不機嫌な彼女と、叱られてばかりいる自分。
これまで、二人の関係をそんなふうに考えていた。
ヴィクトリアは美しく、誇り高く、そして強い。
誰を前にしても臆することなく、言うべきことを言い、自分の意志を貫くことができる。
まるで自分とは正反対の人だった。
そんな彼女にとって、気が弱く、身体も丈夫ではなく、何をするにも自信の持てない自分は、きっと物足りない存在なのだろうと思っていた。
だから叱られるたびに、また失望させてしまったのだと感じていた。
けれど、あの時。
感情を抑えきれず、思わず彼女にひどいことを言ってしまった自分を、ヴィクトリアは抱きしめてくれた。
責めることも、言い返すこともせず、ただ抱きしめて、もう何も考えなくていいと言ってくれた。
そして今も、こうして自分の傍らに座り、汗を拭い、熱を案じてくれている。
……僕は今まで、彼女の何を見ていたのだろう。
エドガーは目を伏せた。
もし、これまでヴィクトリアが自分を叱っていたのも、卑屈になりがちな自分を奮い立たせようとしてくれていたのだとしたら。
彼女が自分を信じてくれていたからこそ、もっと自信を持つようにと言ってくれていたのだとしたら。
それをさらに自分を貶める材料にしていた自分は、なんと愚かだったのだろう。
ヴィクトリアは少しも変わっていない。
変わらなければならなかったのは、自分のほうだったのかもしれない。
「……ヴィカ」
呼びかけると、ヴィクトリアは水に浸した布を絞りながら振り向いた。
「どうなさいましたの?」
エドガーは彼女の顔を見つめた。
いつか、君と並び立てるくらい強くなりたい。
不意に、そんな思いが胸に浮かんだ。
彼女に守られているばかりではなく、いつか自分も、彼女を支えられるような人間になりたい。
何故だろう。
今、どうしてもそれを伝えたいと思った。
けれど、いざ口にしようとすると、うまく言葉が見つからなかった。
そんなことを突然言ったら、彼女はどう思うだろう。
熱に浮かされているのかと、また心配をかけてしまうかもしれない。
「……なんでもない」
「もう、またですの?」
ヴィクトリアが呆れたように眉を寄せた。
……また怒らせてしまった。
エドガーはそう思った。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、その口元には安らいだ微笑みが浮かんでいた。
ヴィクトリアはそんなエドガーを見つめながら、再び冷たい布を額に当てた。
◇
やがて馬車は、アシュクロフト家の別邸へ到着した。
正面には、立派な屋敷がそびえていた。
ローレンス辺境伯の居城ほどの規模ではないものの、広々とした敷地に建つその屋敷は、貴族の別邸と呼ぶにはあまりにも堂々としている。
馬車が停まると、玄関前に並んだ使用人たちが一斉に頭を下げた。
「おかえりなさいませ、ヴィクトリア様」
揃った挨拶を受け、ヴィクトリアは慣れた様子で頷いた。
「さあ、エドガー様、参りましょう。手狭な屋敷でお恥ずかしいのですけれど」
「何を言ってるの……ローレンス領の貴族の本宅でも、こんなに立派な屋敷はそうそう見ないよ」
「そうかしら? さあ、参りましょう」
ヴィクトリアは不思議そうに首を傾げた。
どうやら、本気でそう思っているらしい。
エドガーは苦笑した。
幼い頃から侯爵家で育った彼女にとっては、これほどの屋敷でも手狭に感じるものなのだろうか。
まだ身体に熱が残り、足元にも頼りなさを感じていたエドガーは、ヴィクトリアに寄り添われながら馬車を降りた。
すると、玄関前に一人の紳士が進み出た。
薄い金髪に、澄んだ青い瞳。
壮年ながら整った容貌をしており、その面差しにはどこかヴィクトリアと似たものがあった。
「やあ、エドガー君。ヴィクトリア。よく来たね」
親しみのこもった穏やかな声だった。
「セドリック卿、この度はご迷惑をお掛けして……」
「ああ、堅苦しい挨拶はやめてくれたまえ。ここはヴィクトリアの家なのだからね。君の家と同じことだ」
「叔父様……ありがとうございます」
ヴィクトリアは嬉しそうに微笑んだ。
エドガーは、そんな彼女の表情を見ていた。
セドリック・アシュクロフト。
アシュクロフト侯爵の弟であり、ヴィクトリアの叔父にあたる人物だった。
ヴィクトリアは幼い頃に母親を亡くしている。
その後、継母や異母きょうだいたちと折り合いが悪かった彼女を、長年庇護してきたのがセドリックだと聞いていた。
この別邸も、そんな彼女のために用意された場所なのだという。
ヴィクトリアが叔父に向ける笑顔は、普段の気丈な彼女からは少し想像しにくいほど、柔らかなものだった。
エドガーはその様子に、少しだけ安堵した。
けれど、同時に別のことも頭をよぎっていた。
グレンフォード地区における、不審な公金の流れ。
領政府から支出された金が、いくつもの会社を経由し、最終的にアシュクロフト家へつながっている可能性。
その調査の中で名前の挙がっていたグレイヴス建設社と懇意にしているのが、ほかならぬセドリックだということを、エドガーは以前ヴィクトリアから聞いていた。
もちろん、それだけで何かを断定できるわけではない。
彼が不正に関わっているという証拠は、まだ何も掴んでいなかった。
それでも、調査の先にあるアシュクロフト家の人間が、今こうして目の前にいる。
エドガーは複雑な思いを抱えながら、屋敷の中へ足を踏み入れた。
先を歩くセドリックと、その隣で楽しそうに話すヴィクトリア。
エドガーは二人の後ろ姿を、少し離れたところから静かに見つめていた。
◇
やがて、セドリックは二人を滞在する客室へと案内した。
「さあ、ここが君たちの滞在する部屋だ」
扉が開かれ、エドガーは中を覗き込んだ。
「……えっ?」
思わず声が漏れた。
そこは、客室というにはあまりにも広く、立派な造りの部屋だった。
入ってすぐの一間には、大きなダイニングテーブルが置かれている。
左の続き間には、茶会を開くことさえできそうなソファとテーブルの一式があり、その傍らには簡易的なキッチンまで備えられていた。
右の続き間には、テラスへとつながるゆったりとしたリビングが広がり、身なりを整えるための鏡台も置かれている。
奥には小さな浴室まであった。
これだけでも、二人が長く滞在するには十分すぎるほどの設備だった。
しかし、エドガーが何より驚いたのは、その先だった。
右の続き間にある扉の奥。
そこには、大きな二人用のベッドが一つ置かれていた。
まるで、夫婦が旅先で滞在する豪華な宿のような部屋だった。
「あのっ、これは………」
エドガーは思わず振り返った。
頬が一気に熱くなる。
今度ばかりは、発熱のせいではなかった。
「ははは、君たちももう夫婦のようなものだ。構わないだろう?」
セドリックは愉快そうに笑った。
エドガーは返す言葉を失った。
確かにヴィクトリアとは婚約している。いずれ夫婦になることも決まっている。
けれど、だからといって、いきなり同じ寝室を使うことになるとは思ってもいなかった。
隣を見ると、ヴィクトリアも珍しく俯いていた。
いつもなら堂々とした態度で何か言い返しそうな彼女が、今は少し頬を染め、視線を落としている。
その様子を見て、エドガーはますます慌てた。
「ヴィクトリア、僕あっちで寝るから……!」
エドガーが指したのは、応接用のソファが置かれた続き間だった。
しかし、ヴィクトリアはすぐに顔を上げた。
「それでは静養に来た意味がありません! 早くあちらでお休みになって! もう……」
先ほどまで俯いていたのが嘘のように、いつもの調子で叱られてしまった。
エドガーは赤くなった顔のまま、言葉に詰まった。
そんな二人のやり取りを見て、セドリックは声をあげて笑った。




