傷と抱擁
ヴィクトリアがエドガーの私室へ駆け込むと、室内では医師や魔術師、侍女たちが慌ただしく動き回っていた。
その中心にあるベッドに、エドガーが横たわっていた。
血の気の失せた顔はひどく青白く、目を閉じたまま、力なく枕に頭を預けている。
「エドガー様!」
ヴィクトリアが駆け寄って呼びかけると、エドガーはうっすらと目を開けた。
「ヴィクトリア……ごめんね、心配をかけて」
か細い声だった。
こんな時にまで謝るのかと、ヴィクトリアは胸が締めつけられる思いがした。
「謝るのはおやめになって……それで、病状はどうなのですか?」
ヴィクトリアはベッドの傍らにいた医師へ向き直った。
「診察、魔術師による透視の結果、胃の内側に傷ができております。おそらく、以前からお身体に負担がかかっていたのでしょう。そこへ強い心労が重なり、急激に症状が悪化したものと思われます」
医師の説明に、ヴィクトリアは息を飲んだ。
胃の内側に傷ができている。
それほどまでに、エドガーの身体は追い詰められていたというのか。
「……治療はできるのですか?」
「はい。回復魔法によって傷を塞ぎ、痛みを和らげることは可能です」
魔術師の返答に、ヴィクトリアは思わず身を乗り出した。
「それなら……!」
「ですが、ヴィクトリア様。傷を治すことと、病の原因を取り除くことは別でございます」
魔術師は慎重な口調で続けた。
「今のような状態が続けば、再び胃を傷めるおそれがあります。次は出血を伴うかもしれません」
医師の言葉に、ヴィクトリアの表情が強張る
「魔法で何度傷を塞いでも、同じことを繰り返しては意味がございません」
魔術師も静かに言い添えた。
「今のエドガー様に必要なのは、何よりも静養です。心労の原因から離れていただかなければなりません」
「心労の……原因から……」
ヴィクトリアはその言葉を繰り返した。
脳裏に浮かんだのは、つい先ほど馬車の中で侍女から聞いた報告だった。
ハーグリーヴスによる、レンを次期当主に擁立しようとする動き。
エドガーの健康を気遣うという名目で、彼の仕事を取り上げ、領政の実務から遠ざけていること。
そして、今朝の食卓で見た、エドガーのぼんやりとした表情。
あの時すでに、彼は限界に近づいていたのではないか。
ヴィクトリアは唇を噛んだ。
そんな汚いやり方で、心無い者がこのお優しい方の心にも身体にも傷をつけたというのか。
エドガーは、他人を疑うことが苦手な人だった。
自分が傷つけられても、まず相手の事情を考えようとする。誰かが自分のためにしてくれたと言えば、たとえそれが望まないことでも、感謝の言葉を返してしまう。
その優しさを利用して、彼の居場所を奪おうとしている者がいる。
しかも、長年エドガーが信頼してきた人物が、その中心にいるのだとしたら。
このままにはしておけない。
少なくとも、これ以上エドガーをこの城に置いておくべきではなかった。
◇
ほどなくして治療と診察が終わり、医師と魔術師たちは部屋を後にした。
室内にはエドガーとヴィクトリア、そして側付きの侍女だけが残された。
回復魔法によって胃の傷はひとまず塞がれ、痛みも和らいでいるという。けれど、エドガーは薬の効果もあってか、まだ少し朦朧としているようだった。
ヴィクトリアはベッドの傍らに腰を下ろし、そっとエドガーの手に触れた。
「エドガー様……」
「……ん」
エドガーがかすかに顔を向ける。
ヴィクトリアはその手を包むようにして、静かに口を開いた。
「お医者様の話をお聞きになりましたでしょう? それで……提案なのですけれど」
いつもより、ずっと穏やかな声だった。
「しばらく、アシュクロフトに行って静養なさいませんこと? とは言っても、侯爵家の城ではなく、わたくしの幼い頃過ごした別邸がありますの。きっとゆっくり過ごせますわ」
ヴィクトリアにとって、その別邸は特別な場所だった。
母を亡くし、後妻や異母姉妹たちとの関係に苦しんでいた幼い頃、叔父のセドリックが与えてくれた屋敷である。
セドリックの庇護下にあるため、アシュクロフト家のほかの者たちも容易には近づけない。
実家そのものを信用しているわけではない。けれど、幼い頃から自分を守ってくれた叔父のことは、ヴィクトリアは心から信頼していた。
あの場所なら、エドガーを安心して休ませることができる。
領政府の仕事からも、ハーグリーヴスの働きかけからも、ひとまず距離を置けるはずだった。
「……アシュクロフトに?」
エドガーはぼんやりと呟いた。
そして、少し間を置いてから首を横に振った。
「……ありがとう、ヴィカ。でも、僕は行けないよ」
「どうしてですの? 今はお身体を治すことが先決でしょう?」
「今ここから居なくなったら、本当に何もできなくなってしまう……!」
エドガーの手が、きつく握られた。
ヴィクトリアは驚いて彼の顔を見た。
いつもなら、どれほど気が進まないことでも、相手の言葉を受け入れようとする人だった。
そのエドガーが、こんなにも強く拒絶している。
単に仕事を休みたくないというだけではないのだろう。
彼は何かを恐れていた。
「それに……アシュクロフトには……」
エドガーの言葉が途切れた。
ヴィクトリアは、彼が何を言おうとしているのか察した。
知っていますわ。
その言葉が喉の入り口まで出かかった。
アシュクロフト侯爵家が油断ならない家であることなど、誰よりもよく知っている。
実家が各所で不正を働いていることも、彼女にとっては今さら驚くような話ではなかった。
エドガーが何かを調べていることも知っている。
けれど、彼が具体的に何を見つけ、どこまで知っているのかはわからない。
そして何より、エドガー自身の口から話してほしかった。
自分から実家の事情を持ち出せば、彼はますます口を閉ざしてしまうかもしれない。
エドガーは、それ以上は何も言わなかった。
二人の間に、重い沈黙が落ちた。
言葉に詰まったままのエドガーの手を、今度はヴィクトリアが握り返した。
「エドガー様……どうしても……わたくしには話して下さいませんのね」
ヴィクトリアは目を伏せた。
彼が自分を傷つけまいとしていることは、何となくわかっていた。
それでも、何も話してもらえないことが寂しかった。
「……アシュクロフトが油断ならない家だというのは、わたくしが一番良く存じております。だからわたくしのことも……」
「違う、違うよ。ヴィカ」
エドガーはすぐに否定した。
「君が真っすぐな人だということは僕が誰よりも知っている。だから、いい加減な話はしたくないんだ。それだけなんだ……」
ヴィクトリアは顔を上げた。
自分を信頼してくれている。
それは嬉しかった。
けれど、続く言葉が引っかかった。
「いい加減とは何ですの?」
思わず、語気が強くなる。
「今までそんなにもご心労を抱えながら、いい加減な調査をしていらしたの? 御自分を小さく見るのはおやめになってと、どれだけ申し上げたらわかっていただけるのかしら?」
ヴィクトリアは、エドガーが自分を過小評価するたびに歯がゆい思いをしてきた。
彼がどれほど聡明で、どれほど誠実に物事へ取り組む人物なのか、自分はよく知っている。
それなのに、本人だけがその価値を認めようとしない。
今回もそうなのだと思った。
これほど心身をすり減らしてまで調べていたことを、自分で「いい加減な話」などと呼んでしまう。
ヴィクトリアには、それが悲しかった。
けれど、彼女の言葉を聞いたエドガーの顔には、さっと血色が上っていた。
確かに、いつもヴィクトリアから言われていることだった。
自分を小さく見るなと。
もっと自信を持てと。
彼女が自分を励まそうとしていることも、本当はわかっていた。
でも、違う。
今回の調査は、初めて自分で疑問に思ったことを突き詰めたものだった。
自分で考え、資料を探し、弟の手まで借りて調べてきた。
そうしてようやく、領政府の公金が不自然な形で流れている可能性を見つけたのだ。
まだ決定的な証拠はない。
けれど、何もわからないまま手探りを続けていたわけではなかった。初めて、自分なりの真実を掴んだという手応えがあった。
だからこそ、不確かなことを軽々しく口にしたくなかった。
それなのに、今のヴィクトリアの言葉は、その努力まで否定されたように響いてしまった。
「わかってるよ……君も、僕がレンみたいだったら良かったって思ってるんだよね!?」
思わず声が大きくなった。
ヴィクトリアは目を見開いた。
まさか、そんな言葉がエドガーの口から出るとは思ってもいなかった。
そんなことを考えたことは一度もない。
エドガーが自分の婚約者であることを、ヴィクトリアは心から幸せに思っていた。
けれど、その言葉がどれほど深いところから出てきたものなのか、彼の表情を見ればわかった。
エドガーはずっと、弟と自分を比べてきたのだろう。
周囲からも比較され、自分には足りないものばかりが目につくようになっていたのかもしれない。
そして今、信頼していた老臣から仕事を取り上げられ、当主としての立場まで脅かされている。
そんな彼に、ヴィクトリアの言葉はあまりにも厳しく響いてしまったのだ。
エドガーが何か言おうとした、その時だった。
「……っ!」
その表情が苦痛に歪んだ。
目の前がちらつくように瞬きを繰り返し、胃のあたりを押さえる。
差し込むような痛みに耐えきれず、エドガーの身体が前へ傾いた。
ヴィクトリアは咄嗟に腕を伸ばした。
エドガーの身体を抱きとめ、その頭を胸元へ引き寄せる。
鮮やかなブルーのドレスの袖が、エドガーの目の前を覆った。
「……だれが、」
ヴィクトリアの声が震えた。
腕の中にある身体は、驚くほど頼りなかった。
先ほどまで必死に言葉を返していたエドガーが、今は痛みに耐えることさえ精一杯になっている。
彼女はその頭を、ぎゅっと抱きしめた。
「だれが、あなた様をこんなにも追い詰めたのですか……? あの薄汚いハーグリーヴス?」
怒りを抑えようとしても、声に滲むものまでは隠せなかった。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
エドガーは、誰かを傷つけようとする人ではない。
自分が傷つけられても、相手を責めるより先に自分の非を探してしまう。
そんな人が、ここまで追い詰められている。
自分の価値を疑い、居場所を失うことを恐れ、ついには身体まで壊してしまった。
ヴィクトリアは、腕の中のエドガーを抱きしめる力を少しだけ強めた。
彼の言葉に反論する気持ちは、もうなかった。
レンのほうがよかったなどと、どうして思うだろう。
彼がどれほど大切な存在なのか、どれほど尊敬しているのか。
今は、そんなことを言葉で説明するよりも、ただ抱きしめていたかった。
一方のエドガーは、まったく予期していなかったヴィクトリアの行動に驚いていた。
いつも気丈で、凛としていて、言葉の鋭い彼女が、自分をこんなふうに抱きしめるとは思わなかった。
胃の痛みはまだ残っていたが、抵抗することもできず、ただ彼女の腕に身体を預けていた。
「ヴィカ、ごめん……僕は」
「もう何もお考えにならないで」
ヴィクトリアは静かに遮った。
今は、謝罪も説明もいらなかった。
「今は、考えれば考えるほどご自分を傷つけてしまうだけですわ……何も考えず、わたくしを信じて下さいませ」
エドガーは何も答えなかった。
ヴィクトリアは彼の頭を抱いたまま、言葉を続けた。
「わたくしの育った別邸は、セドリック叔父様の庇護下にあります……大丈夫、信用できるお方ですわ」
叔父は、幼い頃から自分を守ってくれた人だった。
あの別邸であれば、アシュクロフト家のほかの者たちに煩わされることもない。
エドガーを、今の苦しみから少しでも遠ざけることができるはずだった。
何より、もうこれ以上無理をしてほしくなかった。
領政のことも、家督のことも、調べていることも。
今だけは、すべて脇に置いてほしい。
エドガーは、長い沈黙のあとも返事をしなかった。
何も……考えず……。
その言葉だけが、静かに心に残っていた。
これまで、自分で考えなければならないと思っていた。
自分で調べ、自分で判断し、自分の責任で何とかしなければならないと。
けれど、もう何をどう考えればよいのかもわからなかった。
身体も、心も、ひどく疲れていた。
ヴィクトリアの腕は、変わらずエドガーを抱きしめていた。
彼女はもう、何も言わなかった。
ただ、エドガーが自分の腕の中で安心して休めるようにと願っていた。
やがてエドガーは、ヴィクトリアの腕に顔をうずめたまま、そっと目を閉じた。




