暗躍と看破
エドガーがノースフェル地方への視察から帰還した日の午後遅く、ハーグリーヴスは執務室に隣接する応接室で、軍部の有力者と向かい合っていた。
レンとの密談があった翌日から、ハーグリーヴスは領内の有力者たちと精力的に面談の約束を取り付けていた。
目的は、レンを次期辺境伯に擁立するための地盤を固めること。
もっとも、ハーグリーヴス自身がそれを言い出すつもりはなかった。家督継承という重大な問題に、一介の家臣が自ら口を挟むのは得策ではない。
必要なのは、周囲の者たちが自発的にそう望んだという形だった。
「……エドガー様は実に聡明なお方です。領民の暮らしにもよく目を配られ、領政に関しては私も感心させられることが多うございます」
「ええ。お若いながら、よく務めておられると、我々の耳にも入っておりますぞ」
有力者は深く頷いた。
エドガーの領政能力が優れていることは、ハーグリーヴスも認めている。領民の生活に目を配り、地道な実務にも真摯に取り組む姿勢は、次期当主として申し分ないものだった。
いや、出来過ぎていた。
「ただ……少々、ご無理をなさるところがございましてな」
「お身体のことですかな?」
「ええ。此度のノースフェルへの視察も、あの寒さの中、随分とご負担になったことでしょう。ご立派な責任感をお持ちですが……それがかえって心配でして」
ハーグリーヴスは、いかにも案じているという様子で表情を曇らせた。
「確かに、辺境伯ともなれば今以上の重責を担うことになりますな」
「まことに。領政のみならず、軍の統率、周辺諸侯との折衝……。お身体の丈夫な方でさえ、容易なことではございません」
「確かに、軍部でもそのような声は多い」
有力者の反応を見ながら、ハーグリーヴスは静かに頷いた。
エドガーの能力を否定する必要などない。むしろ、その責任感や仕事ぶりを高く評価したうえで、身体への負担を案じればよいのだ。
軍を預かる立場の者であれば、当主の健康が領地の将来に関わる問題であることは十分に理解している。
「……そういえば、レナード様がお戻りになっているとか」
有力者の口から、待っていた名前が出た。
「ええ。相変わらずご壮健でいらっしゃいます。冒険者としても、随分と名を上げられたようで」
「あのお方ならば、武勇も申し分ないでしょうな。騎士たちの中でもレナードさまへの尊敬が厚い者も多いようです」
「さようでございますな。もっとも、家督はエドガー様がお継ぎになるもの。私ども家臣がとやかく申し上げることではございません」
ハーグリーヴスは控えめに微笑み、あえて話を引いた。
「……しかし、領地の将来に関わることですぞ」
「……と、おっしゃいますと?」
「レナード様を次期当主に、という考えもあるのではないか?」
ハーグリーヴスは乾いた声で笑った。
「……それは、また。大胆なお考えですな」
「いや、決してエドガー様に不満があるわけではない。しかし、適材適所というものがありましょう」
「なるほど……。確かにローレンス領の軍を率いるのにも、レナード様の武勇を持ってすれば安泰でしょうな」
「そういうことです」
有力者は、自分の考えが理解されたことに満足したようだった。
ハーグリーヴスは、その様子を穏やかな表情で見つめていた。
ここまで来れば、あとは相手の考えを後押しするだけでよい。
「実は、私一人の判断で申し上げるわけにも参らぬと口を噤んでおりましたが、同じように案じておられる方々も多くいらっしゃいましてな。今回のレナード様のご帰還を期に、同様のご意見が増えております」
「そうでしょう。しかし、レナード様ご自身はどうお考えなのか」
当然の疑問だった。
ハーグリーヴスは、少しも表情を変えずに答えた。
「お兄様をたいそう敬愛しておられますからな。ご自身から家督を望まれるようなことは、まずございますまい」
レンが家督を継ぐことを明確に拒絶した事実には、触れなかった。
兄を深く敬愛していることは事実であり、そのために自ら家督を望むことはないだろうという説明にも嘘はない。
ただ、必要なことをすべて話しているわけではなかった。
「それでは、なおさら周囲が進言せねばならんのではないか?」
「……なるほど。そういうお考えもございますな」
「多くの者が同じ懸念を抱いているのなら、辺境伯閣下に正式に申し上げるべきではないか?」
「しかし、これは家督に関わる重大な問題。私のような一補佐官が差し出がましいことを申し上げるわけには……」
「いや、これは我々の総意だ。貴殿は取りまとめてくださればよい」
有力者は、力強く言い切った。
ハーグリーヴスはしばし考えるように間を置き、やがて静かに頭を下げた。
「……皆様がそこまでおっしゃるのであれば、致し方ありますまい」
これでよい。
自ら家督継承に異を唱えたのではない。領内の有力者たちが将来を案じ、その意見を取りまとめるよう求めてきたのだ。
ハーグリーヴスは、あくまでその声を現辺境伯へ届ける役目を引き受けただけだった。
◇ ◇ ◇
その頃、エドガーは一週間ぶりに執務机へ向かい、留守中に溜まった書類の整理を進めていた。
ノースフェルから帰還したばかりではあったが、確認しておかなければならない仕事は少なくない。
ハーグリーヴスは隣接する応接室で来客の対応をしているようだった。
まだ顔を合わせずに済んでいることに、エドガーはどこか安堵していた。
先ほどレンとセヴランから聞いた話が、頭から離れない。
ハーグリーヴスが弟に家督を継ぐよう勧めていたこと。そして、調査を依頼した資料が、またしても不自然な形で閲覧できなくなっていたこと。
あの老臣に対して、これまでと同じように接することができるのか。
そんなことを考えていた時だった。
応接室の扉が開く音がした。
顔を上げると、軍部の有力者とハーグリーヴスが連れ立って出てくるところだった。
「では、例の件はよろしく頼みますぞ」
「承知いたしました。皆様のお考えは、しかるべき形で閣下にお伝えいたしましょう」
二人はエドガーの机の脇を通り、そのまま執務室を出ていった。
例の件。
皆様のお考え。
父に伝えるというその話が何なのか、エドガーにはわからなかった。
やがて有力者を見送ったハーグリーヴスが戻り、エドガーの机へと近づいてきた。
「おや、これは若様。お帰りでしたか。ノースフェルへのご視察、さぞお疲れでございましょう」
いつもと変わらない、丁重な挨拶だった。
「……ハーグリーヴス……今の話は? 父上にお伝えするとは?」
「領内の皆様から、少々ご相談を受けておりましてな」
「……相談?」
「ええ。ローレンス辺境伯領の将来に関わる、大切なお話でございます」
ハーグリーヴスは穏やかに微笑んでいた。
いつものように落ち着いた声で、礼儀正しく答えている。
しかし、違う。
エドガーは思わず息を飲んだ。
目つきが、先日までとはまったく違っていた。
表情は穏やかなのに、その目だけが妙に鋭い。こちらの反応を見定め、何を考えているのか探ろうとしているように感じられた。
ふと、セヴランの言葉が脳裏に蘇った。
『しっかし、薄気味悪い。一見ニコニコしちゃいるが、こっちを上から下までジロジロ見て、腹を探るような質問ばっかりしてきやがって』
あの時は、長年知っているハーグリーヴスがそんなふうに見えるものなのかと驚いた。
けれど、今ならわかる気がした。
目の前にいるのは、確かに自分が長年信頼してきた老臣のはずだった。
その顔も、声も、丁寧な物腰も何ひとつ変わっていない。
それなのに、もう以前と同じ人物には見えなかった。
穏やかな笑みの奥で、何かが光っている。
エドガーにはそれが、自分を取り込もうとする魔物の目のように思えた。
長年、疑うことすらなかった相手だった。
その信頼が、今まさに崩れ始めている。
◇ ◇ ◇
夕食を終えたエドガーは、再び執務室へ戻っていた。
夜の執務室には、ほかに誰もいない。
手にしていたのは、ノースフェルへの視察に出る際、レンとセヴランに預けてあった資料だった。
視察によって中断していた調査を、もう一度始めるつもりだった。
エドガーは机に資料を広げ、一枚ずつ確認していった。
すると、その中に見覚えのある会社名を見つけた。
ハルフォード商業金融社。
ノースフェルへ発つ前、事務官に探しておくよう依頼していた会社概要だった。
「……探しておいてくれたのか」
小さく呟き、資料を手に取る。
残念ながら、ハルフォードの帳簿までは入手できなかったようだ。しかし、会社概要だけでも何かの手がかりになるかもしれない。
エドガーはそれをいったん脇に置き、以前から調べていた四社の帳簿写しを取り出した。
まず確認するのは、工事業者二社の帳簿だった。
これまでの調査では、それぞれの収支や領政府との取引を中心に見てきた。今度は視点を変え、ハルフォード商業金融社との取引だけを追ってみることにした。
エドガーは赤いインクを用意し、該当する取引に一つずつ印を付けていった。
日付、金額、取引先。
それらを照らし合わせながら、帳簿を読み進める。
しばらくすると、二社の間に似た法則があることに気づいた。
領政府から大きな入金があった直後、ハルフォードへの返済が行われている。
それも、二日と置かずに。
偶然だろうか。
エドガーは残る二社の帳簿写しを引き寄せ、同じようにハルフォードとの取引に赤い印を付けていった。
そして、四社の帳簿を並べ直した。
「………やっぱり同じだ」
四社とも、領政府からの大きな入金の直後に、ハルフォードへの返済を行っていた。
もちろん、融資を受けた企業が事業収入を返済に充てること自体は不自然ではない。工事代金が支払われれば、その収入で借入金を返済することも十分に考えられる。
しかし、気になる点があった。
エドガーは、今度は融資が実行された日付を確認した。
「……おかしいな……ハルフォードからの融資日から領政府の支払いまでの時間が異常に短い……?」
通常の工事であれば、着工から完工までに相応の時間がかかる。工事が終わった後にも確認や支払いの手続きが必要になるため、代金が支払われるまでには、短くても三か月、長ければ半年ほどかかるものだった。
無論、緊急の復旧工事などであれば話は別だ。
だが、今調べているグレンフォード地区の四社については、そのような例外として片づけるには無理があった。
ハルフォードから融資を受け、領政府から支払いを受け、融資を返済するまでの期間が、遅くとも二か月ほどしかない。
早いものでは、一か月半ほどで完了していた。
工事業者二社の記録をさらに確認すると、融資の多くは工事開始前後の早い段階で実行されていた。
それなのに、通常の工事期間と比較しても、あまりに早く返済が完了している。
エドガーは帳簿から目を離し、工事記録を引き寄せた。
融資の日付だけではわからない。
実際に工事がいつ発注され、いつ着工し、いつ支払いが行われたのか。それらを照合する必要があった。
「それに……この工事記録の日付」
ある記録を確認したところで、エドガーの手が止まった。
グレイヴス建設社に対して、ハルフォードから融資が実行された日付。
その時点では、領政府による工事の発注はまだ正式に決定していなかった。
ところが、その数日後にはグレイヴス建設社が当該工事を受注している。
その後、領政府から工事代金が支払われると、間を置かずにハルフォードへの返済が完了していた。
「短いどころか、工事発注が決まる前にハルフォードから融資がされている……」
エドガーは別の工事記録を開いた。
そこにも、似たような時系列があった。
さらに別の記録にも。
正式な発注が決まる前に融資が実行され、その後、融資を受けた企業が工事を受注する。そして領政府からの支払いを受けると、すぐに返済が行われている。
同じような流れが、何度も繰り返されていた。
「誰かが、工事の発注先を事前に知って、先回りしていた……?」
エドガーは眉を寄せた。
発注前に融資が行われたからといって、それだけで不正があったとは言えない。
企業が受注を見込んで資金を調達することはあり得るし、金融会社がその見込みを評価して融資することも考えられる。
だが、今回の記録には不自然な点が多すぎた。
特定の企業ばかりが、同じような形で融資を受けている。
その後に工事を受注し、領政府からの支払いと融資の返済時期まで、繰り返し一致している。
偶然の受注や通常の資金調達として説明するには、あまりに整いすぎていた。
もし、工事の発注先を事前に知ることのできる人物が関わっていたとしたら。
エドガーは帳簿を机に置いた。
確認しなければならないのは、工事の発注と支出の決裁に関わった人物だった。
席を立ち、書架へ向かう。
領政府の支出決裁記録を棚から抜き出すと、再び机に戻り、グレンフォード地区への支出記録を一枚ずつ確認していった。
工事名、支出額、決裁日。
そして、決裁者。
書類をめくる手が、次第に遅くなった。
どの書類にも、同じ人物の決裁印が押されていた。
「………ハーグリーヴス」
エドガーはその名前を見つめた。
次に工事契約書の冊子を取り出し、グレンフォード地区の契約を確認する。
そこにも、繰り返し同じ名前が現れた。
「やはり……決裁者はハーグリーヴスばかりだ」
ハーグリーヴスは主席補佐官として、領政府の実務に深く関わっている。
一定範囲の工事契約や支出については、彼自身に決裁権限が与えられていた。そのため、書類にハーグリーヴスの決裁印があること自体は、何ら不自然ではない。
むしろ、通常の職務として当然のことだった。
しかし、今調べているグレンフォード地区の不審な取引に限っても、繰り返し彼の名前が現れている。
工事の発注、契約、支出。
それらに関わる立場に、ハーグリーヴスがいた。
エドガーの脳裏に、以前ウィロウ村で確認した通達書が浮かんだ。
工事内容や費用の記載を領政府側に委ねるよう指示していた、あの通達書。
そこには、ハーグリーヴスの署名があった。
あの時は、なぜそのような指示が出されているのか理解できなかった。
しかし、今目の前にある不自然な工事契約や支出記録と照らし合わせると、一つのつながりが見えてくる。
……嘘だろう。
本当にそうなのか。
エドガーは書類を見つめたまま、動けなくなった。
今までも、何度も疑った。
そのたびに、何かの間違いではないかと思い直そうとしてきた。
長年、自分を支えてくれたハーグリーヴスが、そんなことをするはずがない。
そう信じたかった。
けれど、今日の午後に見た、あの目。
穏やかな笑みの奥にあった、相手の腹の内を探るような鋭い眼差し。
あれを思い出すと、もう偶然で片づけることはできなかった。
エドガーは一度目を閉じ、静かに息を吐いた。
まだ結論を出すには早い。
決裁印があることと、不正に関与していることは別の問題だ。疑惑を確かめるためには、さらに資料を照合しなければならない。
机に戻ったエドガーは、先ほど脇に置いたハルフォード商業金融社の会社概要を開いた。
会社の設立記録を確認し、続いて出資者の項目に目を通す。
そして、そこに記された名前を見た瞬間、思わず天を仰いだ。
……やはり、そうなのか。
ハルフォード商業金融社は、創業以来、ほぼすべての出資をアシュクロフト侯爵家から受けていた。
ここまで来ると、アシュクロフト家が直接運営しているに近い。
アシュクロフト。
そして、ハーグリーヴス。
エドガーは目を瞑り、これまで頭の中に並んでいた言葉を、一つずつ整理し直した。
グレンフォード地区。
工事契約。
領政府からの支出。
ハルフォード商業金融社。
アシュクロフト侯爵家。
ハーグリーヴス。
それぞれの資料から読み取れる事実を並べ直し、そこから導き出される筋道を探していく。
不思議と、頭は冷えていた。
ハーグリーヴスへの疑念も、アシュクロフトの名を見つけた衝撃も消えたわけではない。
ただ、今は感情に流されるよりも、目の前の数字と記録を正しく読み解かなければならなかった。
エドガーはもう一度、四社の帳簿写しに目を落とした。
仮に、グレンフォード地区で架空の工事が行われたことになっているとしたら。
その工事を発注し、支出を決裁する立場にあるハーグリーヴスが、仕組みを作り上げていたとしたら。
領政府は、実際には行われていない工事に対して公金を支払うことになる。
その金は、工事業者や商会へ渡る。
そして、彼らがハルフォード商業金融社から融資を受けていたことにすれば、領政府から受け取った金を、返済という名目でハルフォードへ移すことができる。
帳簿上は、通常の商取引と融資の返済に見える。
しかも、ハルフォードの主要出資者はアシュクロフト侯爵家だった。
金融会社が得た利益は、最終的に出資者である侯爵家へ還元される仕組みになっているはずだ。
つまり、領政府から支払われた公金が、特定の工事業者や商会を経由し、ハルフォード商業金融社へ流れている可能性がある。
そして、その先にいるのがアシュクロフト侯爵家だった。
エドガーは、机の上に広げた資料を見渡した。
ここまでの流れを考えれば、グレンフォード地区の性質を利用した架空工事によって、公金が横領されているという推論は成り立つ。
だが、それが事実だと証明できたわけではない。
手元にあるのは四社の帳簿写しと、工事や支出に関する領政府の記録。そして、ハルフォード商業金融社の会社概要だけだった。
ハルフォード内部の帳簿は、まだ手に入っていない。
融資の返済として受け取った金が、その後どのように処理され、どれほどの利益として計上されたのかもわからない。
アシュクロフト侯爵家への実際の利益配分も確認できていなかった。
まして、侯爵家が不正を指示したという証拠など、どこにもない。
それでも。
ここまでの調査結果を合わせれば、アシュクロフト侯爵家とハーグリーヴスが無関係であるとは、どうしても考えにくかった。
そして、もう一つ気になることがあった。
仮にハーグリーヴスがこの仕組みを作り上げたのだとしても、金が流れる先は彼自身ではない。
アシュクロフト侯爵家なのだ。
ハーグリーヴスが、何の見返りもなく動くとは思えなかった。
おそらく、アシュクロフト侯爵家とハーグリーヴスの間には、何らかの密約がある。
ただ、それが何なのかは、まだわからない。
エドガーは資料を前にしたまま、深く考え込んだ。
そして、不意に一人の女性の顔が浮かんだ。
ヴィクトリア。
まぶたの裏に、決して疑うはずのない彼女の顔が浮かんだ瞬間、エドガーは目を見開き、首を振った。
……彼女に嘘はない。
彼女は何も知らない。
それだけは、信じていた。
今回の調査でアシュクロフト侯爵家の関与を疑う理由は増えた。しかし、ヴィクトリア本人が何かを知っている、あるいは不正に関わっていると示すものは何ひとつない。
彼女を疑う理由などなかった。
それでも、まだ話せない。
そのことが、何より歯がゆかった。
ヴィクトリアにとって、アシュクロフト侯爵家は自分の生まれ育った家だ。
その実家が、領政府の公金を不正に得ているかもしれない。
そんな重大な疑惑を、確かな証拠もないまま打ち明けるわけにはいかなかった。
もし、この推論が間違っていたら。
もし、今見えている資金の流れに、別の説明があるのだとしたら。
エドガーはもう一度、机の上の資料に視線を落とした。
赤い印の付いた四社の帳簿写し。
工事記録と支出決裁記録。
そして、ハルフォード商業金融社の会社概要。
それぞれを照合することで、これまで見えなかった不正の仕組みが、おぼろげながら姿を現し始めていた。
しかし、その仕組みを裏付ける決定的な証拠はない。
ハーグリーヴスとアシュクロフト侯爵家の間に何があるのかも、まだわからない。
何より、仮にこの推論が正しかったとして、自分はどうすればよいのだろう。
誰に相談すべきなのか。
どこから手をつければよいのか。
長年信頼してきたハーグリーヴスを疑い、婚約者の実家にまで疑惑が及んでいる。
調査を進めれば進めるほど、事態の重大さだけが増していく。
真相に近づいているはずなのに、少しも安心できなかった。
エドガーは椅子に深く腰を下ろし、机の上に広がる資料を見つめた。
数字を読み解くことはできる。
記録の矛盾を見つけ、そこから考えられる可能性を導き出すこともできる。
けれど、その先で何を選べばよいのかは、どの資料にも書かれていなかった。
夜の執務室には、静寂が満ちていた。
エドガーは一人、答えの見つからない問いを抱えたまま、いつまでも机の上の資料を見つめていた。




