裏切りと自戒
ノースフェル地方への視察から戻ったエドガーは、留守中の調査状況を確認するため、レンとセヴランを自分の私室に呼び寄せた。
「やあ、忙しいところすまないね」
部屋を訪れた二人に、エドガーはいつもの穏やかな笑顔を向けた。
「兄上……大変だったな」
レンが労うと、エドガーは苦笑しながら肩をすくめた。
「いやー、寒くて寒くて……あっ、でもセヴラン殿にはお土産の酒を買ってきたからね。夕食の時にでも」
「おっ、気が利くじゃねえか」
途端にセヴランの機嫌がよくなる。その様子にエドガーは小さく笑ったが、やがて表情を改めた。
「それで……留守中はどうだったかな」
「ちょっと遊んでみたら、見事に引っかかったな」
「遊んでみた?」
聞き返すエドガーに、セヴランは事の経緯を説明し始めた。
「この前聞いた三人の補佐官にそれぞれ別の会社の調査を依頼した。案の定、一人だけ口八丁でごまかして調査結果も出さなかった奴が居る。おまけに翌日にはその会社だけ概要資料が見られなくなったよ」
その口調とは裏腹に、セヴランは実に楽しそうにニヤニヤと笑っている。
「見られなくなった……」
「倉庫整理だとよ。昨日まで書架にあった資料が、よりによって翌朝にな」
「そうか……僕のときと似ているな」
エドガーの表情が曇る。以前、自分が資料を調べようとした際にも、同じようなことが起きていた。
「まあ……そういうこともあるさ。俺たちがちょうど見たいと思った日に? たまたま? 片づけられたんだろうな。ふっ、実に運が悪い……」
セヴランは大げさに肩をすくめた。偶然など微塵も信じていないことが、その顔にはっきりと表れている。
「兄上、こいつはこういう言い方をするが、偶然だとは思っていない」
真面目な顔で補足するレンに、セヴランは顔をしかめた。
「……お前に説明されるとムカつくな」
セヴランは気を取り直すように息を吐いた。
「……あの爺さんだよ」
「……やはり……ハーグリーヴスなのか?」
エドガーの声がわずかに沈む。
「しっかし、薄気味悪い。一見ニコニコしちゃいるが、こっちを上から下までジロジロ見て、腹を探るような質問ばっかりしてきやがって」
「ハーグリーヴスが?! そんな風に見えたのか?」
エドガーは思わず目を見開いた。
長年付き合ってきたハーグリーヴスの姿と、セヴランの語る人物像がすぐには結びつかなかった。
「ずっと一緒にいるとわからなくなるもんだぜ。坊ちゃんよ」
セヴランはそう言うと、今度はレンに顔を向けた。
「お前もよく気色悪くなかったもんだな。あんなベタベタのおべっかで持ち上げられて」
「大げさに言うものだな、とは思っていた」
「結局、調査依頼した採石場の報告がしたいと呼んどきながら『例年通りです』で終わり。あとはレナード様のご武勇が~、名声が~。そんなんばっかだぜ」
うんざりした様子でセヴランが言うと、レンは何かを思い出したように口を開いた。
「そういえば、あの日の夕方また同じような話をしていた」
「……何? 爺さんとあの後また話したのか?」
「ああ。俺の部屋に訪ねてきた」
「おいおい、そう言う話は言えよ」
「大した話ではなかったからな」
レンは何でもないことのように答えた。
「家督を継がないかと言われたが、断った」
「え………」
エドガーの口から、間の抜けた声が漏れた。
「おいおいおいおい、大事件じゃねえかよ」
セヴランも思わず身を乗り出す。
ところが、当のレンは二人がなぜそこまで驚くのか、いまひとつ納得がいかない様子だった。
「お前な……。この前、俺が何を言ったか覚えてるか?」
「俺がどう思っているかではなく、周りがどう思うかという話だろう?」
「分かってて言ってるのか!? しかも領政の偉いさんとはいえ、一家臣が口出す話じゃねえぞ?」
セヴランが呆れたように声を上げる。
レンはその指摘を理解していないわけではなかった。ただ、本人の中では結論があまりにも明白だった。
「兄上が家督を継ぐことはもう決まっている。俺は継がない。それだけのことだ。何も問題はない」
迷いのない口調だった。
「そうか……ハーグリーヴスがそんなことを……」
エドガーは俯き加減に呟いた。
調査資料の不可解な移動だけでも気掛かりだったというのに、今度は家督継承にまで口を出していたとは。
しかも、それを弟本人に直接持ちかけていたのだ。
「あのジジイ、やけにレンを持ち上げてくるとおもったら、やっぱりそういう魂胆か」
セヴランが苦々しげに吐き捨てる。
「心配はいらない、兄上。俺にはその気はない」
レンは兄をまっすぐに見つめた。
「……うん。分かっているよ」
エドガーは小さく頷いた。
弟の言葉を疑う気持ちは、少しもなかった。
「兄上こそ、この家を継ぐべき人だ」
「……ありがとう、レン」
その言葉は素直に嬉しかった。エドガーは弟に微笑み返したが、その胸の内には別の重苦しさが残っていた。
「だから、レンにやる気がないとか、そもそも領政なんてこいつには無理とかそういう話じゃねえんだって」
「うっ」
セヴランの容赦ない一言に、レンが言葉を詰まらせる。
セヴランが危惧しているのは、本人の意思とは関係なく、周囲が勝手に動き始めることだった。
「そうだね……ハーグリーヴスが何も仕掛けてこないとは言いきれなくなってきた」
エドガーも、その危険性は十分に理解していた。
家督を継ぐ意思のない弟を担ぎ上げようとする者がいる。それも、領政の中枢にいる主席補佐官が。
単なる思いつきとして片づけるには、あまりに看過できない話だった。
「俺たちは次の探索で洞窟攻略をキメたらここを離れて、もうしばらく近づかなければ良いことだ。でもあんたは違う。気をつけろよ」
セヴランの口調から、先ほどまでの軽薄さが消えていた。
レンたちは冒険者として城を離れることができる。しかし、次期当主であるエドガーはそうはいかない。ハーグリーヴスと今後も向き合わなければならないのだ。
「わかっているよ……ありがとう……」
エドガーは静かに頷いた。
◇
やがて話を終えたレンとセヴランが退出し、扉が閉まると同時に、室内には静寂が落ちた。
エドガーはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて深いため息をつき、ソファに腰を下ろした。
……わかっていた。
ウィロウ村で、白紙の帳簿を提出するように指示する通達書を見た日から。
何かがおかしいとは、ずっと感じていた。
調べようとしていた資料が閲覧できなくなったのも、ハーグリーヴスに話をした後だった。
本来なら行く必要のなかったノースフェル地方への視察についても、ハーグリーヴスの動きが見え隠れしていた。
そして今回、セヴランが仕掛けた調査でも、同じように資料が移動されている。
偶然で片づけるには、あまりにも不自然なことが重なりすぎていた。
エドガーとて、それが何を意味するのか理解できないほど愚かではない。
ハーグリーヴスが何らかの不正に関与している可能性は、もはや無視できないものになっていた。
それでも。
それでもなお、彼を信じたいと思ってしまう。
エドガーが領政に携わるようになってから、ハーグリーヴスには数え切れないほど世話になってきた。
時には厳しく嗜められ、時には励まされた。
判断に迷えば助言を与えられ、知らないことがあれば教えられた。未熟な自分を何度も助け、支えてくれた人物だった。
領政の師と言っても、決して過言ではない。
そのハーグリーヴスが、今、自分ではなく弟を家督に推そうとしている。
エドガーにとって、それは不正への関与を疑わなければならないこと以上に、個人的な衝撃だった。
もちろん、家臣が当主の継承に介入しようとすることの危険性は理解している。そこに何らかの思惑があることも、十分に考えられた。
だが、それとは別に、どうしても心に引っかかるものがあった。
ハーグリーヴスは、誰よりも自分の仕事ぶりをよく知っている。
何ができて、何ができないのか。どれほど努力して、どれほど至らないところがあるのか。
そんな自分を、ずっと間近で見てきた人物なのだ。
その彼が、レンを選んだ。
エドガーは膝の上で両手を組み、じっと視線を落とした。
今まで、何度でも思ってきたことだった。
僕はローレンス家の嫡男でありながら、辺境伯としての素養を持ち合わせてはいない。
それを持っているのは、自分ではなく弟のレンだ。
幼い頃から何をやらせても優秀で、剣術にも魔法にも類いまれな才能を発揮してきた弟。今では立派な冒険者となり、数々の武功を挙げている。
それに比べて、自分はどうだろう。
領政に携わり、学び、できる限りのことをしてきたつもりではある。
けれど、それが本当に辺境伯として十分なものなのかと問われれば、エドガーには自信がなかった。
それでも、ハーグリーヴスは自分を支えてくれていた。
至らないところがあっても、学び続ければよいのだと。経験を積み、努力を重ねていけば、いつかは立派に家を継ぐことができるのではないかと。
そう思えたのは、彼の存在があったからでもある。
その人物が、弟に家督を継ぐよう勧めていた。
改めて突きつけられたその事実は、思っていた以上に堪えた。
……やっぱり、僕では駄目なのか。
レンの言葉が脳裏に蘇る。
『兄上こそ、この家を継ぐべき人だ』
嬉しかった。
あの弟が、何の迷いもなくそう言ってくれたことが、本当に嬉しかった。
レンは昔から、エドガーを兄として慕い、尊敬してくれている。自分よりはるかに優れた才能を持ちながら、それを理由に兄を軽んじたことなど一度もない。
今日の言葉も、きっと心からのものだったのだろう。
だからこそ、エドガーもその気持ちに応えたかった。
弟が自分を信じてくれているのなら、その信頼に恥じない兄でありたい。
そう思う。
けれど。
……ハーグリーヴスが言うなら、そうなのだろう。
長年、領政を教えてくれた人だ。
自分の能力を、誰よりもよく知っているはずの人だ。
その人が、自分ではなくレンのほうが当主にふさわしいと考えているのなら。
やはり、それが正しい評価なのではないだろうか。
エドガーは俯いたまま、動かなかった。
弟を妬ましく思う気持ちはない。
レンが優れていることなど、誰よりもよく知っている。そんな弟を誇らしく思っているし、自分を信頼してくれることにも感謝している。
ただ、自分自身を信じることだけが、どうしてもできなかった。
ハーグリーヴスの真意は、まだわからない。
それでも、彼が弟を推したという事実だけが、胸の奥に重く沈んでいた。
……僕では、駄目なのだろうか。
答えてくれる者は、もう部屋にはいない。
静まり返った私室で、エドガーは一人、深く俯いていた。




