レナードの怒り
その日の夕方。
レンは城内の自室で、一人静かに過ごしていた。
窓から差し込む夕日が、部屋の床を柔らかな橙色に染めている。
昼間、ハーグリーヴス主席補佐官からブラックリッジ採石場の調査について報告を受けたばかりだった。報告そのものは、記録を照合中であるという当たり障りのない内容だったが、その後の会話には少々引っかかるものがあった。
武勇、名声、領民からの信望。そして、領政への関心。
何故あれほど、自分について尋ねてきたのだろう。
そんなことを考えていると、扉をノックする音が聞こえた。
「……?」
レンは立ち上がり、扉を開けた。
そこに立っていたのは、つい数時間前にも顔を合わせたハーグリーヴスだった。
「ハーグリーヴス……何か用か」
「はい……先ほどはお連れ様もいらっしゃいましたので、少々個人的なお話をさせていただければと思いましてな」
レンは黙って老臣を見つめた。
その時、昼間にセヴランから言われた言葉が脳裏によみがえった。
――気をつけろ。あの爺さん、お前を探ってるぞ。
――兄貴の代わりになるかどうかをな。
あの時は、セヴランが何を警戒しているのか、十分には理解できなかった。
兄の代わりになるかどうか。
そもそも、そんなことを考えたこともない。
だが、ハーグリーヴスが再び自分を訪ねてきた以上、何か話があるのは確かだ。
(……確かめてやる。何を探っているのか)
「入れ」
「ありがとうございます」
レンはハーグリーヴスを室内へ招き入れた。
二人は向かい合って腰を下ろした。
窓から差し込む夕日は、まだ室内を明るく照らしている。ハーグリーヴスはいつもと変わらぬ穏やかな表情で、レンの前に座っていた。
「……して、話とはなんだ」
「………」
ハーグリーヴスはしばし言葉を選ぶように間を置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「昨日より、レナード様が若様の代わりに執務室での調査を代行される姿に、このハーグリーヴス、お二方の昔の姿が思い出されましてな……」
その声には、長くローレンス家に仕えてきた老臣らしい親しみがあった。
「本当に、仲のよい御兄弟であられました。エドガー様は思慮深く、嫡男としての政務に地道に取り組まれ、レナード様は幼い頃から頭角を現され、数々の武勇を打ち立てて来られた。ローレンス家、いや、ローレンス領民の誉れでございます」
レンは黙って耳を傾けていた。
ハーグリーヴスは幼い頃から兄弟を見てきた人物だ。その言葉には、確かに長年の付き合いを感じさせるものがある。
兄が昔から政務に熱心だったことも、よく知っている。
「エドガー様をレナード様と較べる者もおりましたが、エドガー様もまた、まことに聡明なお方でございます。領政に関する知識も、私どもが舌を巻くほどでしてな」
「ああ。兄上は昔からそうだった」
レンは素直にうなずいた。
兄の聡明さについては、誰に教えられるまでもない。
幼い頃からエドガーは、レンが剣や魔術に打ち込んでいる間、難しい書物を読み、父や家臣たちから領政を学んでいた。
その知識も判断力も、レンが心から尊敬しているものだった。
しかし、ハーグリーヴスの話はそこで終わらなかった。
「ですが、辺境伯家の当主となれば、それだけでは済まぬこともございます」
「……どういう意味だ?」
「この地は国境に近く、時には武力をもって領民を守らねばなりません。若様のお身体では、少々ご負担が大きいのではないかと……」
「……それで?」
レンの返答は短かった。
ハーグリーヴスは、その声音の変化には気づかなかったのか、あるいは気づいても意に介さなかったのか、変わらず穏やかに話を続けた。
「レナード様であれば、武勇も名声も申し分ございません。ローレンスに仇なす者も身を潜めるでしょう」
レンは黙って相手を見ていた。
確かに、辺境伯家には領地を守る責務がある。国境に近い土地であれば、武力が必要になることもあるだろう。
だが、それと当主自身が武器を振るえるかどうかは、同じ話ではないはずだ。
何より、ハーグリーヴスが何を言おうとしているのか、次第に見えてきた。
「レナード様。もし、家督をお継ぎになるお気持ちがございましたら――」
「ない」
ハーグリーヴスが言い終わるより早く、レンは答えた。
「……は?」
「俺が家督を継ぐことは絶対にあり得ない。それは兄上が継ぐべきものだ」
そこには迷いもためらいもなかった。
ローレンス辺境伯家の家督は、兄が継ぐべきものだ。
レンにとって、それは今さら考える必要もないほど当然のことだった。
自分がどれほど剣に優れていようと、どれほど冒険者として功績を挙げようと、それが兄に代わって家督を継ぐ理由になるとは思わない。
ハーグリーヴスは一瞬言葉を失ったようだったが、すぐに穏やかな表情を取り戻した。
「しかし、エドガー様には少々お身体の弱いところが……」
「……ハーグリーヴス」
「はい」
レンの声は静かだった。
だが、その響きには、先ほどまでとは明らかに異なる硬さがあった。
「確かに、兄上は武器を振るったりはしない。だが代わりに、領民のために二晩も寝ずに働き続ける心の強さを持っている。俺には無いものだ」
レンはまっすぐにハーグリーヴスを見据えた。
兄の身体が丈夫ではないことくらい、誰よりもよく知っている。
無理を重ねている姿を見るたび、もっと休んでほしいと思っていた。二晩も眠らずに働くことが、身体によいはずがない。
それでも、領民のために自分の限界を超えて責任を果たそうとする兄の意志を、レンは弱いなどと思ったことがなかった。
剣を振るうことだけが強さではない。
自分が到底真似できないような忍耐と責任感を、兄は持っている。
だからこそ、尊敬しているのだ。
「それは、もちろん……」
「それを知っていて、なぜ兄上では務まらないようなことを言う?」
レンは声を荒らげなかった。
しかし、灰色の瞳には鋭い怒気が宿っていた。
ハーグリーヴスは、兄の仕事を誰よりも近くで見てきた人物の一人だ。
エドガーがどれほど勤勉で、どれほど領民のために尽くしているか。知らないはずがない。
その人物が、兄の身体の弱さを理由に、当主としての適性を疑うようなことを口にした。
それがレンには許せなかった。
ハーグリーヴスは、ようやく目の前の青年が明確に怒っていることを悟ったらしい。
わずかに姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「……これは失礼を。若様を軽んじる意図など、毛頭ございませんでした」
「ならば、俺の前で二度とそのような話をするな」
「……承知いたしました」
それ以上、レンは何も言わなかった。
ハーグリーヴスも説得を続けることはせず、静かに立ち上がった。
深々と礼をすると、いつもの礼儀正しい態度のまま部屋を後にする。
扉が閉まったあと、レンはしばらくその場に座っていた。
セヴランの言っていたことは、こういう意味だったのか。
ハーグリーヴスは本当に、自分が兄の代わりに家督を継ぐ意思があるか確かめようとしていたのだ。
だが、答えは明確に伝えた。
自分にその意思はない。家督を継ぐのは兄だ。
これで、この話は終わったはずだった。
◇ ◇ ◇
レンの私室の扉を静かに閉めたハーグリーヴスは、薄暗くなり始めた廊下に立っていた。
窓から差し込む夕日の光は、先ほどよりも弱まっている。
老臣はゆっくりと歩き出した。
その口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
(……この弟、決して頭は悪くない)
先ほどの会話を思い返す。
レナードは、こちらの意図をまったく理解できない愚か者ではなかった。
家督相続の話を切り出した途端、即座に拒絶した。兄の身体の弱さを持ち出せば、あれほど明確な怒りを示した。
兄への尊敬は、どうやら本物らしい。
だが、それ以上に興味深いことがあった。
(しかし、領政や権力にまったく興味がないのだ。我が手で政治権力を握ろうという欲が)
あれほどの武勇を持ちながら、家督を望まない。
最高位の冒険者として名声を得て、聖女の護衛という名誉ある立場にありながら、政治的な権力を求めようとしない。
むしろ、領政は兄の仕事だと考えている。
ハーグリーヴスは、そこに新たな可能性を見いだしていた。
(もしも……)
もしも、この弟を辺境伯家当主に担ぎ上げることができれば。
領政は我が手の内にあるも同然ではないか。
レナードには、後継者として周囲を納得させるだけの材料が揃っている。
ローレンス家の血統。
最高位の冒険者という圧倒的な武勇。
聖女の護衛という名誉。
領民からの人気と、騎士たちからの評価。
そして何より、本人に権力への野心がない。
当主としての地位を得ても、領政を自ら掌握しようとはしないのではないか。
そうであれば、実際の政務を取り仕切るのは誰になるか。
長年にわたりローレンス家の領政を支え、行政の仕組みを熟知している自分だ。
(……最高の傀儡となるだろう)
ハーグリーヴスは、そう判断した。
もちろん、レナードが実際に他人の言いなりになる人物かどうかなど、まだ分からない。
むしろ先ほどの拒絶には、容易に曲げられない意志の強さが表れていた。
だが、ハーグリーヴスの目には、政治的な野心のなさこそが魅力的に映っていた。
自分から権力を求めないのであれば、当主の地位だけを与え、実務はこちらが握ればよい。
問題は、本人が家督を継ぐことを頑として拒絶している点だった。
しかし、それも考え方次第ではないか。
「……なるほど」
ハーグリーヴスは小さくつぶやいた。
本人の意思など関係ないのだ。
周囲が「エドガーよりレナードのほうが辺境伯に相応しい」と望めばいい。
レナードが否定しても、「兄のことを思って固辞している」と思わせればいい。
兄を深く尊敬し、その立場を守ろうとする姿勢さえ、見方を変えれば美談になる。
家督を望まないのは、兄を思いやる謙虚さゆえ。
強く辞退するのは、兄を差し置くことをためらっているから。
そう受け取らせることができれば、本人の拒絶すら、後継者にふさわしい美徳として扱える。
そして周囲がレナードを望み、当主として擁立することができれば。
実際の領政を自分が取り仕切ることも、不可能ではない。
ローレンス辺境伯家の実権を、我が手に。
ハーグリーヴスの胸中で、新たな野望が形を取り始めていた。
夕日の名残は、廊下の奥から少しずつ消えつつある。
老臣の足音は、夕暮れが過ぎ、暗くなっていく廊下を通り過ぎていった。




