銀の釣り鉤
翌日、レンは再び領政執務室へ向かっていた。
今度はセヴランも一緒だった。
「まだ資料が出来たという知らせは来ていないのだが」
「今日は別件だ」
セヴランはそれだけ答えると、さっさと廊下を進んでいく。
昨日、レンは三人の補佐官にそれぞれ異なる資料の調査を依頼した。
ウェストン運送組合の帳簿
ベルフォード商会の農作物買付高
そしてブラックリッジ採石場の出荷記録だ。
いずれも、セヴランが選んだ調査対象だった。
まだ資料が完成していないというのに、何をしに行くのだろう。
そう思いはしたものの、セヴランには何か考えがあるのだろうと、レンはそれ以上尋ねなかった。
執務室の前に着くと、レンは扉をノックした。
ほどなくして扉が開き、昨日と同じ女性事務官が顔を出す。
「レナード様、おはようございます。ただ今ハーグリーヴス様はいらっしゃいませんが、よろしいですか?」
「?」
レンは思わず首を傾げた。
別にハーグリーヴスを訪ねてきたわけではない。何故、真っ先にその名前が出てくるのだろう。
「構わねえよ。今日はちょっと資料を見せてもらいたいだけだ」
横からセヴランが答えると、事務官は初めて彼の方へ視線を向けた。
「……俺の同行者だ」
レンが説明すると、事務官は丁寧に頭を下げた。
「かしこまりました。どうぞ」
二人は執務室へ通された。
昨日と同じように、室内では大勢の事務官が忙しく立ち働いている。書類を抱えて行き交う者、机に向かってペンを走らせる者、資料を照合する者。
セヴランは室内をひと通り見渡すと、案内してくれた事務官に声を掛けた。
「昨日こいつが補佐官に頼んだ三件の調査先について、概要が分かる資料を見せてくれ。どんなところか、先に把握しておきたいんだ」
「調査先の概要資料でございますね」
「ああ。詳しい資料は補佐官に依頼してある」
「かしこまりました」
事務官はうなずくと、資料を探しに席を外した。
レンはセヴランを見た。
昨日依頼した帳簿や出荷記録とは別に、概要だけが分かる資料を見たいということらしい。
だが、それが何のためなのかは、やはり分からなかった。
事務官を待つ間、二人はエドガーの執務机の近くに立っていた。
机の上にはいくつもの書類が積まれ、作業途中らしい資料には細かな書き込みが残されている。仕事道具は整然と置かれているものの、扱っている書類の量は相当なものだった。
セヴランはそれを眺めながら、ふと口を開いた。
「知ってるか、レン」
「なんだ」
「こういう机……作業場って、使う人間の性格がモロに出るんだぜ」
「そうなのか?」
「この書類の山、書き込みの量、見ろよ。どうでもいいような細かいことまで、いちいち記録してやがる」
セヴランは机の上に見える資料を眺め、クックッと笑った。
「お前の兄貴、かなりの完璧主義で心配性。ためこみやすいと見た」
「……うっ」
レンは反論しかけて、言葉に詰まった。
兄が几帳面なのは知っている。仕事に対して妥協せず、細かなことまで気を配るのも、昔から変わらない。
そして、一人であれこれ抱え込んでしまうところも。
兄の仕事ぶりをよく知っているだけに、セヴランの指摘を否定できなかった。
その反応を見て、セヴランはますます面白そうに笑った。
そんな話をしているうちに、先ほどの事務官が資料を抱えて戻ってきた。
「お待たせいたしました。ウェストン運送組合の資料はこちらにございます」
「ああ」
「ベルフォード商会の資料も、こちらですね」
「ふん」
事務官は二つの資料を示したあと、少し困ったように手元を見た。
「それから、ブラックリッジ採石場の資料ですが……」
「……?」
「申し訳ございません。現在、倉庫整理のため別の場所へ移しているようでして」
セヴランは特に驚いた様子もなく、事務官へ尋ねた。
「そうか。いつ戻る?」
「それが、まだ確認できておりません。昨日までは確かにこちらの書架にあったのですが……」
「……昨日までは?」
「はい……。今朝、倉庫整理のため移動するよう指示があったようで……」
「分かった。じゃあ、ほかの二つだけでいい」
セヴランはあっさり引き下がった。
事務官からウェストン運送組合とベルフォード商会の概要資料を受け取ると、ページをぱらぱらとめくり始める。
レンはその横から様子を眺めていた。
セヴランは何かを確認するように数ページを開いたものの、じっくり読み込む様子はない。二つの資料をひと通り眺めると、そのまま閉じて事務官へ差し出した。
「ありがとう」
事務官が資料を受け取る。
セヴランはそれ以上何も尋ねず、レンを促して執務室を後にした。
廊下へ出てしばらく歩いたところで、レンはようやく口を開いた。
「……あれで良かったのか?」
「ああ」
「二つの資料も、ほとんど読んでいなかったようだが」
「読みに行ったわけじゃねえからな」
「……?」
レンは怪訝そうにセヴランを見る。
資料を読むために執務室へ行ったのではないのか。
セヴランは肩をすくめた。
「昨日まであった資料が、今朝になって急に移動中だとよ」
「……それが何か?」
「三つ頼んで、一つだけ消えた」
そこで初めて、セヴランの口の端が持ち上がった。
「……釣れたな」
◇ ◇ ◇
その日の午後。
レン、セヴラン、カルミラ、ルシエラの四人は、城内の応接室に集まっていた。
テーブルには洞窟周辺の地図が広げられ、探索に必要な食糧や日数について話し合っている。
「じゃあ、だいたい五日分の食糧を用意して、三日目までに何も出なければ引き返すと。帰還用の食糧は別に確保しておく」
セヴランが地図を見ながら確認する。
「ええ、それで良いでしょう」
ルシエラがうなずいた。
「前回、あらかた大きな魔物は倒したからな」
レンも地図へ目を落とす。
以前の探索で大きな魔物はおおむね片づけている。とはいえ、洞窟の奥まで安全が確認できたわけではない。
そんな話をしていると、カルミラが浮かない顔で口を開いた。
「あたし、狭くて暗いとこ嫌い……」
「お前でけぇからな」
「ムッカー!!!」
カルミラが勢いよくセヴランを睨みつける。
セヴランはまるで気にした様子もない。
いつものことだった。
長く共に冒険してきた四人にとって、こうしたやり取りもすっかり馴染み深いものになっている。
その時、応接室の扉が控えめにノックされた。
レンが立ち上がって扉を開けると、そこには午前中に執務室で対応してくれた女性事務官が立っていた。
「……何か用か」
「レナード様。ハーグリーヴス主席補佐官より、ブラックリッジ採石場の調査について、途中経過をご報告申し上げたいとのことです」
レンは黙ってセヴランを振り返った。
セヴランはすぐに立ち上がる。
「……レン、行こう」
「えっ? どこ行くの?」
カルミラが不思議そうに尋ねた。
「男だけの素敵なお茶会だよ」
「……普通に言いなさい」
ルシエラの冷静な突っ込みを背に、レンとセヴランは事務官の案内に従って応接室を出た。
向かった先は領政執務室だった。
その奥にある小さな応接室へ通されると、ハーグリーヴスが二人を待っていた。
「レナード様。そちらの方は……?」
ハーグリーヴスは丁寧に礼をしたあと、セヴランへ視線を向けた。
「こいつの部下だ」
セヴランが平然と答える。
「……部下?」
レンは思わず隣を見た。
「そうだろ?」
「……まあ、そういうことになるのか」
少し考えてみれば、冒険者として共に行動する仲間であり、レンが中心となって仕事を引き受けることもある。
部下という表現が適切かどうかはともかく、完全に間違いとも言い切れない。
レンが納得すると、セヴランは当然のような顔をしていた。
「左様でございましたか。差し支えなければ、お名前を伺っても?」
「セヴラン。錬金術師だ」
「錬金術師でいらっしゃいますか。なるほど……」
ハーグリーヴスの目がわずかに細くなった。
しかし、その表情から何を考えたのかは分からない。
二人が席につくと、ハーグリーヴスも向かいに腰を下ろした。
「ブラックリッジ採石場の昨年の出荷高につきましては、現在、記録の照合を進めております。概ね例年どおりの稼働状況でございますな」
「そうか。では、帳簿の写しは?」
「そちらも準備を進めております。何分、古い記録も含まれますので、少々お時間をいただきたく」
「へえ。ずいぶん慎重なんだな」
セヴランが口を挟む。
「領政に関わる数字でございますから。誤りがあってはなりませんので」
「分かった。急いではいないので構わない」
レンが答えると、ハーグリーヴスは穏やかにうなずいた。
結局、具体的な出荷高の数字や帳簿の写しは示されなかった。
記録は照合中で、準備にはもう少し時間がかかるという。
レンは、そういうものなのだろうと受け止めた。
一方、セヴランは黙ってハーグリーヴスを眺めていた。
午前中、ブラックリッジ採石場の概要資料だけが、倉庫整理のため移動されていた。
そのことを知っているのは、この場ではレンとセヴランだけだ。
セヴランはあえて、その話を持ち出さなかった。
調査報告が一段落したところで、ハーグリーヴスは話題を変えた。
「それにしても、レナード様のご活躍は、城内でも大変な評判でございます」
「……そうなのか?」
「最上位の冒険者として数々の功績を挙げられ、聖女様の護衛という大役までお務めになっておられる。まことに頼もしい限りでございます」
「俺一人の功績ではない。仲間の助けがあってのことだ」
レンにとって、それは謙遜ではなく事実だった。
自分一人では成し遂げられなかった仕事も多い。今こうして隣に座っているセヴランをはじめ、仲間たちの力があってこその結果だ。
「ご謙遜を。もはや騎士たちの間でも、レナード様のお名前を知らぬ者はおりますまい」
「騎士たちとは稽古で顔を合わせるからな」
「領民からの信望も厚いと伺っておりますぞ」
「……それは兄上の方だろう」
レンは自然にそう答えた。
自分が冒険者として魔物を倒している間も、兄は領地のために働き続けている。
領民の暮らしを支えているのは、日々の領政に携わる兄たちだ。
その信頼を、自分の武勇と同じものとして語られることには違和感があった。
「武勇に優れ、民にも慕われる。領主に求められる資質を、レナード様はすでに多くお持ちでございますな」
「……領主?」
レンはハーグリーヴスを見た。
突然、話の向きが変わったように感じた。
「いやいや、もちろん一般論でございます。民を守る力もまた、領主には欠かせぬものでございますから」
「それだけでは領地は治められない」
「ほう……」
「剣で魔物は倒せる。だが、畑の収穫を増やすことも、商人との取引をまとめることもできない。それをやっているのは兄上だ」
レンは淡々と答えた。
自分が剣を振るえることと、領地を治められることは別だ。
どれほど強い魔物を倒せても、収穫の悪い畑を豊かにする方法が分かるわけではない。商人との取引や領内の財政についても同じことだった。
それらを理解し、日々判断を下しているのがエドガーだ。
レンはその仕事を、決して自分より簡単なものだとは思っていなかった。
ハーグリーヴスは静かに耳を傾けていた。
そこで、それまでほとんど口を開かなかったセヴランが、ふと声を挟んだ。
「……ずいぶんこいつを買ってるんだな」
「もちろんでございます。レナード様は、ローレンス家の誇りでいらっしゃいますから」
「……へえ」
セヴランはそれ以上何も言わなかった。
ハーグリーヴスも穏やかな表情を崩さず、再びレンへ向き直る。
「もしレナード様が領政にもご関心をお持ちでしたら、この私がお力添えいたしますぞ」
「……いや。俺は領政に携わるつもりはない」
「そうおっしゃらずとも。若様のお仕事を、少しでもお手伝いできればと思いましてな」
「兄上の助けになることならしたい。だが、それと領政を担うことは別だ」
レンの答えに迷いはなかった。
兄が困っているなら力になりたい。
今回の調査を引き受けたのも、そのためだ。
だが、それは自分が兄の仕事を代わりに担いたいという意味ではない。
エドガーにはエドガーの役割があり、自分には自分の役割がある。
レンにとって、それはごく当たり前のことだった。
「……なるほど。よく分かりました」
ハーグリーヴスは丁寧にうなずいた。
それ以上、領政への関心を勧めることはなかった。
その穏やかな表情からは、レンの返答をどう受け止めたのか読み取れない。
やがて面談は終わり、レンとセヴランは領政執務室を後にした。
廊下へ出ると、レンは珍しくため息をついた。
「……結局、何が聞きたかったんだ、ハーグリーヴスは」
「気をつけろ。あの爺さん、お前を探ってるぞ」
「……俺を?」
「ああ。兄貴の代わりになるかどうかをな」
「……何だと」
レンは思わず足を緩めた。
兄の代わり。
その言葉は、レンにとってあまりにも唐突だった。
「腕っぷし、名声、人望。おまけに領政への興味まで聞いてきやがった」
「……兄上の代わりなど、俺には務まらない」
レンは即座に否定した。
兄がどれほど領政に精通し、日々どれほど多くのことを考えているか。自分にはその一端しか分からない。
それでも、自分が簡単に代われるような仕事ではないことくらいは理解している。
何より、兄の代わりになろうなどと考えたこともなかった。
「お前がどう思ってるかじゃねえよ」
「……?」
「周りがどう思うかって話だ」
セヴランはそう言って、レンを見た。
本人にその気がなくても、周囲が別の思惑を抱くことはある。
セヴランが言っているのは、そういうことなのだろう。
だが、レンにとって、兄は誰かと比べて優劣を決めるような存在ではなかった。
自分が兄の代わりになるなど、考えることさえなかったのだ。
レンにはまだ、その意味が分からなかった。




