三枚の依頼書
エドガーがノースフェル地方へ出発した翌朝。
レンの居室には、昨夜に引き続きセヴランの姿があった。
テーブルの上には三枚の紙が並べられている。昨夜、セヴランが何やら楽しそうに用意していたものだ。
「もう一度説明するぞ。作戦はこうだ。お前はこれから執務室で、お前の兄貴から聞いた三人にそれぞれ頼み事をする」
レンは真剣な顔でうなずいた。
「ウェストコット補佐官、ペンブローク補佐官、そして……ハーグリーヴス主席補佐官だったな」
「話したことはあるか?」
「あまり覚えはないが、顔は記憶している」
「頼み事の内容は、俺がそれぞれ紙に書いてあるから、それを読みながら渡せ」
セヴランはテーブルの上の三枚を指先で示した。
それぞれには、異なる資料についての調査依頼が記されている。いずれもエドガーがこれまで直接調べていないものだ。
レンは紙を見比べながら、少し考えた。
「……依頼に応じなかった者を炙り出すのか?」
「そこも見るが、問題はその後だ。まあ見てな」
セヴランはそれ以上説明しようとしなかった。
レンには、まだ作戦の全容が分からない。だが、セヴランが何の考えもなく動く男ではないことは、長い付き合いでよく知っている。
レンは三枚の紙を受け取った。
◇ ◇ ◇
領政執務室の扉を、レンは軽くノックした。
ほどなくして扉が開き、中から顔を出した女性事務官が驚いたように目を見開く。
「まあ、レナード様……おはようございます」
「兄上から、留守中に調査を進めてほしいと頼まれている。補佐官に話を聞きたいのだが」
「そうでしたか……どうぞ」
事務官に促され、レンは執務室へ足を踏み入れた。
途端に、室内の空気がわずかにざわついた。
ローレンス家の次男が領政執務室を訪れること自体、珍しい。まして、仕事について話を聞きたいというのだから、事務官たちが驚くのも無理はなかった。
しかし、レン自身はさして気にする様子もなく、室内を見渡した。
書類に囲まれた机がいくつも並び、その間を事務官たちが忙しく行き来している。次々と運び込まれる資料を確認する者、書類を照合する者、担当者同士で何事かを相談する者。
レンには馴染みの薄い光景だった。
剣を振るう者も、魔法を使う者もいない。
それでも、ここでは大勢の人間が、領地を動かすために働いている。
(……兄上は……ここでいつも戦っているのだな)
レンは改めて、兄が日々向き合っている仕事の一端を感じた。
自分とはまるで違う戦い方だ。
だが、だからといって、その重みが違うわけではない。
レンは室内を見渡し、目当ての人物を見つけると、まっすぐそちらへ歩いていった。
「ウェストコット補佐官、で間違いないだろうか」
山積みの書類に囲まれた机に、少し気難しそうな男が座っていた。
男はペンを止め、固い表情のままレンを見上げる。
「……はい、ウェストコットは私ですが、何か」
「兄上から、留守中に調査を進めてほしいと頼まれている。そこで、こちらの資料を用意してもらいたいのだが」
レンは一枚目の紙を差し出した。
ウェストコットはそれを受け取り、内容に目を通す。
「……ウェストン運送組合の昨年の帳簿写し……?」
小さなため息が漏れた。
ただでさえ机の上には仕事が山積みだ。そこへ突然、追加の調査依頼が持ち込まれたのだから、気が重くなるのも無理はない。
ウェストコットは受け取った依頼書を、机の脇にあるボードへピンで貼り付けた。
「……少し量が多いので、明日いっぱいはかかりますよ」
「すまない。あと、この件は内密に頼む」
ウェストコットは依頼を受け付け、再び仕事へと戻った。
依頼書は、机の脇のボードに貼られたままだった。
そこは、必ずしもウェストコット本人だけが目にする場所ではない。
もっとも、レンはそれ以上気に留めず、次の机へ向かった。
ペンブローク補佐官は、レンが近づくのに気づくと、書類に走らせていたペンを止めた。
そして椅子から立ち上がり、丁寧に一礼する。
「レナード様、お久しゅうございます」
久しぶり、と言われても、レンにはいつ会ったのか記憶がなかった。
だが、今それを考えても仕方がない。
「ペンブローク補佐官。頼みたいことがあるのだが」
「はい、何でしょう?」
「兄上から、留守中に調査を進めてほしいと頼まれている。ベルフォード商会のウィロウ村における農作物買付高の推移を調べてもらいたい」
レンが二枚目の紙を差し出すと、ペンブロークはそれを受け取り、内容を確認しながらさらさらとメモを取った。
「資料におまとめすればよろしいですね。承知しました」
話が早い。
レンが内心そう思ったところで、ペンブロークが顔を上げた。
「この資料ですが、レナード様もご覧になりますか?」
「!?」
レンは一瞬、返答に詰まった。
セヴランから渡された紙には、そんな質問への答えは書かれていない。
「それならば、レナード様もご覧になりやすいようにまとめることもできますが」
ペンブロークはあくまで親切そうに申し出ている。
レンは少し考えてから答えた。
「……いや、兄上が見るものだ。俺のことは考えなくていい。それと、この件は内密に頼む」
「はい。承知しました」
ペンブロークは終始丁寧な態度を崩さなかった。
レンは礼を告げ、最後の一人を捜すことにした。
ハーグリーヴス主席補佐官。
兄の仕事を長年支えてきた人物だ。
しかし、執務室を見渡しても、その姿は見当たらなかった。
「すまない。ハーグリーヴス主席補佐官はどこだろうか」
手近にいた事務官へ尋ねる。
「ハーグリーヴス様でしたら、ただ今来客対応中ですが、間もなく戻られると思いますよ」
そう話していると、執務室の奥にある扉が開いた。
そこから、恰幅のよい年配の男性が姿を現す。
相手もレンに気づいたらしく、こちらへ歩いてきた。
「これはこれは、レナード様」
ハーグリーヴスだった。
レンは、その顔をよく覚えていた。
幼い頃から、兄の側で仕事を支えてきた人物。エドガーにとっては、領政の師ともいえる存在だったはずだ。
「執務室にいらっしゃるとは、珍しいことですな」
「ハーグリーヴス主席補佐官、頼みたいことがあるのだが」
レンはセヴランに教えられた通り、話を進めた。
「ブラックリッジ採石場の出荷高を資料にまとめてもらいたいのだが」
「ブラックリッジ採石場の出荷記録でございますか」
「ああ。昨年の出荷高を確認したい」
「承知いたしました。……立ち話も何ですから、こちらへどうぞ」
ハーグリーヴスは穏やかに微笑むと、執務室の奥にある小さな応接室へレンを案内した。
室内に入ってからも、その態度は終始丁寧だった。
「レナード様が領内の仕事にご関心を持たれるとは、珍しいことでございますな」
「兄上から頼まれた」
「……若様から?」
「ああ。留守の間に調査を進めておいてほしいと」
「なるほど……。若様は昔から、何事もご自分で確かめなければ気が済まないお方ですから。お小さい頃から、ずいぶんと熱心でいらっしゃいました」
「兄上らしいな」
レンは素直にうなずいた。
兄が仕事に熱心なのは、今に始まったことではない。幼い頃から、そういう人だった。
「ええ。今回も何かお気にかかることがおありなのでしょうか」
「さあな。俺は頼まれたことをしているだけだ」
その返答を聞いたハーグリーヴスの目つきが、わずかに変わった。
レンはそれを見逃さなかった。
先ほどから、何気ない会話のように聞こえる質問が続いている。
だが、相手が知りたがっているのは、兄が自分に何を頼んだのかということらしい。
「ちなみに、ほかにも何かお調べになっているのでしょうか」
「俺には分からん。必要なら兄上に聞いてくれ」
「はは……若様は今、ノースフェルでございますからな」
ハーグリーヴスは笑った。
レンはそれ以上、何も付け加えなかった。
実際、領政に関する細かな事情は分からない。エドガーから調査を託されたのは事実だが、今頼んでいる資料を選んだのはセヴランだ。
知らないことを、知っているふりをして話す必要もない。
「しかし、採石場の出荷記録とは……少々専門的な資料でございます。失礼ながら、レナード様には退屈な数字ばかりかと存じますが」
「構わない。必要なら読む」
「……左様でございますか」
ハーグリーヴスは、レンの顔を見つめた。
領政にはほとんど関心を示さず、武芸や魔術に打ち込んできたローレンス家の次男。
そんな青年が、突然採石場の出荷記録を求めてきた。
兄に言われた仕事を形式的にこなしているだけなのか。それとも、何か別の意図があるのか。
ハーグリーヴスは穏やかな表情を崩さないまま、話を続けた。
「レナード様。せっかくの機会でございます。もしよろしければ、こちらにいらっしゃるうちに、領内の仕事について私からも少しご説明いたしましょうか」
「……何故だ?」
レンは率直に尋ねた。
「いずれはレナード様にも、ローレンス家の一員としてお力添えをいただくことがあるやもしれません。若様も、さぞ心強く思われることでしょう」
レンは少し考えた。
領政の仕事については、これまでほとんど関心を持ってこなかった。
しかし、今は兄から調査を託されている。
自分に分からないことが多いのも事実だ。
それを少しでも理解できるようになるなら、話を聞く価値はあるだろう。
「兄上の役に立つなら、話は聞こう」
ハーグリーヴスは満足そうに微笑んだ。
「では、採石場の資料は私の方で手配いたしましょう」
「頼む。それと、この件は他言無用で頼む」
「もちろんでございます。どうぞご安心ください」
これで、三人への依頼は済んだ。
レンが話を終えようとしたところで、ハーグリーヴスが再び声を掛けた。
「……ところで、レナード様」
「何だ」
「若様は、ほかに何かおっしゃっておられませんでしたか?」
レンは少し考えた。
兄から言われたこと。
何か、ほかにあっただろうか。
「……無理はするな、と言っていたな」
「……?」
ハーグリーヴスが、わずかに首を傾げた。
彼が知りたかったのは、エドガーが調査について何を話していたのかということだった。
だが、レンが思い出したのは、兄から弟へ向けられた気遣いの言葉だった。
「ほっほっほ、若様らしいお言葉でございますな」
ハーグリーヴスは穏やかに笑った。
「また何か御用がございましたら、このハーグリーヴスにお申しつけください」
そうしてレンを執務室の入り口まで送り届けると、深々と礼をして扉を閉めた。
そして、室内へ振り返る。
その表情には、先ほどまでと変わらない柔和な笑みが浮かんでいた。
ハーグリーヴスは事務官たちにも聞こえる声で告げた。
「……今度からレナード様が参られた時は私を呼べ。対応は全て私がする」




