帳簿と酒瓶
「やられたよ……」
エドガーの深いため息が、静かな居室に落ちた。
それぞれ呼び出され、今朝からの出来事を聞かされたレンとセヴランも、すぐには言葉が出なかった。
ノースフェル地方で行われる監理官の定期視察。本来なら地方行政官だけで行われるはずだったそこへ、急遽、辺境伯家からも立会人を出すことになった。
そして、その役目を任されたのがエドガーだった。
出立は今晩。
片道二日。現地での視察まで含めれば、一週間ほど城を離れることになる。
「……そこまでやるとは、良い線行ってるって言ってるようなもんだな」
セヴランがクックッと喉を鳴らして笑った。
「しかし……ノースフェルだぞ? 一体どれだけかかる? 父上を通して断ることはできないのか?」
「監理官に話を通してしまっているなら、コロコロ話を変えるのはあまり良くない……難しいな」
エドガーは困ったように眉を下げた。
正式な公務としてすでに話が進んでいる以上、今から取りやめれば、ローレンス家側の都合で監理官を振り回すことになる。
何より、ここで不自然に拒めば、ハーグリーヴスを疑っていると悟られるかもしれない。
昨朝、誰にも告げずレンたちと城を出た。その翌日に突然決まった、一週間に及ぶ遠方への公務。
偶然だと考えることもできる。
だが、今のエドガーにはそう思い込むこともできなくなっていた。
「それより……レン、お前たちに頼みがあるんだ」
エドガーは机へ向かうと、いくつかに束ねられた厚みのある資料を置いた。
「……これは、僕が今まで調べたグレンフォード地区の工事、農産物に関連する不可解な金の流れに関する資料だ」
レンとセヴランが机へ近づく。
「僕の居ない間に……何か気づいたことがあったら追ってほしいんだ。それと、これは君たちが持っていてほしい。城に置いていくのは……少し怖くなった」
二人の視線が、同時にエドガーへ向いた。
自分の生まれ育った城に、調査資料を残していくことさえ怖い。
その言葉が意味するところを、説明する必要はなかった。
「……分かった。俺が預かる」
レンが迷わず答える。
「……ふーん……」
一方、セヴランは資料の束を手に取ると、早くも中身をぱらぱらとめくり始めていた。
しばらく目を通していたセヴランが、不意に顔を上げる。
「この資料……今は隠されてると言ったな。城では誰が見られる?」
「執務室付けの補佐官と事務官かな……帽子を被っているのが補佐官で、現在七名いる。それぞれに担当業務が違うが、資料を閲覧するだけなら執務室に出入りする者なら閲覧できる」
「……例えばだが、レンが見たいと言ったら?」
「僕に言いつけられているとか、父上から後学のため見学しろと言われているとか、理由をつけて事務官に言えば出してくれると思うよ」
突然自分の名前が出てきて、レンがわずかに首を傾げた。
しかしセヴランは構わず続ける。
「あんたがウィロウ村を調べてるって知ってる奴は?」
「……昨日、君たちと出掛けたことは割れているが、ウィロウ村に行ったとはまだ誰も気づいていないはずだ」
「ノースフェル行きを決めたのは誰だ?」
「決まった時にそこに居た訳ではないけど、一週間の視察というと大ごとだ。父上にも話を通すことになる。そこまでの動きが出来るとなると、やはりハーグリーヴスしか考えられない」
「そこまで権力握ってるのかよ、あの爺さんが」
「もう代々主席補佐官として務めている家系だからな……ローレンス家の中でも家令の次か、その次くらいの力はあるよ」
「なるほどね……」
セヴランは再び資料へ視線を落とした。
次々に飛んでくる質問に答えながら、エドガーもその意図を探る。
「それで、あんたが留守の間、領内の仕事を動かせるのは? まさか爺さんの天下って訳じゃないよな?」
「今、主席補佐官のハーグリーヴスの二番手、三番手についている二人の補佐官だね。彼ら三人でローレンス領内の執務を大まかに担当分けし、そこから各担当官に仕事が割り振られる仕組みだ」
「ふーん……」
セヴランが何かを思いついたように目を細めた。
「その三人、それぞれに別の話を流せるか?」
「別の話?」
レンが訊き返す。
「……? 特に業務上、情報を共有するような場面でなければ出来ると思うけど……」
そこまで答えて、エドガーはようやく気づいた。
セヴランは最初から、ハーグリーヴスだけを見ていたわけではない。
誰が資料を見ることができるのか。
誰が何を知っているのか。
誰が領内の仕事を動かせるのか。
一つ一つ確認しながら、城の中で情報がどこからどこへ流れているのかを探っていたのだ。
「誰が何を知ってるか分からねえなら、こっちから“知ってること”を分けてやりゃいい」
「……何か、考えがあるんだね」
「まあな。ただ、これだけで誰が黒か分かるわけじゃねえ。誰かから誰かへ話が伝わる可能性もある。だが、どこから情報が漏れてるかくらいは絞れるかもしれねえ」
そう言うと、セヴランは隣に立つレンへ目を向けた。
「まあ、上手くいくかはこいつにかかってるから何とも言えんが」
ぽん、とレンの肩へ手を置く。
「俺が?」
自分だけ話についていけていなかったレンが、怪訝そうにセヴランを見る。
その顔を見て、セヴランは口の端を上げた。
「うまくいけば、調べる必要もねえかもしれねえ。向こうから名乗り出てもらおうぜ」
何か企んでいることだけは分かる笑みだった。
◇ ◇ ◇
その日の夜。
エドガーは予定通り、ノースフェル地方へ向けて城を発った。
そして今、レンの居室には、エドガーから託された帳簿や資料、ローレンス領内の地図、それに何枚もの白紙が広げられていた。
その机の前に座るセヴランの左手には、酒の入ったグラス。
右手には帳簿の写し。
「……何故酒を持ってきた」
「うるせえぞ。俺は飲んだほうが頭が回るんだよ」
レンは眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
二人がこうして集まったのは、明日からの動きを決めるためだ。
セヴランはグラスを片手に帳簿を眺め、時折地図へ視線を移しては白紙へ何かを書き込んでいる。
やがて唐突に尋ねた。
「レン、お前、石材ひと山運ぶのにどれだけ馬車が要るか知ってるか?」
「知らん」
「だろうな。じゃあブラックリッジからウィロウ村まで何日かかる?」
「……知らん」
「安心しろ。俺も知らねえ」
「……何の話だ」
「だから今、計算してんだよ」
セヴランは地図で距離を測りながら、再びペンを走らせる。
帳簿に記載されている石材の量。
採石地であるブラックリッジからウィロウ村までの距離。
そして、それだけの石材を本当に荷馬車で運んだ場合、どれほどの輸送が必要になるのか。
正確な日数や台数まで割り出すには、まだ情報が足りない。
だが、大まかな規模だけなら十分に見えてくる。
「まあ、計算するまでもなくこれだけは分かる。この帳簿通りなら、一日に何十台って荷馬車が街道を往復してなきゃおかしい」
「……何十台?」
セヴランは「はぁ~ぁ」とやる気のないため息をついて帳簿を閉じ、そのままグラスを煽った。
「……見れば見るほどアホみてえな帳簿だ。数字だけなら立派だが、これを本当に運んだってんなら、街道が馬車で詰まって村まで辿り着けねえよ。それとも錬金術でも使ったのか? ブラックリッジの石が朝にはウィロウ村に湧いて出るってか?」
「……いや待てよ、転移魔法を使えば――」
「バーカ。この国にあんなでかい転移魔法を使える魔術師が、お前とルシエラ以外に何人居ると思うんだ? 土木運搬業で稼ぐ魔術師とか聞いたことねえぞ」
皮肉を真面目に検討し始めたレンを即座に切り捨て、セヴランは帳簿の表紙を指先で叩いた。
「とにかく、この量を本当に運んだなら、村人は洪水より先に荷馬車の行列を覚えてるだろうよ。存在しねえ洪水を直すために、見た奴もいねえ石を、見た奴もいねえ馬車で運んだ。……そりゃ金だけはいくらでもかかるわな」
レンは机の上の帳簿へ目を落とした。
自分が見ても、数字が並んでいるようにしか思えなかったものだ。
だが、そこに書かれた数字を現実の石材へ置き換え、馬車へ積み、実際の街道を走らせてみれば、その異常さはレンにも分かった。
帳簿の中だけなら存在できる。
だが、それだけの物が本当に動いていたのなら、誰にも気づかれないはずがない。
「兄上は……それも知っているのだろうか」
「違和感はあるが決定打がなかったから村まで出向いたんだろ? まあ、この帳簿を書いたアホよりはよっぽど優秀だと思うけどな。金勘定はできても馬車を見たことがねえらしいな」
レンはしばらく黙って帳簿を見つめていた。
剣なら分かる。
魔法なら、自分が何をすればいいのかも分かる。
だが、これは兄がずっと向き合ってきた領政の世界だ。
自分には分からないことばかりだった。
それでも、兄がいないからといって、ただ帰りを待っているつもりはない。
「……セヴラン、兄上がいない間に俺に出来る事はあるか?」
「ある」
返事は即答だった。
「っていうか、お前にしかできねえ」
「教えてくれ」
レンの表情は真剣そのものだった。
それを見たセヴランの口の端が、ゆっくりと持ち上がる。
「簡単だ」
セヴランは三枚の紙を取り出し、机の上へ並べた。
それぞれに、明日から使うための異なる情報が書かれている。
「明日からお前には――」
レンが三枚の紙を見下ろす。
セヴランは楽しそうに笑った。
「ちょっとばかり、兄貴の仕事に興味を持ってもらうぜ」




