老臣の思惑
時間は少し戻る。
エドガーとレンたちがウィロウ村へ向かった、その日の朝。
ローレンス辺境伯居城の廊下を、ハーグリーヴスは珍しく早足で歩いていた。
いつもの落ち着いた足取りではない。そのまま執務室へ辿り着くと、勢いよく扉を開ける。
「若様は? 若様を知らぬか!?」
普段とは明らかに違う主席補佐官の様子に、その場にいた者たちが顔を上げた。ほどなくして、彼の息のかかった補佐官が数人集まってくる。
「こちらにも見えておりません」
「馬車は」
「辺境伯家のものはすべてございます」
「では、どこへ……
ハーグリーヴスが眉間に皺を寄せる。
そのとき、補佐官の一人が何かを思い出したように口を開いた。
「……レナード様の一行が、今朝早く発たれたとのことです」
ハーグリーヴスの動きが、はたと止まった。
「……レナード様と?」
「はい。今朝の出入りはまだそれだけだと、衛兵が……」
しばらく黙り込んだあと、ハーグリーヴスは深いため息をつき、椅子へ腰を下ろした。
「……見張っておけと言ったはずだぞ」
「……申し訳ございません」
低い声に、補佐官が頭を下げる。
別の補佐官が、ふと思い出したように言った。
「……そういえば、先日若様はハルフォード商業金融社について調べておられました」
ハーグリーヴスの表情が変わった。
「……何だと?」
「過去数年の取引記録をご覧になっているようでした。どの部署から支払いが行われ、どこを経由しているのかと……」
「……そこまで辿り着いたか」
ハーグリーヴスは額に手をやり、天を仰ぐように上を向いた。
「まったく……聡いお方だ」
そこに浮かんだものは、エドガーを侮る者の苛立ちではなかった。
むしろ逆だ。
若いからといって、エドガーの能力を低く見積もっていたわけではない。領政の実務における理解の速さも、数字の中にある小さな不自然さを拾い上げる目も、ハーグリーヴスはよく知っている。
だからこそ、放置するわけにはいかなかった。
しばらく考え込んだあと、ハーグリーヴスは立ち上がった。
先ほどまでの焦りは消えている。その顔にはすでに、主席補佐官としての冷静さが戻っていた。
「よいか、若様が閲覧した資料をすべて洗い出せ! 財務、治水、農政、商会との取引記録――一つ残らずだ!」
「は、はい」
「何を見た。どこまで見た。誰に話した。それを先に突き止めろ!」
補佐官たちが慌ただしく動き始める。
必要なのは、ただ資料を隠すことではない。
まず、エドガーが何に気づいたのかを知らなければならない。どこまで辿り着き、その情報を誰と共有したのか。それを把握しなければ、何を隠すべきかすら判断できない。
ハーグリーヴスはしばらく考えたあと、再び口を開いた。
「……近々、若様でなければ務まらぬ公務はないか」
一人の補佐官が慌てて予定表を確認する。
「来週、ノースフェル地方で監理官による定期視察がございます。ただ、本来は地方行政官のみで――」
「それだ」
補佐官が顔を上げた。
「辺境伯家からも立会人を出すことにする。若様に行っていただく」
「ですが、ノースフェルまでは片道二日ほど……」
「だからいい。その間に整えるべき事を整える」
往復だけでも四日。
現地での視察を含めれば、一週間ほどはエドガーを城から遠ざけられる。
「しかし……若様をノースフェルへ向かわせても、レナード様がおられます」
「……あのお方は関係ないだろう」
「ですが、本日も若様と――」
「レナード様が領政などに興味を持たれたことがあるか?」
「それは……」
補佐官は答えに詰まった。
確かに、レナードが領政へ積極的な関心を示したことはほとんどない。
ハーグリーヴスは黙り込み、わずかに目を細めた。
ローレンス家の次男、レナード。
領政にはほとんど興味を示さない一方で、武芸にも魔術にも秀で、若くして数々の武功を立ててきた青年。
「……いや」
その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「むしろ、それこそちょうどいいかもしれんな」
補佐官たちは顔を見合わせた。
だが、その言葉の意味を知る者は、まだ誰もいなかった。
◇ ◇ ◇
その翌朝。
城内の廊下を歩きながら、エドガーは重いため息をついた。
昨夜も遅くまで執務をしていたが、ほとんど眠ることができなかった。
ウィロウ村で目にした通達書。
ハーグリーヴスの印と筆跡。
そして、ヴィクトリアとの夕食で交わした会話。
『ローレンス家にも手の者が入り込んでいないとは言い切れませんわ。それがアシュクロフトのやり方です』
考え始めれば際限がなく、眠ろうとしても頭の中から離れてくれなかった。
おかげで朝食もろくに喉を通らず、ヴィクトリアにはまた心配をかけてしまった。
何より、ハーグリーヴスの顔を思い浮かべるだけで、胃の辺りがずーんと重くなる。
(……ハーグリーヴスに会ったら、どんな顔をすれば良いんだろう)
今まで、足りない自分に穏やかに仕事を教えてくれた人だった。
分からないことがあれば尋ね、困れば助言を求める。それが当たり前だった。
こんなことを考えながら執務室へ向かったことなど、一度もない。
やがて執務室の前まで来たところで、エドガーは小さく首を振った。
(……いや、これではいけない)
疑っていることを悟られてはいけない。
まだ、ハーグリーヴスが何をしているのかは分からないのだ。
ならば、いつも通りにすればいい。
(……いつも通りって、どうしていたっけ)
意識した途端、それすら分からなくなった。
エドガーは一度息を整え、ゆっくりと扉を開けた。
「若様、おはようございます」
「お、おはよう」
中では、ハーグリーヴスをはじめ、多くの補佐官や事務官が忙しそうに仕事をしていた。
書類を運ぶ者、机に向かう者、何事かを小声で確認し合う者。
いつもと変わらない朝の執務室。
――の、はずだった。
一瞬だけ。
数人の視線が、自分へ向けられた気がした。
しかし、それもすぐに書類や仕事へと戻っていく。
(……気のせいか)
昨日までなら気にも留めなかったことだ。
自分が疑心暗鬼になっているだけかもしれない。
エドガーが自分の机に着くと、ほどなくしてハーグリーヴスが側へやってきた。
「若様、おはようございます」
「おはよう、ハーグリーヴス。昨日は黙って外して悪かったね」
できるだけ、いつもと同じ声で答える。
目の前にいるのも、いつものハーグリーヴスだ。
そう思いながら、エドガーは彼を見上げた。
「いえ。……どちらへお出かけに?」
一瞬だった。
ハーグリーヴスの笑顔が消えた。
その目の奥に、ひやりとするような冷たい光が宿ったのを、エドガーは確かに見た。
「……レン達に誘われてね。近くの町を案内していたんだ。少し羽目を外しすぎたかな」
「……そうですか」
それも、ほんの一瞬。
ハーグリーヴスはすぐに、いつもの穏やかな笑顔へ戻っていた。
(……今の顔は……)
問いかけることはできない。
ハーグリーヴスも、それ以上昨日の外出について追及しなかった。
「ところで若様。ノースフェル地方で監理官による定期視察がございます」
「ノースフェル?」
ローレンス領の北方に位置する地域だ。
城からは片道二日ほどかかる。現地での視察まで含めれば、一週間ほどは帰ってこられないだろう。
「本来は地方行政官のみの予定でしたが、辺境伯家からも立会人を出すことになりまして」
「いつ?」
「監理官の都合が変わりまして。できれば今晩遅くにもご出立いただければと」
「……今晩?」
エドガーは思わず聞き返した。
領内の視察に辺境伯家の人間が立ち会うこと自体は、何もおかしくない。跡取りである自分がその役目を担うことも十分にあり得る。
公務として考えれば、不自然な話ではない。
だが――あまりにも急すぎる。
昨日、自分は誰にも告げずに城を出た。
ウィロウ村で、ハーグリーヴスの名が記された通達を確認した。
そして今日になって突然、一週間ほど城を離れる公務が入った。
(……昨日の行動で、警戒されているのか?)
偶然かもしれない。
今の段階で、そうだと決めつけることはできない。
けれど、昨日までの自分のように、何の疑問も持たず受け入れることもできなくなっていた。
「……分かった。準備しておくよ」
ここで拒めば、それこそ不自然だ。
自分が何かを疑っていると悟られるかもしれない。
公務として拒む理由がない以上、今は何も知らないふりをするしかない。
「では、手配はこちらで進めておきましょう」
ハーグリーヴスは穏やかに微笑んだ。
エドガーは椅子に座ったまま、その顔を見上げる。
穏やかに細められた目。
丁寧に上がった口元。
何度となく見てきたはずの笑顔だった。
それなのに。
(――こんな顔だったか……?)
ハーグリーヴスの笑顔そのものが変わったのか。
それとも、変わってしまったのは自分の見る目なのか。
エドガーには、もう分からなかった。




