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エドガー・ローレンスの憂鬱  作者: ヒナツキスバル
第三章 ローレンス家の跡取り
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老臣の思惑

 時間は少し戻る。


エドガーとレンたちがウィロウ村へ向かった、その日の朝。

ローレンス辺境伯居城の廊下を、ハーグリーヴスは珍しく早足で歩いていた。


いつもの落ち着いた足取りではない。そのまま執務室へ辿り着くと、勢いよく扉を開ける。


「若様は? 若様を知らぬか!?」

普段とは明らかに違う主席補佐官の様子に、その場にいた者たちが顔を上げた。ほどなくして、彼の息のかかった補佐官が数人集まってくる。


「こちらにも見えておりません」

「馬車は」

「辺境伯家のものはすべてございます」


「では、どこへ……

ハーグリーヴスが眉間に皺を寄せる。


そのとき、補佐官の一人が何かを思い出したように口を開いた。


「……レナード様の一行が、今朝早く発たれたとのことです」


ハーグリーヴスの動きが、はたと止まった。

「……レナード様と?」

「はい。今朝の出入りはまだそれだけだと、衛兵が……」


しばらく黙り込んだあと、ハーグリーヴスは深いため息をつき、椅子へ腰を下ろした。


「……見張っておけと言ったはずだぞ」

「……申し訳ございません」


低い声に、補佐官が頭を下げる。

別の補佐官が、ふと思い出したように言った。


「……そういえば、先日若様はハルフォード商業金融社について調べておられました」

ハーグリーヴスの表情が変わった。


「……何だと?」


「過去数年の取引記録をご覧になっているようでした。どの部署から支払いが行われ、どこを経由しているのかと……」

「……そこまで辿り着いたか」


ハーグリーヴスは額に手をやり、天を仰ぐように上を向いた。

「まったく……聡いお方だ」


そこに浮かんだものは、エドガーを侮る者の苛立ちではなかった。

むしろ逆だ。

若いからといって、エドガーの能力を低く見積もっていたわけではない。領政の実務における理解の速さも、数字の中にある小さな不自然さを拾い上げる目も、ハーグリーヴスはよく知っている。


だからこそ、放置するわけにはいかなかった。


しばらく考え込んだあと、ハーグリーヴスは立ち上がった。


先ほどまでの焦りは消えている。その顔にはすでに、主席補佐官としての冷静さが戻っていた。


「よいか、若様が閲覧した資料をすべて洗い出せ! 財務、治水、農政、商会との取引記録――一つ残らずだ!」

「は、はい」

「何を見た。どこまで見た。誰に話した。それを先に突き止めろ!」

補佐官たちが慌ただしく動き始める。


必要なのは、ただ資料を隠すことではない。


まず、エドガーが何に気づいたのかを知らなければならない。どこまで辿り着き、その情報を誰と共有したのか。それを把握しなければ、何を隠すべきかすら判断できない。


ハーグリーヴスはしばらく考えたあと、再び口を開いた。

「……近々、若様でなければ務まらぬ公務はないか」


一人の補佐官が慌てて予定表を確認する。

「来週、ノースフェル地方で監理官による定期視察がございます。ただ、本来は地方行政官のみで――」


「それだ」

補佐官が顔を上げた。

「辺境伯家からも立会人を出すことにする。若様に行っていただく」


「ですが、ノースフェルまでは片道二日ほど……」

「だからいい。その間に整えるべき事を整える」


往復だけでも四日。

現地での視察を含めれば、一週間ほどはエドガーを城から遠ざけられる。


「しかし……若様をノースフェルへ向かわせても、レナード様がおられます」

「……あのお方は関係ないだろう」

「ですが、本日も若様と――」

「レナード様が領政などに興味を持たれたことがあるか?」

「それは……」


補佐官は答えに詰まった。

確かに、レナードが領政へ積極的な関心を示したことはほとんどない。


ハーグリーヴスは黙り込み、わずかに目を細めた。

ローレンス家の次男、レナード。


領政にはほとんど興味を示さない一方で、武芸にも魔術にも秀で、若くして数々の武功を立ててきた青年。


「……いや」

その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。

「むしろ、それこそちょうどいいかもしれんな」


補佐官たちは顔を見合わせた。


だが、その言葉の意味を知る者は、まだ誰もいなかった。


     ◇ ◇ ◇


 その翌朝。


城内の廊下を歩きながら、エドガーは重いため息をついた。


昨夜も遅くまで執務をしていたが、ほとんど眠ることができなかった。


ウィロウ村で目にした通達書。

ハーグリーヴスの印と筆跡。

そして、ヴィクトリアとの夕食で交わした会話。


『ローレンス家にも手の者が入り込んでいないとは言い切れませんわ。それがアシュクロフトのやり方です』


考え始めれば際限がなく、眠ろうとしても頭の中から離れてくれなかった。

おかげで朝食もろくに喉を通らず、ヴィクトリアにはまた心配をかけてしまった。


何より、ハーグリーヴスの顔を思い浮かべるだけで、胃の辺りがずーんと重くなる。


(……ハーグリーヴスに会ったら、どんな顔をすれば良いんだろう)


今まで、足りない自分に穏やかに仕事を教えてくれた人だった。


分からないことがあれば尋ね、困れば助言を求める。それが当たり前だった。

こんなことを考えながら執務室へ向かったことなど、一度もない。


やがて執務室の前まで来たところで、エドガーは小さく首を振った。


(……いや、これではいけない)


疑っていることを悟られてはいけない。


まだ、ハーグリーヴスが何をしているのかは分からないのだ。

ならば、いつも通りにすればいい。


(……いつも通りって、どうしていたっけ)


意識した途端、それすら分からなくなった。

エドガーは一度息を整え、ゆっくりと扉を開けた。




「若様、おはようございます」


「お、おはよう」

中では、ハーグリーヴスをはじめ、多くの補佐官や事務官が忙しそうに仕事をしていた。


書類を運ぶ者、机に向かう者、何事かを小声で確認し合う者。


いつもと変わらない朝の執務室。

――の、はずだった。


一瞬だけ。

数人の視線が、自分へ向けられた気がした。

しかし、それもすぐに書類や仕事へと戻っていく。


(……気のせいか)


昨日までなら気にも留めなかったことだ。


自分が疑心暗鬼になっているだけかもしれない。

エドガーが自分の机に着くと、ほどなくしてハーグリーヴスが側へやってきた。


「若様、おはようございます」

「おはよう、ハーグリーヴス。昨日は黙って外して悪かったね」


できるだけ、いつもと同じ声で答える。

目の前にいるのも、いつものハーグリーヴスだ。


そう思いながら、エドガーは彼を見上げた。


「いえ。……どちらへお出かけに?」


一瞬だった。

ハーグリーヴスの笑顔が消えた。

その目の奥に、ひやりとするような冷たい光が宿ったのを、エドガーは確かに見た。


「……レン達に誘われてね。近くの町を案内していたんだ。少し羽目を外しすぎたかな」


「……そうですか」

それも、ほんの一瞬。

ハーグリーヴスはすぐに、いつもの穏やかな笑顔へ戻っていた。


(……今の顔は……)

問いかけることはできない。


ハーグリーヴスも、それ以上昨日の外出について追及しなかった。



「ところで若様。ノースフェル地方で監理官による定期視察がございます」


「ノースフェル?」

ローレンス領の北方に位置する地域だ。

城からは片道二日ほどかかる。現地での視察まで含めれば、一週間ほどは帰ってこられないだろう。


「本来は地方行政官のみの予定でしたが、辺境伯家からも立会人を出すことになりまして」


「いつ?」


「監理官の都合が変わりまして。できれば今晩遅くにもご出立いただければと」


「……今晩?」

エドガーは思わず聞き返した。


領内の視察に辺境伯家の人間が立ち会うこと自体は、何もおかしくない。跡取りである自分がその役目を担うことも十分にあり得る。


公務として考えれば、不自然な話ではない。

だが――あまりにも急すぎる。


昨日、自分は誰にも告げずに城を出た。


ウィロウ村で、ハーグリーヴスの名が記された通達を確認した。


そして今日になって突然、一週間ほど城を離れる公務が入った。


(……昨日の行動で、警戒されているのか?)

偶然かもしれない。

今の段階で、そうだと決めつけることはできない。


けれど、昨日までの自分のように、何の疑問も持たず受け入れることもできなくなっていた。


「……分かった。準備しておくよ」

ここで拒めば、それこそ不自然だ。

自分が何かを疑っていると悟られるかもしれない。

公務として拒む理由がない以上、今は何も知らないふりをするしかない。


「では、手配はこちらで進めておきましょう」

ハーグリーヴスは穏やかに微笑んだ。


エドガーは椅子に座ったまま、その顔を見上げる。


穏やかに細められた目。

丁寧に上がった口元。

何度となく見てきたはずの笑顔だった。


それなのに。


(――こんな顔だったか……?)


ハーグリーヴスの笑顔そのものが変わったのか。

それとも、変わってしまったのは自分の見る目なのか。


エドガーには、もう分からなかった。



挿絵(By みてみん)

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