つよがるヴィクトリア
ウィロウ村を発った荷馬車は、夕暮れの街道をローレンス辺境伯居城へ向けて進んでいた。
車輪が土を踏む音と、馬の蹄が一定の調子で響いている。
その単調な音とは裏腹に、荷馬車の中には重苦しい空気が漂っていた。
村役場で確認した書類の仕組み。
村側が記入するのは、被害発生日、被害箇所、そして補修箇所まで。農作物の被害、施工業者や工事費、資材の調達先については空欄のまま提出し、領政府側で記入するよう数年前から指示されていた。
村の帳簿だけを見ても不正は見えない。領政府の通常の担当者が、自分の手元にある書類だけを確認しても同じだ。
それぞれが正規の手順で書類を作成しているにもかかわらず、それらを組み合わせることで、実態とは異なる巨額の工事費や被害額を記録できる仕組みが出来上がっていた。
そして、その制度を定めた通達には――。
『ローレンス辺境伯家 主席補佐官』
その名義とともに、ハーグリーヴスの印が押されていた。
領政府の正式な印もある。
偽物とは思えなかった。
エドガー自身、あの印も筆跡も何度となく目にしている。
だが、それを認めることと、その意味を受け入れることは、まるで別の話だった。
「あたし、難しいこと良くわかんないからー。四人で話しなよ」
それまで黙っていたカルミラが、重苦しい一同の顔を見回して立ち上がった。そのまま馭者台へ移り、手綱を取る。
おそらく、本当に何も分からないわけではないのだろう。
少なくとも、今は自分がいないほうが話しやすいと察したらしい。
残されたエドガー、レン、セヴラン、ルシエラの四人は、荷馬車の中で膝を突き合わせるように向かい合った。
それでも、すぐには誰も口を開かなかった。
何から話せばいいのか、エドガー自身にも分からない。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、結局エドガーだった。
「……まさか、こんな形で村にも領政府にもわからないように二重帳簿を完成させるなんて……」
「……単独でできるやり口じゃねえな」
セヴランの言葉に、エドガーは力なく笑った。
「はは……そうかもしれないな」
ここ数日の出来事を思い返す。
必要な資料が、突然閲覧できなくなった。
以前に確認したはずのものとは、数字の異なる資料が用意されていた。
これまでは、誰か一人に動きを見られているのではないかと考えていた。
だが今となっては、一人と考えるほうが不自然だった。複数の人間がそれぞれの立場から自分の行動を把握し、必要に応じて資料へ手を加えていた。そう考えたほうが、これまで感じていた違和感には説明がつく。
「あの通達は本物だった。ハーグリーヴスの印も……筆跡も……何度も見ている。間違いない」
口にしてしまうと、胸の奥がさらに重くなる。
エドガーは深いため息をついた。
「でも、これだけでハーグリーヴス個人が不正を働いているという証拠にはならない……誰かに利用されているのかもしれない」
「確かに、それだけで爺さんが黒とは言えねえ。だが、少なくとも白だと思って調べる段階は終わっただろ」
セヴランの言い方は容赦がない。
けれど、それが間違っているとも思えなかった。
「白か黒か分からないから灰色なのでしょう。ならば、調べない理由にはなりません」
ルシエラも淡々と言う。
エドガーは額に手を当てた。
分かっている。
二人の言う通りだ。
信じたいという気持ちと、調べるべきかどうかは、本来まったく別の問題なのだ。
しばらく考え込んだあと、エドガーは顔を上げた。
「……実は、まだ君たちに話していないことがある」
三人の視線が集まる。
「この件、ハーグリーヴスだけではないんだ。その奥に、アシュクロフト家の影がある」
レンの眉がわずかに動いた。
「……ヴィクトリア嬢の実家か?」
「彼女を疑っているわけじゃない。そんなことは……考えてもいない」
だが、そこだけははっきりしている。
「けれど、調べている金の流れの先に、アシュクロフト家と繋がるものがある。しかも一つ二つじゃない」
レンは少し考えたあと、静かに言った。
「ヴィクトリア嬢は……人に嘘をつける性質の人間ではない」
「でしたら、そこは分けて考えるべきでしょう」
ルシエラの言葉に、エドガーは小さく息を吐いた。
「分かっている。だから困っているんだ」
「ローレンスもそうだが、アシュクロフトのような大貴族となれば一枚岩なんてことはあり得ない。互いに内通者が居て、秘密裏に美味い汁を啜ってるなんてのは良くある話だ」
「そうなのかもしれないな……」
そう答えながらも、エドガーにはまるで現実の出来事のように思えなかった。
貴族同士の内通。不正。派閥同士の暗闘。
そうした話を知らないわけではない。新聞でも目にするし、噂として耳にしたこともある。
けれど、どこか遠い世界の出来事だった。
少なくとも、自分の暮らす城の中で起きていることではないと思っていた。
それが今、自分の足元で起きているのかもしれない。
しかも、長年信頼してきた主席補佐官まで関わっている可能性がある。
――僕は、甘いのかもしれないな。
人を疑うことを知らなかったわけではない。
ただ、疑わなければならないほど近い場所に、そういうものがあるとは考えてこなかった。
エドガーはまた一つ、深いため息をついた。
「兄上」
レンの声に顔を上げる。
「まだ分からないことが多すぎる」
その言葉には、不思議なほど迷いがなかった。
ハーグリーヴスが不正を働いているのか。
アシュクロフト家の誰が関わっているのか。
そもそも、どこまでの人間がこの仕組みに加担しているのか。
確かに、まだ何一つ断定できない。
「だから、調べよう」
エドガーはしばらくレンの顔を見つめ、それから小さく頷いた。
「……そうだな」
分からないから、調べる。
今はそれでいい。
ハーグリーヴスも含め、改めて調べていくしかないのだ。
ただ、一つだけ。
それでも答えの出ない問題が残っていた。
「ヴィクトリアには……なんて話せば良いんだろうな……」
◇
城へ戻ったエドガーは、その日の夕食をヴィクトリアとともに取っていた。
向かいに座る彼女が先ほどからじっと自分を見ている。
そのことに気づいてはいたものの、エドガーは何となく気まずくなり、そっと視線を逸らした。
「あら……今日はお帰りにならないのかと思いましたわ。誰にも言わずお出かけになるなんて」
「皆に言うほど大した用事じゃなかったんだ。それに、レン達と一緒だったんだよ」
「レナード様達と……?」
ヴィクトリアは一瞬考えるような顔をしたあと、ふっと笑った。
「お忍びで街遊びでもしていらしたのかしら」
「うん……まあ、そんなところ」
我ながらひどい返答だった。
自分でも分かるほど歯切れが悪い。
けれどヴィクトリアは追及してこなかった。
何事もなかったように食事を続けている。
それがかえって居心地が悪く、エドガーも黙って食事を口へ運んだ。
やがて、不意にヴィクトリアが視線を上げた。
真っ直ぐに、エドガーの目を覗き込む。
「……アシュクロフトについて、何かお調べになっているのでしょう?」
「………!! ごほっ、ごほっ」
ちょうど水を飲んでいたエドガーは、盛大に咳き込んだ。
あまりにも突然、あまりにも正確に核心を突かれた。
慌てて口元を押さえるエドガーを見れば、もはや答えを聞く必要などなかったのだろう。
「ご安心なさって。無理に内容を聞こうとは思っておりませんわ」
ヴィクトリアは優雅に食事の手を動かしたまま、平然と続ける。
「ただ、アシュクロフトを調べていらっしゃるなら御用心なさって」
エドガーは黙って彼女を見る。
「ローレンス家にも手の者が入り込んでいないとは言い切れませんわ。それがアシュクロフトのやり方です」
その瞬間、脳裏に一人の顔が浮かんだ。
ハーグリーヴス。
閲覧できなくなった資料。
以前とは数字の異なる書類。
そして今日、ウィロウ村で目にした通達書。
そこに押されていた、見慣れた印。
ヴィクトリアは、ハーグリーヴスのことを言ったわけではない。
それでも一度浮かんだ疑念は、簡単には消えてくれなかった。
「わたくしに話せないことでしたら、話さなくて結構ですわ」
ヴィクトリアはそう言ってから、ほんの少し間を置いた。
「……ただ、あなたが困った時くらいは、頼っていただけると思っておりましたけれど」
その視線がわずかに逸れる。
目元に、ほんの少しだけ寂しさが滲んだように見えた。
エドガーの胸が苦しくなる。
「ヴィカ……」
「別に、無理に聞き出そうなどとは思っておりません。あなたが話してくださるまで待ちますわ」
何か言わなければと思った。
けれど、言葉が出てこない。
――僕は彼女を信じている。
そこに迷いはなかった。
だからこそ、今はまだ話せない。
城の中に誰が入り込んでいるのか。
ハーグリーヴスがどこまで関わっているのか。
アシュクロフト家の誰が、この件に関与しているのか。
まだ何も分かっていない。
もう少しだ。
もう少し何かを掴んだら、きっと打ち明けられるから。
「……ありがとう……ヴィカ……」
結局、口から出たのはそれだけだった。
ヴィクトリアは一瞬黙ったあと、小さく頷いた。
「……ええ」
そして、目の前のグラスへ視線を落とす。
細かな泡が、グラスの底から絶え間なく浮かび上がっている。
それを見つめるヴィクトリアの横顔は、どこか寂しげだった。




