ハーグリーヴスの誤算
早朝。
執務室の扉が、勢いよく開いた。
「ハーグリーヴス様……!」
室内にいた補佐官たちが一斉に立ち上がり、頭を下げる。
しかし、足早に入ってきたハーグリーヴスの顔に、いつもの鷹揚な笑みはなかった。
鋭い視線で室内を睨め回し、そのまま低い声を落とす。
「……アシュクロフトから伝令だ」
「アシュクロフト家から……?」
「若様が、グレイヴス建設社のことを調べているらしいとのことだ!」
補佐官たちの間に緊張が走った。
「なぜ先方がそれを……?」
「知らん。だが、向こうが知っている以上、事実と考えた方がいい」
苛立ちを隠すことなく、ハーグリーヴスは机へ手をついた。
「農務報告も、河川工事の記録も動かしたはずだ。商会の買付報告もだ。どこからグレイヴスまで辿った?」
補佐官たちが互いの顔を見合わせる。
農務報告、河川工事記録、商会から提出された買付報告。エドガーが何を見て、どこまで調べていたのかは把握していた。そのうえで必要な資料を別の部署へ回し、倉庫整理に紛れ込ませ、すぐには閲覧できないよう散開させてある。
それでも、エドガーはグレイヴス建設社へ辿り着いた。
やがて一人の補佐官が、何かに気づいたように顔を上げた。
「……商取引の記録では?」
「何?」
「ベルフォードの業者別取扱高です。若様が以前ご覧になった資料には含まれておりませんでしたので……そちらまでは移動させておりません」
「…………」
ハーグリーヴスは黙り込んだ。
あの日、若様から聞き出した資料はすべて把握した。
どの資料を見たのか。
何年度まで遡ったのか。
そのうえで、次に若様が確認しそうな資料を散開させた。
だが――若様は、それを追わなかった。
閲覧できなくなった資料に固執することなく、まったく別の場所からベルフォードの業者を辿ったのだ。
「……まだこの中にあるはずだ。捜せ。グレイヴスだけではない。関連する業者の記録もすべてだ」
「はい!」
補佐官たちが慌ただしく動き始める。
その姿を睨むように見つめながら、ハーグリーヴスは奥歯を噛んだ。
――ローレンス領を動かしてきたのは誰だ。
当主ではない。
ましてや、あの気弱な若様でもない。
私だ。
主席補佐官である、この私だ。
ハーグリーヴス家は代々ローレンス家に仕えてきた。
父も、祖父も、そのまた父も。
何代にもわたって主家を支え、領政の実務を担ってきた。
それなのに、いつまで経ってもハーグリーヴス家は『忠実な補佐官』のままだ。
どれほど『主席』と飾り立てようと、所詮は補佐官。
土地ひとつ、自分たちのものにはならない。
長い年月をかけて、ハーグリーヴスはグレンフォード地方の川沿い一帯に、アシュクロフト家へと繋がる利権構造を作り上げてきた。
水害と復旧工事。
資材の調達。
業者への発注。
そこから生まれる利益の一部をアシュクロフト側へ流し続け、その見返りとして約束を取り付けた。
将来、その一帯がアシュクロフト家の影響下へ入った暁には、統治をハーグリーヴス家へ任せる、と。
いつかハーグリーヴス家が、誰かに仕えるだけの家ではなくなる。
その日のために、長い時間をかけて築き上げてきたものだった。
「ハーグリーヴス様、でしたら資料を処分してしまっては……?」
補佐官の言葉に、ハーグリーヴスの目が冷たく細められた。
「誰が処分しろと言った」
「……っ」
「今まで存在していた資料が、若様が調べ始めた途端に消えればどうなる」
「……」
「そこに何かあると、自分から教えるようなものだろう」
「……申し訳ございません」
「消すのではない。混ぜるのだ」
補佐官たちが一斉に顔を上げた。
「良いか。若様がご覧になる資料はこちらで選べ。虚偽だけを並べるな。八割は本物でいい。残り二割で辻褄を合わせろ」
ハーグリーヴスは淡々と言い放つ。
「数字というものは、全部が嘘だから疑われるんだ」
しばしの沈黙の後、一人の補佐官がおそるおそる口を開いた。
「しかし……若様が、グレイヴス建設社まで辿られるとは」
「……私も驚いている」
それは偽りではなかった。
幼い頃から、気の弱い子だった。
人に強くものを言えず、弟と比べられれば曖昧に笑って引き下がる。
頭が悪いわけではない。
むしろ、書類を読ませれば人並み以上によく気がつく。それは昔から知っていた。
だが、あれなら御しやすい。
当主となったところで、実務はこちらへ任せるだろう。
自分の判断に自信が持てなければ、最後には長年ローレンス家に仕えてきた主席補佐官を頼る。
――そう思っていた。
しかし。
「……あの若造。案外、鼻が利く」
これまで自分が見せてきたものだけを見ていた若様が、初めて自分の想定した道筋から外れた。
ハーグリーヴスは机から手を離し、補佐官たちを見回した。
「それから、若様が誰と話しているか把握しておけ」
「監視をなさるのですか?」
「馬鹿を言え。若様は我々の主だ」
口ではそう言いながら、その表情には敬意の欠片もない。
「ただ、何かお困りなら、すぐ私が手助けできるようにしておけと言っている」
「……承知いたしました」
「特に……レナード様だ」
「レナード様も、ですか?」
「あの方は領政には興味がない。今のところはな」
レナードが仲間たちとともにローレンス家へ滞在していることは、ハーグリーヴスも把握している。
領政に口を出す様子はない。今のところ、今回の件に関心を持っている気配もなかった。
「だが、若様が何を相談するかまでは分からん。念のためだ」
「はい」
「それから本日、若様は外部へ視察に出られている。戻られるまでに整えろ」
「本日中に、ですか……?」
ハーグリーヴスの視線が補佐官へ向く。
「何か問題があるのか?」
「……いえ。ございません」
「いいか。資料を消すな。若様の行動を止めるな」
補佐官たちは黙って次の言葉を待った。
「動く前には必ず私へ報告しろ。勝手な真似はするな」
「承知いたしました」
ハーグリーヴスは低い声で続けた。
「――若様が、自分で諦めるように仕向けろ」




