EP 10
近衛騎士団、公爵邸包囲。開け放たれた正門と、極道のティータイム
ズズン、ズズン、と。
地響きのような重低音が、静かな公爵領の森を揺らしていた。
王国の正規軍にして、最強の武力集団である『近衛騎士団』。
白銀の甲冑に身を包んだ三千人もの精鋭部隊が、王家の紋章が描かれた旗を掲げ、オブシディアン公爵邸へと続く大通りを行軍していた。
太陽の光を反射する三千の剣と槍は、それだけで圧倒的な暴力の象徴であり、いかなる反逆者をも絶望させるに足る威容を誇っている。
その軍勢の中央。
豪奢な装甲馬車の中で、右脚を吊ったエドワード王子は、窓から見える景色に醜い笑いをこぼしていた。
「ははははっ! 見ろマリア、あれがオブシディアン家の領地だ! 普段は偉そうにしているユリウスの奴も、王国軍の全戦力を前にしては今頃震え上がっていることだろう!」
「ええ、殿下。全ては殿下の輝かしいご威光の賜物ですわ。あの野蛮なハルコ様も、これでようやく自分の罪を思い知るはずです」
マリアはエドワードの腕にすり寄りながら、内心で歓喜の声を上げていた。
(勝った。これで私の借金も帳消しになるし、目障りなあの女も公爵も死ぬ。私は悲劇のヒロインとして王妃の座に返り咲くのよ!)
馬車が公爵邸の広大な敷地に到着する。
しかし、先頭を進んでいた騎士団長が、ふと不審に眉をひそめて部隊に停止の合図を出した。
「……どうした団長! なぜ止まる!」
「殿下。様子がおかしいのです。ご覧ください、公爵邸の正門が……」
馬車から顔を出したエドワードとマリアは、目を疑った。
高さ十メートルはあろうかという、オブシディアン公爵邸の重厚な黒鉄の正門。
それが、まるで『歓迎』するかのように、内側に向かって大きく開け放たれていたのだ。
周囲に警備の兵は一人もおらず、高くそびえる防壁の上にも弓兵の姿はない。完全な無防備、異常なまでの静寂だった。
「……罠でしょうか」
騎士団長が冷や汗を流しながら呟く。王国の裏社会を牛耳る男が、これほど無策であるはずがない。歴戦の騎士である彼には、その開け放たれた門が、まるで獲物を丸呑みにしようと待ち構える巨大な魔獣の口のように見えた。
だが、恐怖とプライドで完全に理性を失っているエドワードに、そんな直感が働くはずもなかった。
「罠なものか! 奴らは我が騎士団の軍勢を見て、恐れをなして逃げ出したか、戦意を喪失したのに決まっている! ええい、臆病者め! さっさと突入して反逆者どもを捕縛しろ!!」
怒鳴り散らす次期国王の命令に逆らうことはできず、騎士団長は悲壮な顔で剣を振り上げた。
「……ぜ、全軍突入!! 公爵邸を制圧せよ!」
鬨の声と共に、三千の騎士たちが開け放たれた正門から広大な前庭へと雪崩れ込む。
美しい芝生と薔薇が咲き誇る庭園を、無数の軍靴が踏み荒らしていく。
彼らはすぐに屋敷を包囲し、エドワードとマリアを乗せた馬車が、安全を確認された前庭の中央へと進み出た。
しかし。
前庭に展開した三千の騎士たちは、誰一人として武器を構えることができず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「な、なんだアイツらは……」
「我々を、見えていないのか……?」
騎士たちが唖然とする視線の先。
屋敷の入り口である大階段の前には、純白のパラソルと、美しい彫刻が施されたガーデンテーブルが置かれていた。
そこには。
深いスリットの入ったドレスを纏い、片膝を立てて優雅に紅茶をすするハルコ。
彼女の肩に顎を乗せ、まるで宝物を扱うかのようにハルコの髪を梳いている、黒曜石の公爵ユリウス。
そして、テーブルの上に山積みされた大量の肉まんや点心を、幸せそうな顔でバクバクと平らげている極道美女、神獣カレン。
王国の全戦力に包囲されているというのに、彼らはまるで『春の穏やかなピクニック』でも楽しんでいるかのように、完全に騎士団を無視してティータイムを満喫していたのだ。
「――おい!! 貴様ら、一体何の真似だ!!」
静寂を破り、車椅子に乗せられたエドワードが騎士たちに守られながら前に進み出た。
彼の顔は、自分たちを完全にコケにしているその態度への怒りで、真っ赤に染まっている。
マリアもまた、車椅子の後ろに立ち、憎々しげにハルコを睨みつけていた。
エドワードの怒声を聞いて、ようやくハルコはティーカップをソーサーに置いた。
カチャリ、という上品な磁器の音が響く。
「……なんや。せっかくの美味いダージリンが、一気に泥水みたいな匂いになったのう」
ハルコは椅子からゆっくりと立ち上がり、三千の騎士団を一瞥した。
その瞳に恐怖は一切ない。あるのは、他人のシマ(領地)に土足で踏み込んできたチンピラを見下す、極道の女としての絶対的な『格上』の冷気だった。
「おどれら、靴の泥落としてから入らんかい。他人の庭をズカズカ踏み荒らして、躾のなっとらん犬コロどもじゃのう」
「なっ……! き、貴様、自分がどういう状況に置かれているか分かっているのか! 三千の近衛騎士団に包囲されているのだぞ!」
エドワードが裏返った声で叫ぶ。
ハルコは鼻で笑った。
「包囲? おお、ホンマじゃ。ウチら、包囲されとるんじゃな。……ユリウス、カレン。どうする?」
「君の美しい庭が汚されてしまったね。どうやら、本格的な『掃除』が必要なようだ」
ユリウスがハルコの腰に手を回し、氷点下の青い瞳でエドワードたちを見据える。その瞬間、庭園の気温が急激に下がり、騎士たちの吐く息が白く染まった。
「ヒュー! アネさん、やっと食後の運動ができそうやな! ウチ、もう体がウズウズしてしゃあないわ!」
カレンが口の周りを拭い、ボキボキと指の関節を鳴らしながら前に出る。
三千の軍勢を前にして、一切の動揺を見せない三人の姿に、騎士たちの間にどよめきと恐怖が伝染し始めていた。
「え、ええい、強がるな! ハルコ・バイオレット! およびユリウス・ヴァン・オブシディアン!」
エドワードは懐から丸めた羊皮紙を取り出し、震える手でそれを広げた。
「貴様らには、王家への反逆、および次期国王たる私への暗殺未遂という大罪がかけられている! この包囲網から逃れる術はない! 今すぐ武器を捨て、地に這いつくばって命乞いをしろ!」
でっち上げられた、馬鹿げた大義名分。
それを聞いたハルコは、ドレスの太ももに装着したガーターベルトへゆっくりと手を伸ばした。
チャカッ、と。
青い魔力紋様が刻まれた『無限トカレフ』が、日の光を浴びて鈍く光る。
「……反逆じゃと? 暗殺未遂じゃと?」
ハルコは銃口を下に向けて構えたまま、低く、地を這うような声でドスを利かせた。
「他人のふんどしで相撲取っとるガキが、一丁前に『大義』や『法律』振りかざしてウチらに喧嘩売っとんのか。ええ度胸しとるのう……」
ハルコが一歩、前へ出る。
たった一歩。
だが、その一歩から放たれた『本物の修羅場をくぐり抜けてきた極道の殺気』は、物理的な質量を伴って三千の騎士たちを直撃した。
「ヒッ……!」
最前列にいた騎士たちが、無意識に一歩、後ずさる。三千の軍勢が、たった一人のドレス姿の令嬢に圧圧されていたのだ。
「ウチら極道にとって、スジの通らんイチャモンつけられるのが一番腹立つんじゃ。おどれらがその気なら……」
ハルコがトカレフの撃鉄を引こうとした、その時。
「待ってください、ハルコ様!」
エドワードの後ろに控えていたマリアが、突然、大粒の涙をこぼしながら前に進み出てきた。
彼女は両手を胸の前で組み、いかにも『心優しい聖女』のような、哀れみを誘う表情を作った。
「もうやめましょう、ハルコ様……! これ以上罪を重ねては、あなただけでなく、騙されているユリウス公爵様まで処刑されてしまいます! お願いです、今すぐ降伏してください!」
マリアの声は、前庭全体に響き渡るほどよく通った。
「私が……私が殿下にお願いしてあげます! ハルコ様が心を入れ替えるというのなら、命だけは助けてあげてほしいと……! ユリウス公爵様も、こんな野蛮な女に唆されているだけですわ! 私が公爵様の疑いを晴らして差し上げますから……!」
その言葉に、ハルコは思わず動きを止めた。
カレンはポカンと口を開け、ユリウスに至っては、あまりの出来事に瞬きを繰り返している。
静寂。
三千の騎士たちが固唾を飲んで見守る中。
マリアは内心で(完璧だわ! これで私は慈悲深い女として評価され、公爵の心も手に入る!)とガッツポーズを決めていた。
だが。
「…………ぶっ、あっはははははははっ!!」
ハルコが突然、腹を抱えて大爆笑し始めたのだ。
「は、ハルコ様……?」
マリアが困惑する中、ハルコは涙を拭いながらユリウスの方を振り返った。
「おいユリウス、聞いたか今の! おどれ、ウチに『唆されとる』らしいで! それであの雌犬が、おどれの疑いを晴らして、ついでにおどれを慰めてくれるんやとさ! はははっ、傑作じゃ!」
ハルコの爆笑を聞いて、ようやく状況を理解したカレンも「アッハハハ! アネさん、あのアマ、頭ン中お花畑すぎひんか!?」と腹を抱えて笑い転げ始めた。
自分渾身の『慈悲深いヒロインの演技』を大爆笑で一蹴され、マリアの顔が羞恥と怒りで真っ赤に染まる。
「なっ……! なにがおかしいんですか! 私はあなたたちを助けてあげようと……!」
「――汚物が喋るな」
ピシャリ、と。
絶対零度の言葉が、マリアの鼓膜を打ち据えた。
笑い転げるハルコの隣。
ユリウス・ヴァン・オブシディアンが、かつて誰も見たことがないほど冷酷で、残虐な、本物の『裏社会の帝王』の目をしていた。
「私が、君のような薄汚いドブネズミに慰められるだと? ……冗談でも、私の前で我が美しき妻を侮辱することは許さない」
ユリウスの足元から、黒い瘴気のような魔力が溢れ出し、周囲の地面を凍りつかせていく。
三千の軍勢を前にした、極道令嬢と冷酷公爵、そして神獣による圧倒的な反撃が、いよいよ火蓋を切ろうとしていた。




