32話 災獣 -天狐の面-
グレッグの胴体に突き刺さっていた茨が、水っぽい音を立てて抜き取られると同時に、少年が倒れ込む。それをなんとか抱きとめたラッツだったが、涙と鼻水に濡れた顔は、絶望に引きつっていた。
こちらを侮っているのか、それとも勝利を確信したのか。
災獣は追撃せず、泉から伸ばした茨をゆらゆらと揺らしていた。
戦士は倒れ、盾士の心も折れた。あとは残った獲物を、好きな順に引きずり込めばいい――そう考えているように見えた。
だから、だからこそアンジェはバラの前に立った。二人を庇うように。二人を守るために。インベントリにしまっていたノンナと一緒に買った中古の〔治癒の美珠〕を、ラッツに向かって投げ渡す。まったく、こんな形で他人のために美珠を使えるだなんて思いもしなかった。それだけは、良かった。
「ア、アンジェ……無理だよ……私のせいでメイス無いのに」
「……大丈夫よ。これでも評価値だけなら戦士並みだもの。素手でも歯でも。何だってあいつに届かせてやるから」
咳き込みながら、グレッグがかすれた声を絞り出す。
アンジェの視線の先、泉ではバラの災獣が一本、二本、三本……と次々とムチをもたげさせていた。
「駄目だ……お前が一番、軽傷で……新入りで……俺たちが巻き込んじまったんだ。お前だけでも……逃げろ……!」
「いーや逃げない。そんなことしたらあたしがあたしを許さない。だからさっさと傷ふさいで逃げてくれる?」
アンジェ——、という声にならない呟きを引き裂くようにムチが唸りをあげて迫る。
アンジェはそれを、宣言通りに素手で迎撃した。
「〜〜〜〜!!」
鋭い痛みに思考が白く弾ける。掌を裂かれても、アンジェは鞭撃から逃げなかった。
必死に練り上げた評価値で掌を強化し、迫る鞭を横から打って軌道を逸らす。
視界の端ではラッツが受け取った〔治癒の美珠〕でグレッグを癒しているのが見えた。それでいい。三人とも逃げるにはそうするしかない。
「……っ!このぉ!」
一度に襲ってくる茨は少ない。こちらを弄んでいるつもりなのだろう。それでも全ての茨に対処はできない。ならば後ろの二人を狙うものに対象を絞る。ひたすら逸らし、弾き、いなす。棘は皮膚を傷つけ、一撃ごとに腕が痺れた。
だが、退くことだけはアンジェ自身が許さない。
そこまでやっても現実として素手では限界がある。せめてメイスがあれば何とかなったが、無いものはしょうがない。あるのは魔術と体だけだ。
(魔術はある……メイスは無い……なら!)
「"——凍てし氷柱よ、我が棍なりて敵を打て!"【藍白如意】!!」
発想のままに氷を成形する。急ぎだから太さも長さも適当だ。握り慣れた柄の太さと重心を頼りに、冷気を一本の棍へ押し固める。見た目だけなら、ただの不格好な氷の棒だった。けれどそれでも、この手に武器がある。それがなんと心強いことか。
しなるムチを打ち払い、たたき伏せる。その反動で氷棍が折れても気にしない。どうせ元は氷だ。すぐに伸ばして元に戻せる。
「ア、アンジェ!傷は塞げた!」
「よっしゃ吉報ーっ!後は帰……!?」
ラッツからの報告に喜ぶ間もなく、手から氷棍が弾かれる。血で手が滑った、一度に何本ものムチが来た。走馬灯のように世界がゆっくりと感じられる。アンジェの手から棍を弾いたムチだけでない。先ほどグレッグを貫いたように、鋭く伸びた先端は穂先のようで。それが数え切れない程に迫って——
「……ん。ギリギリ」
アンジェの背後から躍り出た、小さな旋風が全てを斬り伏せた。
樹液に濡れた双剣を手に、サファリハットのノンナが居た。
正直言って、ホッとした。助かったのだと。もう痛い思いをしなくていいのだと。
それと同時に後ろめたかった。昼間あんなに注意されたのに。引き留められたのに、結局挑んでしまって。助けられて情けなかった。
「……ノンナ」
「……アンジェ、怪我してる」
ノンナは双剣を握ったまま、器用に懐から〔治癒の美珠〕を取り出した。封じられた術式が——美珠から溢れた光の粒が、血に濡れたアンジェの両手を包んでいく。流れる血を止め、塞ぎ癒していく。
だがその視線は、ブレることなくバラを見つめている。
「……ノンナ、あたしは……」
「……話は、後!!」
地を這う蔓を右の剣で断ち、頭上から降る茨を左の刃で弾く。
その勢いのままにノンナは土を蹴り——次の瞬間、赤いバラの花首が宙を舞った。
「……倒し、た?」
「……ん、まだ。まだまだこれから」
斬りつけた勢いのまま、泉の対岸に降り立ったノンナが呟く。
これからが本番だと。災獣とは、災いそのものだと。
「な……!?」
「…………」
刎ねられた花首がとぷんと、音を立てて水面に沈んでいく。
次の瞬間、泉を埋め尽くすように無数の茨が噴き上がった。
それらは絡み合い、捩れ、巨大な一本の茎を形作っていく。
その頂で、大きな一輪の赤い花弁がゆっくりと開いた。
キィィィイイイ――と、金属を擦り合わせたような鳴き声が夜の泉に響き渡る。
「おい生きてるかガキども!」
その金属音に負けない音量で、背後から聞きなれた声がする。振り向くと、ちょうどザンデンたちが茂みを破って現れた所だった。
「こいつは……!まいったなこれは」
「ザンデンさん……ごめん、ごめん俺は……!」
「ザンデンざぁぁん……ごめ、ごめんなさ……!」
涙と鼻水で顔中をぐじょぐじょにしたグレッグとラッツのもとへ駆けつけたザンデンは、その大きな手を彼らの頭に置いた。
もう大丈夫だと、心配するなと元気づけるように。
「拳骨は後だ。ナンス!!退路を確保しろ!!」
「ダメです!!茨が壁になって……!!くっそ塞がれました!!!」
「んなもん斬って斬って斬りまくれ!とにかく叩いて気を逸らせ!ブイヤール!!行けるか!!!」
「不味いですね……!帯域を抑えられました。周囲の魔力を取り込めません。下手に魔術を使うと、すぐに底をつきます!」
「なら温存しろ!ガキどもの防御に回れ!攻撃には加わるな!」
ふと気がつけば、指示を矢継ぎ早に繰り出すザンデンの傍にノンナが立っていた。剣を納めて、そのサファリハットに手を掛けている。
「……ザンデン」
「……わかった。三十分経つ前に合図する……頼む」
そしてノンナは、サファリハットを顔面に下ろし、
無数の茨が降り注ぎ、
その小さな影を呑み込んで、
次の瞬間、天に狐が舞った。
「……発芽して。〈天狐の面〉」




