第七話 いらない耳
あの封書から、何かが変わった。
ファビウス副団長が前線視察から戻って二日が経っていた。朝の訓練を終えたフェルンは、書類を抱えて三階への階段に足を掛けようとした。
階段の前で、足が止まった。
副団長が上から降りてきた。いつもなら三階から降りてくる時間帯ではない。
「ネモリス。ついて来い」
素っ気ない声だった。副団長室へ連れていかれた。
部屋に入って最初に目についたのは、机の上に広げられた帳面だった。団員の出身国、家名、入団経路を一覧にした分厚い帳面。その横に、各出資国からの出向者名簿と思しき書類が数枚重ねられている。フェルンの目が帳面の上を走った——何名かの名前の横に、墨で小さな印がつけられていた。
自分の名前を探した。
なかった。
「しばらく殿下のお手伝いは不要だ」
机に向かったファビウスは書類から目を上げもしない。羽根筆が帳面の上を滑り、また一つ、印がつけられた。
「訓練に専念しろ。三階には上がるな」
「……何かあったのですか」
「お前に関わりのないことだ」
一拍。羽根筆が止まった。ファビウスの目がフェルンを捉えた。
「お前が他国の出向者であることに、今は感謝している」
それだけだった。ファビウスは視線を帳面に戻し、また一つ、印をつけた。
廊下に出ると——三階への階段の前に、見知らぬ兵が立哨として佇んでいた。昨日まで誰もいなかった場所に。腰に長剣、背筋を伸ばし、フェルンを一瞥して——小さく首を振った。
通るな、という意味だった。
——あの封書だ。
あの日、団長室で読んだ内容が——ここに繋がっていた。封書の中身が、砦の空気を変え始めている。
*
数日が経った。
フェルンは訓練場に入り浸っていた。三階に上がれない以上、やることは限られる。朝の型稽古、組み手の繰り返し、そして午後は自主訓練。
ガルスの構え——あの重心の低さを真似ようとした。だが三手目で必ず軸がぶれた。膝が浮く。踏み込みが浅くなる。教本にない動きは、頭で理解しても体がついてこなかった。
マルクスとの組み手では、毎日地面に叩きつけられた。受け身が間に合わずに転がされ、砂利が頬に食い込む。それでも回数は減っていった。初日は六度転がされたのが、五日目には三度になった。翌朝は脚の筋が強張って階段を降りるのが辛い。三階に上がるなと言われているのが有り難いとすら思えた。
その合間に——目は、砦の変化を追い続けていた。
最初に気がついたのは、港の方角だった。
訓練場の端、小高くなった物見からは黄昏港が微かに見える。ここしばらく、補給船の出入りが変わっていた。積荷を下ろす船ではない。何かを載せて出ていく船がある。一隻、また一隻と——不定期に、しかし確実に。
食堂でも、それとなく話が出た。
「内地に帰る奴が何人かいるらしいな。急な用だとよ」
隣の兵が飯を掻き込みながら言った。大した話題でもないという口ぶりだった。辺境の砦では人の入れ替わりが多い、主に戦死者の補充ではあるが。だが「急な用」が今この時期に重なるのは——偶然だろうか。
以前、三階の廊下で何度かすれ違ったことのある男がいた。書庫の整理を担当していた事務官で、ファビウスが不在の間に三階に出入りしていた。顔だけ覚えている——四角い顎に、妙に鋭い目をした男だ。
その男の姿が、見えなくなった。
「あいつ? 知らんな。内地に戻ったんじゃないか」
同じ詰所の兵にそれとなく聞いてみても、反応は薄かった。
もう一人——三階の巡回に不自然なほど熱心だった下士官がいた。巡回のたびに団長室の前で足を止め、扉の向こうの気配を窺うようにしていた。あれは巡回ではなく——何かを確認していたのだ。その下士官もまた、いつの間にか姿を消していた。
静かに、一人ずつ。名前も知らない人々が消えていく。
消えた、という言い方は正確ではないかもしれない。帰ったのだ。理由をつけて——あるいは理由をつけさせられて——内地へ。
砦の喧噪に変わりはない。だがその中に——どこか薄い空気がある。食事の席に、昨日までいた誰かがいない。だが誰もその名前を口にしない。
*
六日目の昼だった。
訓練場から兵舎へ向かう途中、二階の廊下でシルスと鉢合わせた。いつもの足音のない歩き方でこちらに近づいてきた。細い手に、一冊の本を抱えている。
「あ、フェルンさん。丁度よかった」
砦の空気が引き締まっていることなど知らないかのような軽さだった。
「殿下が、副団長執務室の書棚にある本を持ってきてほしいと仰っていましたよ。確か——上から三段目の、背表紙が茶色いやつだったかな」
「三階には上がるなと言われている」
フェルンは答えた。ファビウスの声が耳の奥に残っている。
シルスは小さく首を傾げた。
「ああ、そうでしたか」
困った顔はしなかった。唇の端にかすかな笑みが浮かんだ。砦の慌ただしさを遠い場所から眺めているような——余裕の色だった。
「でも、殿下が仰るのであれば——よろしいのではないですか?」
去っていくシルスの背中を見送りながら、フェルンは階段の前に立った。
立哨の兵と目が合った。
「……殿下のご用です」
兵は一瞬だけ迷った。ファビウスの命令と、名目上は砦の最高位であるヴェスペルの名。短い逡巡の後——小さく頷いて、一歩脇に退いた。
フェルンは階段を上った。
——なぜ来ているのだ、俺は。
ファビウスの命令を破っている。シルスに言われたから——それは口実だ。
団長室の前に立った。いつもの癖で二度叩こうとして、やめた。そのまま静かに押し開けた。
——冷えている。
部屋に足を踏み入れた瞬間、それが分かった。
暖炉の火が落ちていた。薪が灰になったまま放置されている。蝋燭は一本だけ——机の端で燃え尽きかけている。窓からの灰色の光だけが、部屋を薄く照らしていた。
フェルンが毎日用意していた薬草茶の壺が、棚の上にそのまま置かれている。誰かが手をつけた形跡が無い。フェルンが整理していた書架の秩序が——少しずつ、しかし確実に、ほどけている。
少年は、やはり本を読んでいた。
何も変わっていなかった。片膝を立てて椅子の上に収まり、頁に顔を近づけている。いつも通りに留め具の外れた室内着の襟元から肌が覗いている。髪が——肩を越えて背に流れている。一閃された筈のそれは、もう伸びている。
頬が少し削げて、隈が深くなっている。食事を摂っているのだろうか——そんなことを気にしている自分に少し驚いた。
本を置いた。背表紙の茶色い本を、机の端に静かに置いた。
「……ああ。ありがとう」
珍しく礼を口にして、本から目を離さずに、片手で新しい本を引き寄せた。声がかすかに掠れていた。十日間、誰とも口を利いていなかったのかもしれない。シルスは来ているはずだが——あの男は用が済めばすぐに帰る。ガルスは立哨に阻まれていただろう。
沈黙が落ちた。
「……静かだ。最近」
少年が呟いた。頁を繰りながら、独り言のように。
「読書が捗る」
砦の人間が減っていることが、天候の変化と同じ程度の出来事であるかのように。
「戻っていい」
素っ気なかった。顔を上げもしなかった。
フェルンは扉を閉めた。扉を引く瞬間、少年の横顔が視界の端に映った。窓からの灰色の光の中で、漆黒の髪だけが異質なほど鮮やかだった。白い頬の上の深い隈が、灰色の空と同化しかかっていた。
階段を降りながら考えていた。あの部屋は——俺がいなくなっただけで、冷えている。誰も暖炉に薪を足すことすらしない。茶を淹れることも、蝋燭を替えることも。
ファビウスが砦を引き締めている間——あの部屋だけが、取り残されている。
*
翌朝のことだった。
日の出前、夜警を終えたフェルンは中庭を横切っていた。まだ篝火の燻りが石畳を照らしている時分。その先——城門の方角で、人影が動いた。
二つの影。一方は大きく、もう一方は荷を背負っている。
ファビウスだった。
旅支度の荷を肩に掛けた男と共に、規則正しい足取りで門に向かっていた。
ファビウスの手が、男の肩に置かれていた。送り出す手であり、この砦から確実に出す手だ。相手に選択の余地を与えない、静かな力があった。
男は振り返らなかった。城門をくぐり、桟橋への坂道を降りていく。背中がまだ薄闇の中に見えているうちに——ファビウスは踵を返した。中庭を横切るその歩みに迷いはなかった。
フェルンは、一部始終を見ていた。
*
八日目の午後だった。
訓練場の端にある水桶の傍に、マルクスが座っていた。組み手の後で、二人とも汗だくだった。マルクスが柄杓で水を掬って頭から浴び、飛沫が石畳の上に飛び散った。
背中を預け合う形で、柵に寄りかかっていた。
「……最近、砦の空気がおかしくないか」
フェルンは柄杓を受け取りながら、何気なく言った。
「おかしい」
マルクスは即答した。水を払いながら、短く。
「副団長が人を選んでる」
「……分かるのか」
「分からん」
マルクスは柵の向こうを見ていた。
「だがうちの親父が同じことをしたのを覚えている。ガキの頃だ。家に出入りしていた連中が——何人か、急にいなくなった。親父は副団長と同じ顔をしていた」
「同じ顔」
「あれは——いらない耳を追い出す時の顔だ」
マルクスの声は平坦だった。感情を載せない、事実だけの声。フェロクス侯爵家の次男として育った男が、幼い頃に見た父親の政治的駆け引きを、ただの記憶として語っている。
いらない耳。
——その言葉が、胸の中に落ちた。
間諜とも密偵とも——マルクスは言わなかった。ただ「いらない耳」と言った。砦の中に、聞かれてはいけないことを聞いている者がいる。その耳を追い出している。
——あの封書だ。均衡が崩れた今、派閥の目が辺境に向く前に——いらない耳を砦から出す。
フェルンの名前が一覧帳になかった理由も、「他国の出向者であることに感謝している」というあの一言の意味も——繋がった。他国の出向者には、アルカディアの派閥に報告する義理がない。
「お前は入ってないだろ」
マルクスが言った。こちらを見もせずに。
「……ああ」
「そうだろうな。お前はヴェルデン人だ。向こうの揉め事には関係ない」
それきり、マルクスは黙った。水桶に柄杓を戻し、立ち上がって砂を払った。
「次の組み手、行くぞ」
いつもと変わらない声で、マルクスは訓練場の中央に歩いていった。フェルンはしばらく柵に寄りかかったまま動けなかった。
——いらない耳を追い出す。その間、あの部屋はどうなっている。
考えまいとした。化け物だと確信したのだ。全てがどうでもいい人間だと。あの透明な瞳に「分かった」と死者を処理されたのだ。——なのに。
冷えた部屋が、頭から離れない。
「もうやらんのか?」
マルクスの碧眼が怪訝そうにフェルンを見る。
「……すまん」
慌てて、足を向ける。
化け物のことを考えている。訓練の最中に。
——俺は何をやっているんだ。
ファビウスは——剣と策の両方を使う。前線では戦士として部隊を率い、砦に戻れば——いらない耳を選別し、穏やかに、しかし確実に、盤上から退かしている。
*
十日目の朝だった。
三階の階段の前を通りかかった時、足が止まった。
立哨がいなかった。
昨日まで——いや、この十日間ずっと——あの階段の前に立っていた兵が、いなくなっている。元の、誰もいない階段に戻っていた。
食堂の喧噪がいつも通りに聞こえた。席の抜けが少し減ったような気もする。あるいは残った者たちの声が、少しだけ大きくなったのかもしれない。砦が息を詰めていた期間が、終わった。
その日の夕刻、副団長室に呼ばれた。
ファビウスは荷造りをしていた。東端の哨戒拠点への視察だ。この時期は瘴気帯の膨張が加速する。
「書類が溜まる。お前が整理しておけ」
素っ気ない声だった。帰ったら確認する、とだけ付け加えて——ファビウスは腰の帯から鍵を外した。
副団長執務室——いや、執務をするのは副団長しか居ないのだから、ただの執務室だ——の鍵と、隣接した団長室に繋がる内扉の鍵。
フェルンの手の中に、金属の冷たさが落ちた。
「……十日間、何をされていたのですか」
聞くつもりはなかった。だが口から出ていた。
ファビウスの手が、荷の紐を結ぶ動きを一瞬だけ止めた。微かに細められた目がフェルンを見た。あの計る目ではなかった。もっと平たい、日常の目だった。
「掃除だ」
短かった。それ以上は何も言わなかった。荷の紐を結び終え、長剣「鉄心」を腰に帯びて、副団長室を出ていった。
掃除。
——そうだろうな。フェルンは鍵を握りしめた。いらない耳を追い出し、砦を清め、また前線に向かう。
廊下に出た。
三階への階段を見上げた。立哨のいない、元通りの階段。その先に——あの部屋がある。
あの部屋は今、どうなっているだろう。十日間——あの少年は、あの冷えた部屋で一人きりだったのだろうか。
フェルンは階段に足を掛けた。あの冷えた部屋が、頭から離れない。
十日ぶりに、三階の空気を吸った。
鍵を握りしめて、執務室の扉を開けた。書類が確かに溜まっていた。机の上に、十日分の報告書が積み重なっている。その向こうに——団長室へ続く内扉がある。
まずは書類だ。フェルンは鍵を懐に収め、一番上の報告書を手に取った。
あの部屋が気になる。だが——書類を片付けてから考える。
ファビウスが戻るまでに、全てを整理しておかなければならない。




