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終わる世界と、筆のない部屋 〜変……辺境騎士団入団記〜  作者: 藍津改


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第六話 化け物

団長室に通い始めて半月が過ぎた頃のことだ。ファビウス副団長は、まだ戻ってきていなかった。


朝の訓練を終え、三階への書類を抱えて中庭を横切った時だった。木剣が打ち合う乾いた音に混じって、荒い呼気が聞こえてきた。ただの型稽古ではない。拍子が不規則で、踏み込む足音に余裕がない。


訓練場の柵越しに覗くと、新兵が三人がかりで一人の男に打ち掛かっていた。


ガルスだった。


長槍と丸盾。辺境の下士官が好む組み合わせだ。三人が木剣を振りかぶり、左右と正面から同時に踏み込む——その全てが届く前に、槍の穂先が剣筋の上を先回りしていた。


足が地面から離れない。


三人がかりで攻撃されているのに、ガルスの足は岩盤に根を生やしたように動かなかった。一歩も退かず、一歩も余計に踏み出さず、体の軸が揺れない。正面の新兵の突きを穂先で横に弾き、即座に右からの振り下ろしを盾の縁で押さえる。砕くのではなく、ずらす。最小限の角度で衝撃を逸らす守りだった。


その内の一人が背後に回った。


ガルスは振り向かなかった。


盾を左肩の後ろへ滑らせて、背後からの斬撃を受け止めた。見もせずに。体が覚えているのだ。背後の殺気を肌で読み、考えるより先に盾を動かしている。


——あの手だ。


フェルンの息が詰まった。六年前の裏路地で見た手。黒い箱馬車の傍らに立つ少年兵の、剣の柄の上の手。あの静けさの正体は——これか。


華がなかった。教科書に載るような型ではない。だがこの構えには隙がなかった。泥と血の中で削り出された実戦の型。一手一手が「生き残るため」だけに研がれている。


新兵たちが地面に転がった。三人とも——槍の穂先に喉元を押さえられる形で終わっている。殺す気があれば、全員死んでいた。


ガルスは槍を立てた。息一つ乱れていない。布で穂先を拭いながら、新兵の一人に声をかけた。


「もう一度。今度は声を合わせ——」


言いかけて、手が止まった。暗く深く沈んだ瞳が宙を見据え——こう言った。


「明日は南の街道を避けろ」


唐突だった。新兵が首を傾げる。フェルンも柵越しに思わず口を開いた。


「ガルスさん——なぜそんなことが分かるんですか」


その目がフェルンを捉えた。


「知らん。気になっただけだ」


それきり、槍を構え直して新兵たちへ向き直った。


翌日——南の街道で瘴霧狼の群体が目撃された。


あの訓練場で見た動き——背後の殺気を体ごと読み取り、振り向きもせずに盾を滑らせた一瞬。あれは慣れだけで辿り着ける場所ではなかった。


あの静かな手の正体を、俺は初めて正面から見たのだ。


    *


団長室に通い始めて二十日が過ぎた。


ファビウス副団長の不在が二週間になった頃から、フェルンの日課は定まってきた。朝は詰所に顔を出し、訓練の合間に三階へ上がる。書架を整理し、来訪者を取り次ぎ、時折ネルヴァの持ち込む書類に目を通す。少年は相変わらず椅子に座って本を読んでいる。


その日もネルヴァが書類の束を抱えて現れた。


兵站の事務官は慣れた足取りで部屋に入り、報告を始めた。第三拠点の食糧備蓄、聖水の在庫、輸送路の天候予測。少年は本から目を離さずに聞いている。ネルヴァが第七拠点への配分量で迷いを見せた時、少年は頁から顔を上げもせずに「三割でいい。残りは第四に回して」と呟いた。ネルヴァは頷いた。


読み上げが終わる。


「好きにすれば」


ネルヴァが口を閉じるのを待たずに、声が落ちた。感情のない声だった。ネルヴァは頷いて帳面に何かを書き込み、部屋を出ていった。


フェルンは書架の整理を続けながら、あることに気がつき始めていた。


——「好きにすれば」の前に、何かが起きている。


少年がその言葉を口にする直前——何らかの文書が机の端に移動している。窓際に据えられた少年の机——その窓と反対側の端に、書物とは趣を異にする文書が重ねられている。誰もそこに触れず、それは厚みを増していく。ネルヴァが来るたびに、少年は本を読みながら——あの半分閉じた目のまま——持ち込まれた書類の中から何かを抜き取り、手元から机の端へ滑らせていた。ネルヴァ本人は気づいていない。いや、気づいていて黙っているのか。


「好きにすれば」。その一言で全てが動く。だがその一言の前に、すでに盤面は整えられている。


翌日も同じことが起きた。シルスが布包みを持って現れ、短い言葉を交わし、少年が「好きにすれば」と返して——シルスが去った後に、机の端に何かが増えている。文書か。覚え書きか。いや——紙も筆もないこの部屋に覚え書きがあるはずがない。ではあれは何だ。


「……殿下は、全てどうでもいいんですか?」


気がつけば口から出ていた。書架の上段に手を伸ばしたまま、振り返らずに聞いた。


沈黙が落ちた。頁を繰る音が止まった。


「だいたいな」


淡々と返ってきた。皮肉でも冗談でもない、誠実な声音だった。


フェルンは振り返った。少年は椅子の上で膝を抱え、頬杖をつきながら本を読んでいた。相変わらず留め具の外れた室内着で、漆黒は白い肌を這っている。ただ本を読んでいるだけの光景が、人の目を縛る。


「だいたいどうでもいい」と、この少年は言った。そしてそれは、嘘ではなかった。


    *


おそろしい言葉が放たれたのは、次の日の午後だった。


フェルンは内地からの報告書を一通——ネルヴァが言付けと共に預けてきた封書だ——団長室に届けに来ていた。何をするにも億劫そうなヴェスペルのために封を切った方がよいものか迷い、結局そのまま少年の手元に差し出した。


「アルカディア内地が揺れているようで……蝕陽派の最後の家が潰れた件で、派閥の均衡が崩れたとか。政変の兆しがあるとの報告です」


少年は封書を片手で受け取り、無造作に封を破ると目を通した。半分閉じた瞳が紙面を撫で——読み終わるまでに十を数えるほどしかかからなかった。


そして封書を手元から机の端へ滑らせ——あの気怠げな声で、こう言った。


「内地? 滅びればいいんじゃないの。僕には関係ないし」


声に力がなかった。怒りもなかった。天気の話よりもさらに軽い調子で、少年はそれを口にした。


フェルンの中で、思考が止まった。


——今、この少年は何を言った。


滅びればいい。アルカディア王国の内地——王宮がある場所、政治の中心、この少年の血縁である現王が座す場所。それが滅びてもいい。僕には関係ない。


少年の瞳を見た。鏡のような目は、窓からの鈍い光を映した灰銀だ。その瞳の奥には、やはり感情がなかった。皮肉もなかった。躊躇いもなかった。底なしの虚無に瞳が沈んでいるのか、あるいは本当に何もないのか。フェルンには判別がつかなかった。


内地が揺れている。国が傾くかもしれない。それを——「滅びればいい」と。少年は、自国の終わりを天気の話よりも軽く口にした。


「……結社の件で使えそうな技術があったな。あの連中、業者として悪くない」


少年は封書から目を離し、手元の書物に視線を戻しながら呟いた。


「……あれは、異端ですよ」


声が掠れていた。世界を解きほぐす瘴気の蔓延を「自然な終わり」として受け入れる異端の結社。教団が禁教としている組織のことを、辺境の兵たちはあまり口にしたがらない。リンノの存在があまりにも異常なのだ。


「そう? 使えるものは使えばいい」


気怠げな声は、全く躊躇わない。正統も異端も——等しく「道具」として扱っている。善悪の判断軸が、フェルンの知る道徳とは全く異なる視座にある。


暴君であれば理解はできる、悪党であっても想像はできる。だがこの少年には、世界そのものが目に入っていない。善も悪も、正統も異端も、この少年の前では等しく「そういうものがあるらしいね」程度の情報にすぎない。人の命を奪おうとはしない。だが人の命に重みをつけることにも興味がない。何もかもが——等しく、頁の上の文字と同じ重さしか持たない。


少年は再び頁を繰った。興味を失ったように——いや、最初から興味などなかったのだ。政変も、異端も、この少年にとっては等しく「どうでもいい」ものの一つにすぎない。


——この少年は、化け物だ。


確信が胸の底に落ちた。重い石が水底に沈むように、静かに、急速に。


悪意がないから怖いのだ。敵意がないから逃げ場がないのだ。世界そのものに対して「どうでもいい」と言い放つ無関心は、深く、底が見えず、恐ろしい。化け物の中には、フェルンが当たり前だと思っていた善悪の感覚が、最初から存在しない。


全てがどうでもいい。内地が滅びても。異端を使っても。誰が死んでも——


——なのに、なぜ。


どうしてこれほど精密に辺境を守っている?


疑問は喉元で止まった。口にしてしまえば、その矛盾の答えを聞かなければならない。それが返ってくる保証もない。この少年は「どうでもいい」と言うだけだろう。だがもし——もし万が一、返答されてしまったら——フェルンの中の何かが壊れてしまうかもしれない。


    *


数日後の昼過ぎ、前線からの伝令が暮光城に飛び込んできた。ファビウス副団長はまだ帰還しない。ずるずると巡回範囲が拡大しているらしい。


団長室でフェルンが書架を整理していると、階段を駆け上がる足音が聞こえた。伝令の兵が息を切らせて扉を叩き——叩かずに押し開けた。


「報告申し上げます。第六拠点、瘴霧狼の奇襲——三名戦死。ハインツ、ムント、ガスパル」


伝令の声が震えていた。若い兵だ。おそらくフェルンと齢が変わらない。三つの名前を読み上げる声が裏返りかけたのを、唇を噛んで堪えている。


ハインツ。ムント。ガスパル。フェルンにはどれも聞き覚えのない名前だった。だが暮光城のどこかで、この名前を聞いて膝から崩れ落ちる人間がいるだろう。夕食の席に、食器が三つ並ばなくなる卓がある。


少年は本を読んでいた。


伝令の報告を聞きながら、頁を繰る指が止まらなかった。声が——あの囁くような声が、静かに返った。


「分かった」


それだけだった。


伝令は一瞬、信じられないという顔をした。三人が死んだのだ。名前がある。家族がいる。その死が——「分かった」の一言で処理された。名前を聞き返すことすらなかった。


「……三名が死んでいるんですが」


フェルンは自分の口からその言葉が漏れたことに驚いた。言うつもりはなかった。だが言ってしまった。


「……で?」


少年は頁を繰る手を止めなかった。その声に冷酷さはなかった。怒りも悲嘆もなかった。ただ——距離があった。冷たいのではない。届いていないのだ。この石壁の向こうで起きたこと——血が流れ、肉が裂け、最後の息が途切れたこと——そのすべてが、少年の座る椅子の足元まで届いていない。


伝令が退室した後、部屋に沈黙が降りた。


フェルンは少年の横顔を見た。伏せがちな睫。白い頬。深い隈。漆黒の髪が肩にかかり、窓からの灰色の光の中に沈んでいる。繊細な横顔だった。あまりに大人びた、それでいて幼さが完全には消えきらない、危うい境界の上にある顔。


——その瞬間だった。


少年の表情が、一瞬だけ歪んだ。


「嫌だな」


歪んだ、という言い方は正確ではないかもしれない。唇の端がわずかに引き攣り、眉間にほんの一筋、皺が寄った。次の瞬間には元の無表情に戻っている。


刹那——少年の輪郭が、二重に見えた。


周囲に何かがある。薄い膜のような——いや、網だ。砦の中に張り巡らされていた、あの精密な糸と同じ手触りの何かが、少年の体の輪郭を覆っている。だが内側が——空だった。ファビウスには硬質の気配がある。マルクスの傍にいた時は、荒い、毛羽立った空気が記憶に残っている。人にはそれぞれの気配がある。だがヴェスペルの周囲には網だけがあって、その内側には——何もなかった。


直ぐに消えた。頭の奥が鈍く痛んだ。


——森人の目、か。


マルクスの祖母が言っていたという精霊の通り道。だが今のは——糸でも編み目でもなかった。人の周りの気配が見えた。見えて——この少年の内側だけが空だった。


——今の、は。


目の錯覚だろうか。だが——フェルンの目は確かに見た。あの無関心の壁の向こうに、一瞬だけ——何かが走ったのを。痛みではない。苦しみとも違う。もっと置き所のない、名前のつかない何かだ。


化け物のはずだ。全てがどうでもいい人間のはずだ。


——でも、あの一瞬は。


疑念が胸の中で小さな棘になった。抜けそうにない。


    *


しばらく——どれほど経ったか分からない。


フェルンは窓際に立った。書架の埃を払うふりをして——窓の外の暗い霧を見つめているだけだった。


瘴気帯の暗い霧が、いつもと同じように広がっている。鉛を溶かしたような空に、地平線の区別がない。暮光城の窓から見える景色は、いつ見ても同じだった。灰と紫の中間のような色をした、重い空。


——なぜこんなことを考えているのだ。


——「本物が見たい」と思ったのは自分だ。温室の窓硝子越しの光ではなく、本物の——あの辺境の猛者たちが見ている世界を。


振り払おうとした。だが振り払えなかった。


見てしまった。本物を。


紙も筆もない部屋に座る少年。全軍を頭ひとつで回す化け物。内地が滅びてもいいと言い放つ虚無。三人の死を処理する距離。——そして一瞬だけ、無表情の壁の向こうを走った、名前のつかない何か。


これが本物だ。


だが本物の意味が——まだ分からない。


    *


ファビウス副団長が前線視察から戻ったのは、それから更に数日後のことだった。


扉が規則正しく二度叩かれた。フェルンは書架の陰にいた。少年は椅子に座ったまま、本を読んでいる。いつもの姿勢——片膝を立てて椅子の上に収まり、本を膝に載せている。窓辺の灰色の光を受けて漆黒の長い髪が緩やかに流れ落ちていた。


——また伸びている。


フェルンの目が、少年の髪に留まった。団長室に通い始めた頃、少年の黒髪は肩甲骨の辺りだった。それが今は——腰を越えかけている——たった一月で。詰所で下士官が「切ってもすぐ伸びるんだと」と言っていた。冗談ではなかった。


扉が開いた。


「殿下、ご報告申し上げます」


ファビウスの声は張りがあった。長い視察から戻ったばかりとは思えないほど、姿勢も声も整っている。暗い金色の短髪はきっちりと撫で付けられ、鉄灰色の鋭い目。瘴気帯の風に晒されて日焼けした顔が、燭台の灯に照らされている。堂々とした体躯の副団長が部屋に入った瞬間、空気が引き締まった。少年のまとう倦怠と、副団長のまとう厳格さ。二つの空気が同じ部屋の中でせめぎ合っている。


ファビウスの視線が——報告に入る前に、書架の陰を一閃した。


鉄灰色の瞳が、フェルンを正確に射抜いた。着任初日の声が甦る。「用がない限り近づくな。用がある場合もまず私に通せ」——その命令が、自身の不在中に頭越しにされている。


間があった。一拍にも満たない沈黙の中で、ファビウスの目の奥に値踏みとも検算ともつかない光が走った。


「殿下のお手伝いは引き続き務めろ。報告は私にも上げろ」


短かった。承認でも許可でもない——追認だった。一言の叱責もせずに、ファビウスは視察の報告を開始した。


——なぜ咎めない。


だが直ぐに——あの鉄灰色の目が一拍の中で何を計ったのか、その輪郭が薄く見えた。


フェルンはヴェルデン連合王国からの正規出向だ。アルカディアの派閥闘争とは無縁の、他国の従騎士。——食堂で聞いた蝕陽派の話がこの瞬間に繋がった。内地の派閥の者であれば、殿下の傍に置くこと自体が危険になり得る。だが他国の出向者は——政治的に最も無害な存在だ。


監視の眼は一枚薄くなる。だがそれと引き換えに、殿下の傍に悪意のない手足が一つ増える。あの男の天秤は、利に傾いたのだ。


やがて報告に区切りをつけたファビウスが、少年の髪に目を留めた。


「——また切らなかったのか」


呟きだった。少年は本から顔を上げようともしない。ファビウスは短く息を吐いて、書架の横に掛けてあった木の櫛を手に取った。


フェルンは何かの間違いかと思った。


辺境で最も厳格と謳われる副団長殿が——報告の途中で、少年の背後に回り、ごく自然に櫛を通し始めた。太い指が絡まった毛先を解き、丁寧に——だが手馴れた迷いのなさで——肩口から腰にかけての髪を梳いている。そこには実戦に長ける騎士ではなく、貴族らしい優雅な仕草があった。


この男は、少年の見張り役ではなかったのか。


ヴェスペルの様子は変わらない。まるで風が吹いた程度の出来事として、頁を繰る指を止めもしない。


——監視しているのか。世話を焼いているのか。


櫛を棚に戻したファビウスは、何事もなかったかのように報告の続きに戻った。


前線拠点の状況が簡潔に語られていった。全て、この一月で少年が「好きにすれば」と処理してきた案件だ。


「好きにすれば」


少年が返した。本から目を離さずに。


「では殿下のお許しをいただきましたので——」


ファビウスが即座に継ぐ。少年が「好きにすれば」と言い、ファビウスがその一言を「殿下のお許し」として慇懃に解釈し、事を進める。何年も繰り返されてきたであろう手順が、滑らかに回っている。


ファビウスの視線が、机の端に移った。少年が不在中に滑らせていた文書達だ。彼は言葉を止めて歩み寄り、一枚ずつ手に取って目を通した。速い。表情は変わらなかった。


目を通し終えた文書を、ファビウスは懐に収めた。何も言わなかった。少年も顔を上げなかった。——この受け渡しにも言葉が要らないのだ。紙の上に、少年の声なき指示が載っている。それを読み、持ち帰り、処理する。それだけだった。


——と、懐に収めようとした手が止まった。


ファビウスが文書の一枚を引き戻した。あの封書だった。蝕陽派の没落を伝える、政変の兆しの報告書。目が紙面の上を二度、走った。一度目は内容を確認する目だった。二度目は——何かを計る目だった。


封書は懐に戻された。ファビウスの表情は変わらなかった。


「——前線の部隊編成について、一点」


少年が声を出した。本の頁を繰る手が止まった。珍しいことだった。この少年が自分から話題を切り出すのを、フェルンは殆ど見たことがない。


「第六拠点の損耗が大きい。編成を組み替えたほうがいい。第四から二個小隊を——」


「殿下」


ファビウスの声が遮った。


声の大きさや調子が変わったのではない。同じ「殿下」という呼びかけでありながら——その奥に込められた温度が、まるで別物だった。


「——御身は」


空気が凍った。


フェルンは書架の陰から息を殺して見ていた。ファビウスの目が変わっている。冷静で隙のない——だが別の種類の厳しさを帯びた目。指揮官の目でも、監視者の目でもない。もっと古い——もっと個人的な何かが、あの鉄灰色の瞳の奥に灯っていた。


ファビウスの右手が、腰の帯に触れた。


長剣「鉄心」のある左ではない。反対側——腰帯の背に留められた、護身用の短刀。音もなく鞘から引き抜かれた刃渡りは一尺にも満たない。だが耐魔金属の暗い刃が燭台の灯を受けて鈍く光った瞬間、フェルンの呼吸が止まった。


ファビウスが一歩、少年に近づいた。


少年は椅子の上で膝を抱えたまま、動かなかった。あの伏せがちな目でファビウスを見上げている。喉元に刃を向けてくる男を、気怠げに見上げている。


短刀の刃が——少年の白い喉元に当てられた。


切っ先ではない。刃の腹だ。喉から顎先までを撫で上げるように——ゆっくりと、しかし逡巡なく——刃金が白い肌の上を滑った。仕草の一つ一つに、何度も繰り返されてきた手順の重みがあった。初めてではないことが分かる。ファビウスの手に迷いがない。少年の体にも強張りがない。二人の間で——これは、初めてではない。


「御身は生き延びることをこそ一番にお考えなさいませ」


ファビウスの声は低く、静かだった。怒りではない。脅しでもない。強いて名をつけるなら、師が弟子に向ける類の——苛烈で切実な厳しさだった。


「部隊編成は副団長の職掌でございます。御身がお口にされることではありません」


少年は——動かなかった。


喉に当てられた刃の冷たさを感じているのかいないのか。恐怖がなかった。驚きもなかった。刃が喉元にあることを——まるで風が髪を撫でた程度にしか感じていないような、底なしの無関心。


そして——少年は口を開いた。


「僕は望まれない王族です」


暗唱だった。


「尊き身分ではありますが、思い上がりは禁物です」


教師の前で課題を読み上げる子供のような——いや、それよりもっと空虚な声だった。ファビウスの言葉を、そっくりそのまま返していた。


「何かを望める立場にはありません」


喉元に刃を当てられたまま、気怠く、淡々と、諳んじているだけだった。


「生き延びることをこそ一番に考えなければなりません」


最後の一文を言い終えると、少年は小さく欠伸をした。喉元に短刀が当たったまま。欠伸の拍子に喉仏がわずかに動き、刃の腹が白い肌の上でかすかに擦れた。それすら——少年は意に介さなかった。


「……好きにすれば。——まあ、言いたいことは言ったし」


フェルンの背筋が凍った。


少年の無関心に、ではない。あの暗唱だ。「望まれない王族」「思い上がりは禁物」「何かを望める立場にない」——一つ一つが、管理者の影だった。何年もかけて繰り返されてきた言葉が——少年の中に、教義のように沈んでいる。


——さっきまで、あの手で髪を梳いていた。


髪を梳いていた同じ手で短刀を抜き、慇懃に報告をしていた同じ口で「御身」と呼び方を変えた。そしてこの少年は、その全てを——等しく、風が吹いた程度の出来事として受け流している。


ファビウスは短刀を引いた。


だが、鞘には収めなかった。


喉元から離れた刃が、そのまま少年の背へ回った。左手が漆黒を一纏めに掴み、肩口まで引き上げる。暗い刃は一閃——


重い束が、床に落ちた。


腰まで届いていた漆黒の流れが、断ち切られていた。切り落とされた黒髪が灯火の光を受けて石畳の上に広がり、まるで影が剥がれ落ちたかのように横たわっている。


少年は——動かなかった。本を膝に載せたまま、半分閉じた瞳が紙面を追っている。底なしの無関心だった。


ファビウスは短刀を音もなく鞘に収めた。足元に横たわる黒髪には目もくれなかった。


さっきまで喉を撫でていた刃で、今度は髪を切った。同じ手で。同じ刃で。


その目が——一瞬だけ、書架の陰のフェルンを捉えた。


目が合った。


ファビウスは何も言わなかった。表情も変えなかった。瞬きすらしなかったかもしれない。飾りの団長が生意気を言ったから窘めた——それだけの話だ、とでも言わんばかりの、徹底した無反応だった。視線はフェルンの上を滑り、何も見なかったかのように外れた。フェルンの存在など最初からなかったかのように。


——守ろうとしているのか。押さえ込もうとしているのか。


フェルンには分からなかった。あの短刀は、教育なのか。抑制なのか。保護なのか。「生き延びることをこそ一番にお考えなさいませ」。あの言葉は、内地から命じられた監視者の台詞なのか。それともファビウス個人の何かなのか。


そして——それとは別の、もっと冷たいものが胸の底に凝っていた。


——「内地? 滅びればいいんじゃないの」。


あの日の声が、不意に蘇った。「望まれない王族」「何かを望める立場にない」——あの言葉を何年も刷り込まれてきた少年が、内地に向けて「滅びればいい」と言い放った。その二つが繋がった時——フェルンの背中を、冷たいものが這い上がった。


深淵の一端に触れた気がした。


フェルンの立つ場所からは、その先を覗き見ることができなかった。


ファビウスは何事もなかったかのように報告の続きに戻った。


「……かつてルクセス殿下がお用いになられた戦術に倣い、第六拠点の陣形を——」


言いかけて、ファビウスの声が止まった。


自分で気づいたのだろう。少年の父君の名を、口にしてしまったことに。ファビウスの顔が一瞬強張り、口調が途切れた。


少年の瞳が——変わった。


灰銀色だった瞳に、赤が走った。


ぞっとするほど鮮やかな、炎の芯のような赤が、瞳の奥から一瞬だけ滲み出た。鈍い銀の鏡面を内側から押し割るように広がり、次の瞬間には消えた。元の灰銀色に戻っている。


だがフェルンは見た。あの一瞬——少年の瞳の奥に、何かが灯った。怒りとも悲しみとも違う。もっと根の深い、もっと古い、もっと出口のない何かだった。


ファビウスは気づいていなかった。言い直すことで自分の失言を処理し——少年に背を向ける形で書類を整理し始めた。


少年は本を読んでいた。何事もなかったかのように。あの鈍い銀の瞳に戻り、気怠げな表情に変化はない。あの一瞬の赤が嘘だったかのような、完璧な無関心の壁。


だが——フェルンの心は軋んだ。


あの赤は何だ。ルクセス殿下の名が出た瞬間に——少年の中で何かが動いた。化け物のはずだ。全てがどうでもいい人間のはずだ。なのにあの名前だけが——少年の中の何かに触れた。


——憎悪だけがあったように、見えた。


    *


その夜、フェルンは眠れなかった。


兵舎の寝台の上で天井を見つめている。隣の寝台ではマルクスが大鼾をかいている。


お前は大貴族じゃなかったのか。フェルンはそんな悪態で気を紛らわせようとしたが。


——化け物だ。間違いない。あの少年は化け物だ。


内地が滅びてもいい。異端も道具。三人死んでも「分かった」だけ。喉元に刃を当てられても欠伸をする。フェルンが当たり前だと思っていた全てが、あの少年の前では意味を持たない。


——「黒髪の怪物」か。


学院で聞いた時は笑い話だと思っていたのに。あの噂と、目の前で見てきた少年の姿は、似ても似つかない。だが今だけは——「怪物」という言葉を笑えなかった。内地の噂話が作り上げた怪物ではない。フェルンが自分の目で見た——底なしの虚無を瞳の奥に持つ、黒髪の怪物。


だが——矛盾がある。


全てがどうでもいい人間が——なぜあれほど精密に辺境を守っている?


「好きにすれば」の前に、必ず文書が机の端に移されている。ネルヴァへの口頭指示は常に的確で、兵站の歯車は一つも噛み合わなかったことがない。増援は完璧な刻限で届く。紙も筆もない部屋で——証拠を一切残さず——全てが、あの少年の頭ひとつの上で動いている。


俺たちの命は全て盤上に乗っている。なのに——一人でも多く生かすように采配されている。


全てがどうでもいいはずの化け物が——辺境の被害を一人分でも減らすように、全軍を回しているのだ。


——化け物には理由がない。だがこの矛盾には理由があるはずだ。


あの一瞬の微表情。戦死の報告を聞いた直後に走った、名前のつかない何か。ルクセス殿下の名が出た瞬間に灯った瞳の赤。化け物のはずなのに——あの壁の向こうに、何かがある。


——分からない。分からないが、分かることが一つだけある。


「飾りの団長」ではない。この砦の核だ。


——なぜ守っている?


答えは出なかった。寝台の上で何度寝返りを打っても、頭の中の引っかかりは抜けなかった。マルクスの鼾が規則正しく響いている。


——明日も、あの部屋に行くのか。


あの少年の隣で書架を整理し、来訪者を取り次ぎ、化け物の横顔を盗み見るのか。


眠れないまま、夜が明けていった。


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