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終わる世界と、筆のない部屋 〜変……辺境騎士団入団記〜  作者: 藍津改


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第五話 飾りの団長の深淵

ファビウス副団長が前線視察に出たのは、兵站輸送の護衛任務から五日後のことだった。


一週間の不在だと、朝の詰所で伝達が回った。前線拠点の防御態勢と補給路の再査定が目的であり、ファビウスが直接巡回しなければ判断のつかない案件がいくつか溜まっているらしい。副団長の不在中は古参の下士官が指揮を代行する——それ自体は珍しくない。


だが、朝の詰所でその下士官から告げられた言葉に、フェルンは面食らった。


「手の空いた者を団長室に行かせろ、とのことだ——名誉団長殿のお手伝いだ」


周囲の兵が互いに目配せした。詰所に漂う空気は、嫌がっているというよりも困惑に近い。飾りの団長の世話など、頼まれたところで何をすればいいのか分からないのだろう。


フェルンが何も言わずに立っていると、下士官が面倒そうに続けた。


「お前が適任だと殿下がご指名だ」


「……なぜ俺が?」


「知らん、殿下の気まぐれだろ。難しくはない。書物の整理と、来訪者の取次だ」


気まぐれ。もっと理不尽な命令を毎日ファビウスから受けている。だが何かが引っかかった。フェルンはこの砦に着任してまだ二月に満たない。古参兵でもガルスでもなく、入りたての出向者を名指しで指名する理由が分からない。分からないが——命令は命令だった。


「ああ、あの『黒髪の怪物』だが」


詰所を出かけたフェルンの背中に、下士官が声をかけた。


「実物は拍子抜けするぞ。怪物ってのは噂が作った言葉だ。だが——まあ、別の意味で覚悟しとけ」


「何が……」


「目だ。殿下の目は——ちょっと変わっている。初めて見ると面食らうかもしれん」


——皓目。あの時ガルスさんが言っていた言葉が頭の中を過った。


「あと、髪がやたら長い。切ってもすぐ伸びるんだと。ちょっと前に副団長殿が手を入れてた筈だが——もう伸びてきてるかもな。まあ、細かいことは会えば分かる」


下士官は手元の報告書に目を落とし、話は終わったという顔をしていた。


二階の廊下を通り過ぎる時、副団長室の扉の前を横切った。あの三重の輪の紋章が、変わらず樫の一枚板に浅く彫り込まれている。何度も通った道だ。だがこの日——彫りの溝の奥に、ほんの一瞬、何かが走った。中輪の刃の連なりが、あの夕暮れに見た紋章にほんの少しだけ近づいて見えた。直ぐに消えた。目を擦ると、いつもの浅い彫りに戻っている。——この頃、こういう「気のせい」が多い。


三階。あの螺旋階段を上る。壁面の燭台に今日は蝋燭が入っていたが、火は点いていない。砂利を掃いた形跡がわずかにあった。誰かが——最近、この階の手入れを始めたらしい。


螺旋階段を上るにつれて、空気が変わった。一階と二階は兵たちの生活空間だ。靴底が石を叩く音、声、飯の匂い。三階にはそれがない。人の気配が急に薄くなり、石壁の冷たさが肌に当たる。


以前は半開きだったあの扉の前に立つ。


——叩けばいいのか?


扉に紋章もなければ表札もない。素っ気ない鉄の取手が一つあるだけだ。あの時は中を覗いただけで帰った。今日は——入らなければならない。


二度、叩いた。


返事はなかった。


    *


返事がないまま、十を数えた。


もう一度叩こうと手を上げた時、扉の向こうから声がした。声というよりは息に近い——かすかに空気が揺れた程度の音だった。


「……開いてる」


押した。扉は滑らかに開いた。


一月前に見た光景が、さらに深くなって広がっていた。


壁面の書架は相変わらず天井まで隙間がなく、しかしそれだけでは収まりきらなかった本が、床にも窓枠にも積み上がっている。背表紙は革と布と紙が入り混じり、大きさも厚さも揃っていない。だが積み方には秩序があった。高い山と低い山が交互に配置され、扉から窓際まで通路が確保されている——前と同じだ。そして同じく——


羊皮紙がない。


一枚もない。兵站輸送の便覧に「殿下より」と書かれていたことを思い出していた。あの精緻な経路指定を書いた人間の部屋に、覚え書き用の羊皮紙が一枚もない。墨壺もない。筆もない。これだけの書物を読む人間が——何も書かない。


部屋の奥に、窓がある。細長い窓だ。窓から入る光は、瘴気帯の空を透かした鈍い灰銀色だ。その光が、部屋の奥で何かを照らしている。


椅子だ。積み上がった本の奥、窓際に置かれた古い木の椅子。その椅子に——誰かが座っていた。


最初に見えたのは、髪だった。


黒い。墨を流したような、深い漆黒だった。肩甲骨のあたりまで流れ落ち、椅子の背もたれの上で緩やかにうねっている。毛先にかすかに切り揃えた跡が残っていた。アルカディア王家は金髪だと聞いていた。だが目の前の髪は金とは対極にある。陽を知らない水底のような色だ。


フェルンは、自分が立ち尽くしていることに気がつかなかった。


髪の主が顔を上げた。


いや——半分閉じた目が、ゆっくりとフェルンの方に向いただけだった。本を読んでいたのだ。膝の上に開かれた分厚い書物を片手で押さえたまま、もう片方の手で頬杖をついている。


色が白い。暮光城の兵たちは皆、瘴気帯の濁った陽光と風に晒されて浅黒い。この少年だけが——別の世界から切り取られたように明るく、だが目の下には深い隈が痣のように刻まれていた。隈は紫がかった灰色で、白い肌との境目がなだらかに溶け合っている。病人の印象があった。


だがフェルンは——なぜか目を逸らせなかった。


目鼻立ちが、整いすぎていた。その一言に尽きる。何某かの血筋の顔だ、と直感が告げた。骨格の一つ一つが精密で、余分がない。フェルンよりも幾つか年下だと聞いていた。そんな歳の顔ではなかった。骨だけが先に仕上がってしまったような、残酷なほどの早熟さが顔全体を支配していた。


そしてその骨格の上に——気怠さが載っている。


着崩した室内着。留め具が外され、裾が椅子から垂れて床に触れている。襟元は緩く開き、鎖骨が灰銀色の光の中に覗いていた。漆黒の髪がその白い首筋の上にさらりと流れ落ちて、色味の対比が嫌でも目を引いた。


頬杖をついた手首が細い。剣を振る手ではない。本を繰る手だ。だがその手の形さえ、年齢にそぐわなかった。指の先に至るまで端正で、頬を支える仕草が——意図せず絵画のような構図を作っていた。


居心地が悪くなった。


椅子に座って本を読んでいる少年が居るだけだ。なのに目が離せない。気怠さと端正さの取り合わせが、見てはいけないものを覗いてしまったかのような罪悪感を生んでいる。


年齢と見た目が噛み合っていない。隈の下の白い顔が、何もかもを手放した後の——ある種の透明さを帯びていた。色気、という言葉が不意に頭を過って驚いた。——この少年の存在そのものが間違っているのだ。王族の血と、すべてに倦んだような静謐さが偶然に重なって——名状しがたい引力を生んでいる。


——これが、「黒髪の怪物」か。


怪物どころか、人を害する気力すら残っていないような顔だ。だが——触れてはならないという空気が、少年の体の輪郭を一枚の壁のように隔てている。呪いではない。なお容赦のないもの——血統が、この顔を造った。


怪物ではない。だが——ただの少年でもない。


瞳が、ゆっくりとフェルンを見ている。


灰銀を帯びていた。窓から差し込む光を映して、瞳の色が部屋の空気に溶けている。磨かれた鏡のような——不思議な瞳だ。灰色であり、銀色でもある。見ているこちらが映り込みそうな——鏡色、としか言いようがない。


——皓目。


ガルスの声が甦った。この瞳を見もしないで「怪物」と囁く者たちに、ガルスはずっと腹を立てていたのだ。この瞳は怪物の目ではない。だが——人間の目でもない。名前のつかないものが、そこにあった。


「仕事は決まってる」


顔を上げずに——いや、ちらりとだけ上げたものを、すぐ本に目を戻しながら言った。声は囁くように小さい。


「本を整理して、来た人の取次をしろ」


それだけだった。自己紹介も、着任の挨拶も、名前を訊かれることもなかった。フェルンが何者であるか——そもそも関心がないのだ。


名前は知っている。ヴェスペル・アウレクス。だが内心でその名を呼ぶ気にはなれなかった。名前で呼ぶには——この存在は遠すぎた。少年、としか呼べない。


——なぜファビウス副団長が従う? あの冷静で苛烈な男が「飾りだ」と言いつつ、なぜこの少年の「殿下より」という書状をそのまま回す?


疑問を口にする隙はなかった。少年はすでにフェルンの存在を忘れたかのように本を読んでいた。


最初の日は、そうして終わった。書物を積み直し、背表紙の順序を何となく揃え、窓枠に溜まった埃を拭いた。奥の布幕の向こうは小さな部屋だった。簡素な寝台に敷布と毛布がきちんと整えてあり、壁寄りに衣箱が一つ。清潔ではあったが——人がそこで寝起きしている気配は薄かった。整えられたまま誰も触れない寝台が、かえって部屋の静けさを際立たせていた。少年はその間ずっと本を読んでいた。一度も話しかけてこなかった。昼過ぎに従卒が食事を運んできた。少年はそれを手元に置かれるまま、祈りの言葉を唱えることなく匙をつけた。砦では食前に全員が聖句を唱える。辺境で命懸けの者たちが、神に縋るように聖句を口にする。この少年だけが——祈らない。


初日が終わり、二日目が来た。


シルスという小柄な男が訪ねてきた。あの孤児院の世話役だ。布包みを持って現れ、少年の横に静かに置いた。短い言葉を二つ三つ交わして——少年は半分閉じた目で何かを返した。声が小さくて聞こえなかった。シルスは短く頷いて帰っていった。


三日目の昼過ぎ、シルスが帰りかけた時だった。扉を開けると、廊下にもう一人立っていた。


ガルスだった。


長槍を背に負った無骨な姿が、三階の廊下をひと回り窮屈にしていた。


シルスが足を止めた。ガルスも黙って立ち止まる。二人の間合いは初対面のそれではなかった。古い馴染みの距離だ。


シルスが廊下を去りがけに、フェルンの方をちらりと見た。


「院の先輩なんです、この人も」


院。孤児院のことか。ガルスは——孤児だったのか。


「殿下がこの城に来られて、直ぐに始めた場所です」


階段に向かいかけて、シルスがもう一言付け加えた。


「……廊下の蝋燭。あなたが来ると聞いてから入れたんです。うちの者だけなら構わないんですが——ヴェルデンの方が出入りされるなら、少しは体裁を整えないと失礼ですからね」


それだけ言って、シルスは階段を降りていった。


ガルスは団長室に入ると、少年の前で足を止めた。「殿下、お変わりは」。低く短い。少年は本から目を離さず、首をわずかに横に振っただけだった。ガルスは小さく頷いて、三十秒と経たずに部屋を出ていった。


素っ気ないご機嫌伺い——それだけの用で、三階まで上がってくる男が一人いる。


    *


四日目の午後に、ネルヴァという兵站の事務官が書類を一束持って来た。痩せぎすの、姿勢の良い男で、灰の団服の襟をきちんと留めている。ネルヴァは少年の前に書類を広げ、数字を淡々と読み上げ始めた。少年は——本を読みながら聞いていた。


報告が途中まで進んだ時、ネルヴァの声がわずかに改まった。


「修道院から星露草の追加要請が来ています。前回融通した分も底をついたとのことで——現在の在庫で三週間分ですが、融通した場合、暮光城の手持ちは二週間を切ります」


星露草——聖水を精製するための薬草だ。自給できるものではないため、暮光城でも余裕のある素材とは言えなかった。


「前回の便は途上で魔物に遭い、到着が遅れました。届いた時点で荷の傷みがひどく、使える量がかなり目減りしたとの報告です」


「回せる分だけ回して。あとは黄昏港の次便に積んで」


少年は本から目を離さなかった。頁を繰る指が止まらない。ネルヴァは一つ頷き、書類に書き込んだ。


ネルヴァが次の項目に移った。


「第四拠点で先月、二名の損耗が出ています。補充の要請が——」


「嫌だな、それ」


少年の声が被った。本から目を離さない。頁を繰る指も止まらない。だが——声の調子がわずかに変わっていた。気怠さの底に、苛立ちに似た何かが混じっている。


「死者が出ると配置の計算をやり直さないといけない。面倒なんだけど」


ネルヴァは慣れた様子で頷いた。驚きもしない。


「第六拠点から一名、第八から一名を充てる案がありますが——」


「第六はいい。第八の方を回して、第六には黄昏港の次の徴発を待って」


本を読みながら、一呼吸で配置を組み替えた。ネルヴァは書類に書き込み、一礼して去っていった。


フェルンは書架の整理に戻りながら、今の報告を頭の中で反芻していた。


星露草の融通。暮光城の在庫が二週間を切ると分かっていて、それでも修道院に回す。食堂で耳にした修道院の話——「あっちじゃ飯が三日で腐る。聖水が切れたら死ぬ」。あちらの方が逼迫している。修道院の兵站を、この砦の名誉団長が裁いている。教団が最前線で戦うために必要な物資を、騎士団が送り届ける。その構図が、少年のぽつぽつとした言葉から、するりと浮かび上がった。


だがフェルンの胸に残ったのは、構図よりも——損耗報告の際の一言だった。


——「嫌だな」。面倒だから嫌なのか。それとも——その言葉でしか、感情を表現できないのか。フェルンには分からなかった。だが理由が何であれ、兵は最適な場所に配置され、死者は最小限に抑えられているようだった。


五日目の午後——また別の訪問者が来た。


二人組だった。先に入ってきたのは灰がかった薄い茶色の髪の男で、従騎士の団服を着ているが学者肌の細身で肩幅がだぶだぶだ。後ろにもやはり細身の青年が控えている。革の鞄を肩に提げ、帳面を小脇に抱えていた。


灰茶髪の男は部屋の隅に目をやり——書架と壁の間に置かれた木箱に真っ直ぐ歩み寄った。あの箱は、書架の整理中に何度か気になっていた。何の変哲もない樫の箱なのに——目を凝らすと箱の輪郭が微かに滲んで、周囲の空気だけがほんの少し歪んでいるように見えることがあった。男は蓋に手をかけ——何か呟きながら指を滑らせた。箱そのものの状態を——構造を確かめている。


「骨格は問題ない」


独り言のような声だった。早口で、ぶっきらぼうだが正確な、技術者の声。


「ただ聖別の層がまた薄くなっている。——前回より劣化が速い。早めに手を入れたいが、うちの手が空くのは来週だ」


最後の言葉は少年に向けられていた。少年は——本を読んでいた。


「好きにすれば」


灰茶髪の男——リンノ・テクソルと名乗った——は肩を竦めた。慣れた仕草だった。


リンノの灰緑の目がフェルンに向いた。


「あんたが最近の雑用係か」


木箱の蓋を軽く叩いた。——そして、ほんの指二本分だけ蓋を持ち上げた。


隙間から覗いた中身に、フェルンは目を見張った。膨らんだ革袋がいくつも積み重なり、封蝋の押された書簡の束、帳面——この小さな樫の箱の中に、どう考えても入りきらない量が収まっている。


だがフェルンの目は、更に別のものを捉えていた。


箱の内壁に——薄い膜のようなものが何層にも折り畳まれて見えた。書架の整理中にぼんやりと感じていた輪郭の歪みが、蓋が開いた瞬間にはっきりとした線として浮かび上がっている。膜の奥にはさらに硬い芯のような筋が走っていた。あの封霊晶の格子と——似ている。似ているが、もっと複雑で精密だ。


「……この箱、何か——膜のようなものが見えます。何層も、折り畳まれて」


口にしてしまってから、しまったと思った。見えてはいけないものが、また見えている。


リンノの手が止まった。


灰緑の瞳が、ぶっきらぼうな技術者の顔とは違う鋭さでフェルンを射た。


「——見えるのか。聖別の膜が」


声の調子が明らかに変わっていた。


「教団の奴等でも術式なしには視えんぞ。——あんた、何者だ」


「翠波騎士団からの出向者です。……この目のことは、自分でもよく分かっていません」


リンノは蓋を持ち上げたまま、数秒フェルンの目を見つめていた。それから——鼻で小さく息をついた。面白いものを見つけた、という顔だ。


「……いい目をしてるな。——なら教えてやる。あんたが見ているものの名前を」


蓋の縁を指先で叩いた。


虚蔵(うつろぐら)だ。空間を操る道具。中に物を収める——見ての通り、箱の見かけよりずっと多くな。殿下の個人的な物入れだ。部屋から全然出ないからな」


「……魔法鞄ではなく?」


フェルンは思わず聞き返していた。空間拡張の魔法鞄なら内地でも使われている。


「辺境では魔法鞄の維持に頻繁な聖別が要る。ここの浄僧が何人いるか知ってるか? ——虚蔵は瘴気帯じゃ勝手に安定する。こっちの方が辺境には向いてるんだよ」


リンノは蓋の縁を指でなぞりながら、フェルンの方を向いた。


「あんたが見た膜——あれは聖別だ。虚蔵の外側を、聖別で包んで安定させてある。膜の奥に透けていたもっと硬い筋——あれが骨格だ。空洞を支えている芯で、僕の領分だから触れるな」


フェルンは目を凝らした。確かに——膜の奥で揺れている硬い筋は、聖別の柔らかな層とは明らかに質が違う。手を出すべきではないと、直感が告げる。


リンノは蓋を持ったままで、身震いをしたフェルンをもう一度上から下まで値踏みするように見た。


「膜だけじゃなく、奥の『骨格』のヤバさまで見抜いたか……下手に誤魔化して、あとで好奇心で触られでもしたら僕の首が飛ぶな」


独り言のように呟き、リンノは声を一段低く落とした。


「殿下が部屋に置いている雑用係だ、ただの数合わせじゃないんだろう。なら、好きにしてつまらん嘘は省く。いいか、一度しか言わないぞ」


リンノの瞳から、刃のような光が覗いた。


「奥の骨格は——『解紡結社』の技術だ」


解紡結社。その名前は知っていた。教団が絶対の禁教としている組織。


「僕はそこで修業した技術者だ。碧月海の港町で当局に捕まり、本来なら火炙りだがね、どうしてだか罰が辺境送りになった」


結社の技術者が——教団の浄僧の常駐する騎士団の砦で、従騎士の団服を着て、異端の術式を扱っている。つまりこの箱の存在自体が、致命的な火種であった。リンノは脅すように、だが自嘲を込めて口の端を上げた。


「結社の技術と教団の聖別は原理が正反対。だが、辺境じゃ教義より実用だ。結社の原理主義者なら真っ青になる邪道の折衷案さ。だから——僕の領分である骨格には、絶対に手を出すな。ここで暴発すれば、あんたも殿下も、塵すら残らない」


リンノは蓋を戻した。閉じた瞬間——フェルンの目に見えていた膜も骨格も、嘘のように消えた。ただの樫の箱が、書架の影に収まっている。


「あんたの目で膜が見えるなら話は早い。あの膜は瘴気で少しずつ削れていく——ほつれると中から嫌な気配が漏れてくる。蓋の隙間からそういうものを感じたら、僕を呼べ。蓋は絶対に開けるな。中の均衡が崩れると暴発する」


声に真剣な調子が混じった。


「殿下は手遊びで開けたり閉じたりしてるがね——まあ、あれは例外だ」


ちらりとヴェスペルを見た。少年は本を読んでいた。手遊び——リンノがこれだけ真剣に技術を語った道具を、あの少年は暇潰しで開け閉めしている。紙も筆もないはずの部屋で、本だけが天井まで積み上がっている。あれも——樫の箱から出しているのか。


後ろに立ったままで居る青年が、帳面に何かを書き付けている。フェルンはその横顔を見て——引っ掛かった。どこかで見たことがある。黒い髪。細い首。門柱の高さを視線で測るような、あの奇妙な目の動き——


——あの時の徴発だ。


マルクスと同時に暮光城に着いた日。城門の前で、壁際に立っていた黒髪の青年。あの青年だ。リンノが「カエソ」と呼んでいた——カエソ・リメン。あの日以来ずっと、砦の中にいたのか。


リンノの灰緑の目がフェルンに戻った。先ほどの皮肉っぽさが消えていた。


「もう一つ。——この箱のことは他で喋るな。副団長の耳には入ってるが、知られないに越したことはない。特に、教団にはな」


二人は去っていった。


あの少年は解紡結社の技術者を手元に置き、教団が異端とする技術を、ただの物置のように使っている。そして暴発の危険をリンノが真顔で語ったそれで、手遊びをしている。部屋に書物だけが積み上がっていく理由が——少しだけ、形を持った。


六日目にもシルスが来た。


——なぜ名誉団長のもとに、これほど人が訪ねてくるのか?


孤児院の世話役、兵站の事務官、ご機嫌伺いの下士官、虚蔵の点検をする従騎士。いずれも自然な理由がある。だが頻度がおかしい。毎日のように人が出入りし、しかもいずれも短い滞在だ。用を済ませて去る。何の用を済ませているのかが——フェルンには見えなかった。


違和感は、静かに積もり始めていた。


    *


団長室に通い始めて七日目の午後のことだった。


フェルンが書架の上段を整理していると、少年が——初めて本から目を離して、部屋の隅を指差した。


「あれ、直せるでしょ?」


声に抑揚がなかった。今日の天気を確認するような調子だった。


フェルンは指の先を辿った。樫の箱だ。リンノが二日前に点検していった虚蔵——


リンノを呼ぶべきだ。反射的にそう思った。だが少年は本に目を戻さないまま、指を下ろしもしない。「直せるでしょ」は質問ではなかった。確認だった。


近づくと——空気が薄くなるような、ぞわりとした気配。蓋がわずかに浮いて、隙間から何かが漏れている。畳み込まれた薄膜がほつれている——リンノが「来週」と言っていた修復を要する聖別が、それまで持たなかった。


焦るフェルンの目に——あの輸送路で初めて見えた糸が、また見えた。虚蔵の外側に張り巡らされた聖別の編み目が、ほつれて解けかけている。綻びの形が分かる。ほつれの方向も見える。だが今回は、その奥にもう一層——虚蔵そのものの骨格がぼんやりと透けていた。リンノが「僕の領分」と言っていた部分だろう。そこに手を出してはいけない。問題は聖別の外層だ。


今回は規模が違った。マルクスの大剣の聖別修復とは桁が違う。虚蔵を包む聖別の術式は多重に折り畳まれており、一箇所が綻べば連鎖的に全体が崩壊する。暴発すれば——部屋ごと消える。


背筋に冷たいものが走った。


振り返った。少年は──本を読んでいた。真新しい頁を指が撫でている。あの半分閉じた瞳が、墨色の活字を追っている。


——本を、読んでいる。今、俺が死ぬかもしれない修復をやろうとしているのに。


「……本当に、今すぐやれということですか?」


「違う?」


短い返答だった。本から目を離さずに放たれた問いは、フェルンに選択肢があるように聞こえて——実際には何も与えていなかった。「できるだろう」という確信だけが、その声の底にあった。


この少年は——本気で「できる」と分かっている。フェルンの能力を、何らかの方法で正確に測った上での平然だ。


手が震えた。


恐ろしかった。虚蔵の暴発が恐ろしいのではない——この少年の中で、自分の命がどれほどの重さなのかという問いが、胸の底でぞわりと揺れていた。


——この少年の中で、俺の命は、頁をめくる程度なのか。


それでもフェルンは虚蔵に手を伸ばした。頭が拒んでも、手が動いた。綻びが見える。見えたら——繕わずにはいられない。


「——センティア・ファクト、世の綻びを繕え——」


聖句が唇から漏れた。指先に力が流れる。精霊力ではない。自分の内側の、何かだ。それが滲み出て、虚蔵を覆う聖別のほつれた編み目に吸い込まれていく。大剣の時とは比較にならないほど細かい作業だった。各層の表面に張られた聖別の膜を一枚ずつ探り、綻びを見つけ、繕い、次の層に進む。奥に行くほど聖別の編み目は細かく、その向こうに虚蔵そのものの骨格が硬い壁のように横たわっている。手探りで進む指先が何度もその壁に当たった。額から汗が落ちた。腕が震える。背中に鈍い痛みが広がっていく。


ちらりと背後を確認した。少年は——本を読んでいた。暴発の危険を告げたはずだ。なのにあの指は、自分の安全など歯牙にもかけていないかのように滑らかに動いている。この少年にとって——フェルンが失敗することは「あり得ない」と見切られている。だから——本が読める。


最後の綻びが塞がった瞬間、虚蔵の木箱がかすかに軋んだ。それだけだった。暴発は起きなかった。


フェルンは額の汗を袖で拭った。手が震えている。膝が笑っている。体の中心から何かを根こそぎ持っていかれたような——壁に手をついて、かろうじて崩れ落ちずに耐えた。


ヴェスペルは次の頁をめくった。


それだけだった。


「ありがとう」も、「よくやった」もなかった。視線一つ寄越さなかった。死に物狂いで暴発寸前の虚蔵を修復した人間が、すぐ隣で汗だくになって膝を震わせているのに——この少年は、次の頁をめくっただけだ。


紙の擦れる音が、静かな部屋に響いた。その音の小ささが、かえって部屋の沈黙を際立たせていた。


——俺の命は。


この少年の中で——頁をめくる行為と、どれほどの差があるのだろう。


    *


決定的な瞬間は、さらに数日後に訪れた。


その日、暮光城に増援が届いた。前線拠点からの要請に応じた兵站の再配置——副団長が長引いている視察先から出した指示だと思われていた。増援の到着は完璧な刻限だった。早すぎず、遅すぎず。前線が手薄になる直前に、最小限の人数が最適な場所に配置された。


フェルンは団長室の書架を整理しながら、窓から城壁の動きを見下ろしていた。増援が到着し、古参の下士官が配置表を確認している。全てが滑らかに動いている。噛み合っている。


ふと、ネルヴァの兵站報告を思い出した。あの時、少年は本から目を離さずに——短く三つ、言葉を返した。


「第四拠点の聖水は二割減らして第七に回して。輸送路は北回りに変えて、三日後の便で」


ネルヴァは一瞬も迷わずに頷き、書類に書き込んで去っていった。判断の根拠を問い返しもしなかった。


そして今日——書架を整理している手が、机の引き出しの奥に触れた。


墨壺だった。三つ。使い込まれた黒檀の壺が、引き出しの一番奥に並んでいた。開けてみると墨は乾いて固まっていた。壺の表面は手脂で磨かれたように滑らかで、かつて誰かが日常的に使っていたことを示していた。


——この部屋には「ない」のではなかった。以前にはあったのだ。


だが——羊皮紙は、やはり一枚もなかった。


フェルンがこの部屋に通い始めて十日近くが経つが、一度として羊皮紙が広げられたのを見ていない。少年の手が紙に触れた記憶がない。ネルヴァが持ち込んだ書類は、ネルヴァが書き込んで持ち帰った。少年自身は——一文字を書かなかった。


増援の配置は正確だった。ファビウスが視察先からの書簡で出した指示だと、誰もが思っている。だが——ファビウスは前線にいる。前線から砦に書簡を送るには半日かかる。書簡を受けてから増援を出しても、あの刻限には間に合わない。


——書いていない。どこにも書いていない。


あの輸送路の便覧。「殿下より」と署名のない指示書。あの経路指定には、瘴霧狼の出現位置の予測と迂回路の事前封鎖が含まれていた。そして今日の増援の配置。紙に書かれた指示を一度も見ていない。覚え書きもない。殿下は、兵站の数字を頭の中だけで組み替えて、紙の上で確認すらしなかった。


その瞬間、フェルンの目に——何かが見えた。


いや、見えたというのは正確ではない。感じた、の方が近い。砦の中に——精密な、糸のような、何かが張り巡らされている。ぼんやりと、しかし確かに。人の配置、物資の流れ、情報の経路——全てが結ばれている。魔法ではない。糸でもない。ただの思考の結果が——物理的に最適化された配置として目の前に広がっている。輪郭は揺れていた。だが今度は——目を逸らせても消えなかった。


窓に近づいた。城壁の上で見張りの兵が交代している。食糧庫から荷馬車に木箱が積み込まれている。訓練場では新兵が組み手をしている。全てが自然だ。何もおかしくない。おかしくないのに——フェルンの目には、それら全てが一つの精密な盤面の上で動く駒のように映った。


振り返った。少年は——本を読んでいた。


「……紙が、ないですね」


声が乾いていた。自分でも驚くほど掠れていた。


「……で?」


そのままの姿勢で返ってきた。本の頁を繰る指は止まらなかった。


「この砦の増援の配置——ファビウス副団長は前線にいる。あの距離で書簡は間に合わない。誰が指示を——」


言葉が途切れた。


少年が——初めて、本を閉じた。片手で表紙を静かに押さえ、半分閉じた瞳がフェルンを向いた。鏡のような瞳が、フェルンを映した。


その瞳の奥に——何もなかった。


世界そのものに対して「どうでもいい」とでも嘯いているような、無関心の深淵。


「帰っていいよ」


小さな声だった。怒りでも苛立ちでもない。ただ——もう用が済んだという声だった。


フェルンは答えられなかった。頭の中で、何かが回っている——自分の中ではない。この少年の頭の中で回っているのだ。全軍の兵站を。防衛配置を。紙も筆も使わず、ただこの頭ひとつで——


呟いたのは、部屋を出た後だった。


「……全軍が、あの頭ひとつの上で動いている」


言葉にしてみて、その言葉の重さに自分が潰されそうになった。


——もしあの少年が倒れたら、黄昏辺境区は崩壊する。


    *


廊下に出たフェルンは、壁に手をついて息をついた。


呼吸が浅く、震えが止まらない。先日の虚蔵の修復の負担が後を引いているわけではない——今の震えは身体ではなく心の中から来ている。


紙が、ない。魔法も、使わない。なのに——全軍が、あの頭の盤上に載っている。


石壁の冷たさが掌に染みる。砦の下の階から、訓練場の剣戟が遠く聞こえてくる。兵たちは何も知らずに剣を振っている。自分たちの命が、あの静かな部屋の中の少年一人の頭に委ねられていることを——知らない。


「お前、顔が青いぞ」


声がした。螺旋階段を降りた先に、マルクスが立っていた。大剣を背に負い、訓練帰りらしく額に薄く汗をかいている。碧眼がフェルンの顔色を見つめていた。


「……なんでもない」


「なんでもない顔じゃないだろ。虫でも食ったか」


マルクスの声は相変わらず粗暴だったが、輸送路で握手を交わして以来、その底に別の色が透けて見えるようになっていた。同期の顔色を案じる目。


——マルクスに言えるか?


俺たちは全員——あの少年の頭の中で、動かされている、と。


言えなかった。口にしてしまえばただの狂言にしか聞こえないだろう。だが——別のことなら訊ける。


「マルクス。最近、妙なものが見えることがあるんだ。糸みたいな……編み目のようなものが」


笑われるかと思った。マルクスは笑わなかった。


「森人の目ってやつじゃないのか。うちの婆さんが言ってた——精霊の通り道が光の糸みたいに見える奴がいるって」


名前がつけば安心する。だがあの部屋で見えたもの——砦全体に張り巡らされた精密な糸——あれは精霊の通り道などではなかった。それをマルクスに伝える言葉を、フェルンは持っていなかった。


「気にすんな。辺境にいりゃ色々見える奴はいる」


マルクスは肩を竦めた。「飯がまずくなるぞ、その顔」と一言残し、大股に歩いていった。金髪の後ろ姿が通路の向こうに消えて、靴底の音が遠ざかった。


——森人の目。


フェルンは壁に背をつけたまま、しばらく動けなかった。便利な名前だった。だが名前がついたところで、見えるものの正体は分からない。


——あの人は、何者なのか。


答えは出なかった。出るはずもなかった。


ただ一つだけ確かなことがある。あの部屋に通い始めて十日。「飾りの団長」という言葉は——もはや二度と、口にできなくなっていた。


ファビウス副団長は「飾りだ」と言った。ガルスは「飾りではない」と言った。今なら分かる。どちらも正しい。ファビウスが「飾り」と言ったのは——兵たちの目から隠すためだ。ガルスが「飾りではない」と言ったのは——真実を知っているからだ。


——飾りではない。この砦の核だ。


その重さが、石壁の冷たさと一緒に、フェルンの背中に染み込んでいった。


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