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終わる世界と、筆のない部屋 〜変……辺境騎士団入団記〜  作者: 藍津改


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第四話 綻びを繕う者

夜明け前の搬出口は、灯火の下で黙々と動く影で満ちていた。


荷馬車が三台、石畳の上に並んでいる。荷台には木箱が隙間なく積み込まれ、縄で固定されている。中身は前線拠点への補給物資——聖水、乾糧、薬草、布帛。どれも辺境で不足すれば人が死ぬものばかりで、特に聖水は替えがきかない。荷台の一番上に括り付けられた瓶が、灯火を受けてかすかに光っている。一瓶が割れれば前線の誰かが死ぬ——そんな重さが、荷台の軋みに乗っている。


兵たちが荷物の最終確認をしている。縄の結びを引っ張って確かめる者、車輪の軸に獣脂を塗り込む者、馬の蹄鉄を叩いて音を聴く者。声はない。任務前の空気はいつもこうだ。必要なことを各自が勝手に済ませる。


フェルンは懐の小袋に手を当てた。封霊晶の硬い感触が指に返る。最後の一つ。


——大事に使えば、何とかなる。


三回目になるその楽観が、今日ばかりは心もとなかった。前線への兵站輸送は、辺境騎士団の任務の中でも死傷率が高い。瘴気帯の深部を片道半日かけて往復する。行きは荷を護り、帰りは負傷や疫病を抱えた前線の兵を連れて戻る。


搬出口の脇に積まれた便覧——経路指定書を手に取った。革表紙に挟まれた薄い羊皮紙が数枚。輸送の経路と停止点が記されているだけでなく、増援の合流地点には「第二班到着予想時刻」まで書き込まれていた。ガルスの腰帯に提げた刻時器——分節水晶の欠片を嵌めた真鍮の小筒——でなければ追えない、四半刻刻みの精密な指定だ。


署名はなかった。末尾に小さく「殿下より」と一言だけ。


「今日は少し深い。気を抜くな」


ガルスが端的に言った。目が搬出口の外——暗い瘴気帯の入口を見据えている。ガルスの声に鋭さが混じる時は、本当に危ない時だ。


隣にマルクスがいた。大剣を背に負い、刃に手を添えて短く聖句を呟いた。聖別の残量を確かめる動作だ。淡い光が刃に沿って流れ、碧眼がそれを見つめている。命を預ける道具の点検を怠る男ではなかった。


「行くぞ」


号令は短かった。全員が立ち上がり、それぞれの持ち場に散る。荷馬車の馬が鼻を鳴らし、車輪が石畳を軋ませて動き始めた。朝霧の中、一行が瘴気帯へ踏み出す。搬出口の灯火が背後に遠ざかり、最後の温かい光が消えた。


    *


空気が変わった。


搬出口を出て一刻もしないうちに、喉の粘膜に鈍い腐敗の膜が張り始めた。砦の周辺とは桁が違う。広域結界の加護が届かなくなるほどに、輸送路の瘴気は濃くなり、呼吸そのものが重荷になった。


行軍は無言だった。荷馬車の車輪が灰色の岩盤を軋ませる音と、靴底が石を踏む音だけが続く。どちらの音も、瘴気の霧に吸われて妙に鈍い。十歩離れた相手の声が、もう水の中のように聞こえる。


視界も狭まっている。十歩先の地面がぼんやりとしか見えない。紫灰色の霧が低く地面を這い、足元から膝のあたりまでを覆っている。馬の蹄が霧を蹴散らすと、散った霧がゆっくりと元に戻る。生き物のような不気味な粘りがあった。


精霊の気配がない。ここは精霊が逃げ出した土地だ。懐の封霊晶に触れると、まだ温かい。中の精霊力がかろうじて残っている証だ。しかし——温かさが心許ない。


先頭をマルクスが歩いている。大剣を抜き身で肩に担ぎ、輝く碧眼を霧の中に凝らしている。訓練場での厄介者は、前線では別人にしか見えなかった。歩幅が一定で、声を出さず、周囲に注意を配りながら先頭を保ち続ける。足元の霧をかき分ける大きな影が、先導する獣のようだった。


行軍が二刻を過ぎたあたりで、輸送路の両側の岩壁に黒い染みが目立ち始めた。壁面を這うように広がっている。瘴気が長い年月をかけて岩に浸透した痕だと、隣を歩いていた兵が教えてくれた。「染みが動いて見えたら限界が近い。その前に帰れ」と。まだ動いてはいなかった——たぶん。


最初の接敵は、輸送路の曲がり角だった。


霞んで見通しの悪い視界から、影が五つ滑り出てきた。この付近でよく見かける、狼を象った瘴気の群体だ。暗紫の霧は剣呑な牙を誇示するよう凝集し、二つの赤い光が目の位置で揺れている。個体は小さいが、複数が同時に側面から噛みつく戦法を取る。聖別を纏った武器で叩けば消滅するが、ただの武器では何度でも再生する。


マルクスの大剣が振り下ろされた。聖別の光を帯びた刃が一体を叩き割る。紫黒い霧が飛散し、一瞬で消える。浄化の光が瘴気の霧を押し返し、一瞬だけ周囲の視界が開けた。しかし——振り下ろすたびに、刃の光が薄れていく。


聖別が消耗している。


二体目。三体目。斬り崩すたびに大剣の淡い光が削られていく。瘴気帯の深部では、空気中の瘴気が武器の聖別を文字通り「食う」のだ。


フェルンは封霊晶を掴んだ。残りの精霊力を引き出し、マルクスの大剣の聖別に流し込もうとした。微かな温もりが指を通って刃に届く。聖別の光がわずかに戻る。


しかし、それも一瞬だった。精霊力が瘴気に触れた瞬間、指先から抜け落ちるように消えた。封霊晶の温もりが急速に冷えていく。


四体目の瘴霧狼が左側面から躍りかかった。熟練の兵がすかさず盾で受け止め、即座にガルスの槍が串刺しにする。穂先の聖別が瘴霧狼を貫き、紫黒い霧が四散した。無駄のない一突き。ガルスは振り向きもせず「前だけ見ていろ」とだけ言った。


五体目——最後の一体をマルクスが叩き斬った時、大剣の光は薄い靄のようにしか残っていなかった。刃の聖別が消えかけている。次の一撃で完全に失われるか、持つかの瀬戸際だ。


「次が来たらまずいな」


マルクスが肩で息をしながら、大剣の刃を見下ろした。聖別の残光が瞬いている。額に張り付いた金髪を手の甲で払い、舌打ちした。「聖別の維持がこんなに食われるなんて聞いてない」——そう言いかけて口を噤んだ。聞いていたはずだ。辺境はそういう場所だと。


フェルンは小袋の中の封霊晶に触れた。


——冷たい。


温もりが消えていた。結晶の表面が、ただの石のように冷たく滑らかだった。大事に使っても、幾らも保たなかった。


    *


次の襲撃は、間を置かなかった。


瘴気の霧の中から——今度は十を超える影が、前後左右から同時に躍り出た。先ほどの五体とは動きが違う。挟撃だ。隊列を分断しようとしている。


ガルスが短い号令を発した。


「陣形を崩すな。荷馬車を囲め。前衛は——」


マルクスがもう飛び出していた。大剣を両手で振り上げ、真正面の三体に叩きつける。聖別の残光が閃き——消えた。


聖別が切れた。


丸腰と同じだ。聖別を失った武器で魔物を斬っても、霧が一瞬散るだけで再び凝集する。斬った端から傷が塞がる相手に、ただの鉄は無力だ。


マルクスの碧眼が一瞬だけ振り返った。フェルンを見ている。聖別の頼みの綱——精霊力の補助を托んでいるのだ。


咄嗟に封霊晶を掴んだ。


——滑らかに冷たい。


空だった。


道具はない。残っているのは自分の手だけだ。


瘴気の腐臭が喉を刺した。


マルクスの大剣に目を向けた。見えてはいけないものが見えた。


刃の表面に——糸のようなものがある。


聖別の残滓だ。完全に消えたのではない。極細の、ほつれかけた糸が、刃にまだ絡みついている。消えかけているのではなく——綻びかけているのだ。編み目が崩れて、糸が解けようとしている。


フェルンには、それが見えた。


なぜ見えるのか分からなかった。それでも——見えた。綻びの場所が、形が、ほつれの方向が。城壁の上で封霊晶を松明にかざした夜、結晶の奥に格子のような線が走って見えた——あの時は瞬きで消えた。今度は消えない。


——見えてしまった。あの夜は瞬きで消せた。今度はもう消えない。この目が捉えたものを、なかったことにはできない。


思索の間はなかった。マルクスの背後から瘴霧狼が躍りかかろうとしている。


手を伸ばした。


マルクスの大剣の柄に触れた。右手を柄に重ねて——


「——センティア・ファクト、世の綻びを繕え——」


聖句が口を衝いて出た。辺境に来てから覚えた浄化の聖句——のはずだ。しかし今のそれは、浄化とは違う何かだった。


指先から力が流れた。精霊力ではない。封霊晶に封じ込められた借り物の力ではない。自分の中から——自分の手のひらから——何かが滲み出て、綻びかけた聖別の編み目に吸い込まれていく。


糸がふさがった。


ほつれていた編み目が——繕われるように閉じていく。完璧な修復ではない。応急の繕いでしかない。だが、それで十分だった。


マルクスの大剣が再び光を帯びた。


「——おおッ!」


マルクスが吠えた。光が戻った大剣を振り上げ、襲い掛かる瘴霧狼を一刀で叩き割った。飛散した瘴気は再凝集しない。聖別が効いている。


フェルンはマルクスの柄から手を離した。指先が痺れていた。何が起きたのか分からなかった。


——俺は……何をしたんだ?


精霊力は空だったはずだ。封霊晶は冷え切っていた。今のは——何だ。


考えている暇はなかった。残りの瘴霧狼がまだ五体いる。荷馬車の両側から回り込もうとしている。マルクスが前衛を張り直し、左右の隙間を別の兵が盾で固め、ガルスが後方に回って殿を務めた。フェルンは——自分が何をしたか分からないまま、マルクスの傍に立った。立っているのがやっとだった。指先の痺れが手首まで這い上ってきている。しかし——マルクスの大剣の聖別が薄れるのを、黙って見ていることはできなかった。


もう一度。


マルクスが迎え撃つ。大剣が振り抜かれた瞬間に聖別の光が薄れ始めた。フェルンは走り寄って隙を見ると柄に手を重ねた。綻びが見える。ほつれかけた編み目を——繕う。光が戻る。マルクスが次の一体を斬る。


三度目。今度は自分から動いた。マルクスが斬る直前に手を添え、聖別が剥がれるより先に繕いを入れる。体が覚えたのだ。綻びが見え、手が動き、聖句が口を衝く。


四度目。五度目。


最後の一体を叩き斬った時、フェルンの両手は止まらないほど震えていた。膝ががくりと折れて、片膝を地面につく。体の中心から何かを絞り出したような、空っぽの感覚だ。息が上がっている。視界の端が暗い。


横から手が伸びた。マルクスの太い腕がフェルンの肩を掴み、引き起こした。「立て」とだけ言った。荒い声だが、突き放す響きではなかった。


ガルスが一瞬だけフェルンを見た。


その双眸の奥に——何かを確認するような目があった。しかしガルスは何も言わなかった。槍の穂先を布で拭い、前方を見据えた。


兵が一人、隣の男に小声で耳打ちした。


「おい、あのヴェルデンの坊主——今のは見たか。聖別修復ってのは——あんなのは——」


隣の古参が、無言で首を横に振った。


「……ほっとけ。ああいう奴が稀にいる、それだけだ。騒ぐな」


フェルンには、二人の会話の意味が分からなかった。体の中心が空洞で、思考に使う力がどこにも残っていなかった。


    *


戦闘が終わり、瘴気の霧が薄れた場所まで一行が退がった時、全員が地面に座り込んだ。


兵たちが荷馬車の荷の状態を確認している。聖水の瓶は全て無事だった。肩を負傷した兵が一人いるが、命に別状はない。あれだけの激戦で——荷も人も、ほぼ無傷で済んでいる。


マルクスは荷馬車の車輪に背を預けて座り込んでいた。大剣を膝の上に横たえ、額の汗を手の甲で拭っている。浅黒い肌に乾いた血がこびりついていた。瘴霧狼を叩き割った時に飛散した残滓が、汗と混じって赤黒い筋になっている。疲労で目は半分閉じているが、どこかにまだ力が余っているような顔をしていた。倒れる直前まで戦い続ける男なのだろう、と思った。


フェルンも隣に座った。両手の震えはまだ止まっていない。水を渡されたが、口に含むと瘴気の残り香が舌に張り付いて、二口目が飲めなかった。


しばらく、二人とも黙っていた。瘴気帯の霧が薄れた場所は、灰色の空がわずかに明るい。鳥の鳴き声はない。風の音もない。静寂の中に兵たちの荒い息遣いだけが散らばっている。


マルクスが口を開いた。


「……あれ、何やったんだ」


「分からない」


正直に答えた。嘘をつく気力はなかったし、嘘をつく理由もなかった。


「分からないって……お前、俺の剣に手を置いて何かしただろう。何回も。あれで聖別が戻ったんだろ。あれは何だ」


「本当に分からない。たぶん……聖句の応用なのかもしれないが——いや、違う。あれは習ったようなものじゃなかった」


マルクスの碧眼がフェルンを見た。値踏みではなかった。命を預けた相手を真っ直ぐに見る目だ。


「まあいい」


マルクスがそう言って、右手を差し出した。


無言だった。握手だ。


フェルンはその手を握った。大きく、硬い手だった。分厚い皮膚が掌全体を覆っている。握ると力が強くて少し痛かった。だがそれが——不思議と安心する。この手が先頭にいる限り、前衛は持つ。そしてこの手の聖別が切れた時は——自分が繕う。


「借りだな」


「俺も同じくらいもらった」


マルクスが鼻を鳴らした。しかし、その後の顔が違った。


「……同期か」


「ああ」


それだけで十分だった。


「次は俺がお前を助ける。俺の背中を預けたんだ。次はお前の背中を守る」


マルクスは握手を解いて、大剣を肩に担ぎ直した。立ち上がる時に「痛って」と小さく呟いたのは、脇腹のどこかを打っていたらしい。それでも歩き出す足取りには躊躇がなかった。


——戦友になった。


フェルンにはその言葉が自然に浮かんだ。食堂で「馬鹿だな」と言い合った男が、今は命を預け合った同期だ。


    *


帰還路は、行きとは空気が違った。


瘴気帯を抜けると、灰色の空がわずかに明るくなった。紫がかった灰色が、鈍い橙色の夕焼けに染まりかけている。暮光城の影が地平線に見え始め、一行の足取りが軽くなる。肩を負傷した兵が仲間に支えられながらも自分の足で歩いている。荷馬車の中身は無事だ。任務は成功——のはずだった。


フェルンは荷馬車の荷台に腰を下ろし、緩む空気の中で——考えていた。


増援だ。


激戦の最中——瘴霧狼の集団が二度目に襲ってきた時。フェルンが必死で繕いを続けていた時。十体を超える瘴霧狼を相手にして、兵が一人倒れかけ、左側面の防御が崩れ始めていた。馬が暴れて、輸送隊全体が動揺していた。あと一体、二体で陣形が瓦解していたかもしれない。


その瞬間に——横合いの輸送路の枝道から、増援の兵が五人駆けつけたのだ。合流地点から、刻時器の刻みに寸分違わぬ精度で。


完璧な刻限だった。


早すぎず、遅すぎず。もう二分遅れれば荷馬車が一台やられていた。もう五分早ければ増援が瘴霧狼の第一波と鉢合わせていた。あの刻限でなければならなかった——そしてその通りに来た。偶然か。偶然にしては——完璧すぎる。


もう一つ。瘴霧狼の群れは、なぜか北側の迂回路からは来なかった。あの路は群れが回り込む最短経路だ。にもかかわらず、北からは一体も来なかった。来なかったのではない。来られなかったのだ。


——誰が事前に封鎖した?


搬出口で見た便覧を思い出した。あの経路指定書には、迂回路の封鎖指示が最初から含まれていた。瘴霧狼がどこから来るかを事前に予測していなければ書けない内容だ。


署名はなかった。末尾に小さく「殿下より」と。


ガルスが隣を歩いていた。帰還路の最後尾を固める殿の位置で、槍を肩に掛けたまま砦の方角を見ている。フェルンは声をかけた。


「ガルスさん。あの増援は——誰の指示で?」


「殿下だ」


当たり前のように言った。


「……殿下って……団長が?」


ガルスは足を止めなかった。


「飾りではないと言ったぞ」


「でも、あの人は砦の最上階から一歩も出ないと聞いて——」


ガルスが口の端で笑った。あの素っ気ない笑みだ。だが今日の笑みには——何か別のものが混じっていた。誇りのようなもの。


「殿下のやり方だ。俺にも全ては分からん」


「分からないって——ガルスさんでも?」


「ああ。分かるのは——殿下の采配に従っていれば、俺たちは生きて帰れる。それだけだ」


それだけ言って、ガルスは砦の門に向かって歩いていった。夕陽が、ガルスの背中を灰色に染めている。あの背中の先に——あの笑みの先にあるものが、フェルンにはまだ見えなかった。


——どうやって?


砦の最上階の、堆く積まれた本の部屋にいる人間が。輸送路の増援の刻限も、瘴霧狼の北回りの封鎖も、最初から指定していた。砦の中から一歩も出ずに。


疑問は答えを見つけないまま、小さな引っかかりとして残った。


門をくぐった時、空の封霊晶が懐の中で、ただの石ころのように太腿に当たった。もう温もりは戻らない。しかし——今日、フェルンの手は封霊晶なしで聖別を繕った。自分の力だけで。


それがどういう意味なのかは——まだ分からなかった。


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