第三話 屑の美男たちの日常
入団から三週間が過ぎた朝、フェルンは灰色の訓練場で剣を構えていた。
辺境の朝は暗い。瘴気帯の空気が上空を覆い、朝日の色さえ鈍い。東の空から差す光は鉛を混ぜたような薄紫の中に埋もれている。——ただ、明け染めの一瞬だけは違った。地平線の際から光が滲み出す束の間、空の底が淡く透き通る。それは瘴気の膜を透かすほんの数呼吸の出来事で、すぐに鈍い灰紫に飲まれて消えた。
日課の訓練は日の出とともに始まる。号令はない。各自が各自の鍛錬を黙々と行い、組み手の相手を見つけては打ち合う。
木剣を振り下ろす腕が、三週間前よりわずかに重くなっている。筋肉がついたのではない。振り方が変わったのだ。学院では肩から先を使って剣を振った。ここでは腰から振る。最初に組み手の相手をしてくれた年嵩の兵に「お前の振りは飾りだ」と一言だけ言われ、翌日から腰の入れ方が変わった。腰を入れると肩の力が抜ける。肩の力が抜けると柄を握る手に加減が生まれる。加減が生まれると——剣が体の一部に近づく。
——飾りの振りは、少しずつ抜けてきている。
そう思い始めた頃、訓練場の隅で、いつもの騒ぎが始まった。
「——黙れよ。お前ごときに指図される覚えはない」
低い声が、朝の空気を割った。低いが、よく通る。怒声ではない。心底からの軽蔑を乗せた声だ。
例の金髪の青年だった。
マルクス・フェロクス。入団の日に護送馬車から降ろされてきた、あの手枷の青年。三週間経った今も変わらず金髪は無造作に跳ね、碧眼が爛々と光っている。
教官——辺境に長く仕えた中年の下士官——が、マルクスの剣の構えを直そうとしたらしい。訓練場の隅では、若い兵が一人、膝を突いて肩で息をしていた。さっきまでマルクスと組み手をしていた相手だ。腕を庇うような角度で抱えている。マルクスは教官の手を払い除け、真正面から睨みつけていた。
「俺はフェロクス侯爵家の次男だ。お前みたいな平民上がりに剣の構えをどうこう言われる筋合いはない」
教官の顔が引き攣った。しかし手を出さなかった。
——足音がした。
規則正しく、硬い石畳を叩く靴底の音。一歩ごとに訓練場の空気が縮んだ。
「三度目だぞ、マルクス」
副団長の手が、マルクスの肩を上から掴んだ。掴んだだけだ。殴ったわけではない。しかしマルクスの膝が、がくりと折れた。
「教官殿は剣の構えを直してくれている。お前に教える義務はないが、善意で指導している。それに対してお前は——何回目の無礼だ?」
鉄灰色の目が、上から見下ろしている。ファビウスの声は冷静だった。冷静であることがかえって恐ろしい。
「三度目は覚えている。四度目は覚えていたくないだろう。選べ」
マルクスの碧眼が逸らされた。唇を噛んでいる。しかし反論しなかった。ファビウスの前では——あの男がいつも黙る。
肩から手を離されたマルクスは、黙ったまま教官の方を向いた。教官が戸惑った顔で構えの指導を再開する。マルクスは——従った。従いながら、歯を食いしばっていた。
フェルンはそれを少し離れた場所から見ていた。隣に立つガルスが、槍の手入れをしながら口を開いた。
「あれがお前の同期のマルクスだ。アルカディア王国貴族、フェロクス家の厄介者」
「厄介者……」
「家格が高すぎて、副団長以外は手を出しづらい。こっちも教えてやる義理が無いからな、とはいえ直ぐに死なれても勿体ない。教官も扱いに困ってる」
ガルスが一瞬、訓練場の隅を見た。膝を突いていた若い兵が、他の兵に肩を貸されて立ち上がるところだった。
「ただ——あの若い兵、組み手中に足をもつれさせて転びかけたんだ。マルクスが咄嗟に打ち込みを逸らしたせいで、自分の構えが崩れて教官に直されることになった。それを怒鳴ってる」
フェルンは訓練場の隅を見た。若い兵の腕の角度。あれは打ち込みを受けた痕ではなく、逸らされた痕だった。
「……それを本人は言わないんですか」
「言わないな」
ガルスは、用は終わったとばかりに歩き去るファビウスの背中を見ていた。「さて、四回目があるかどうか」
フェルンは溜め息をついた。
——こういう日常なのか。
これが「変……辺境騎士団」の日常だった。
*
食堂は騒々しかった。
石造りの広間に長い木の卓がいくつも並び、その上にどんぶりに盛られた具沢山の汁物と硬い麺麭が所狭しと並んでいる。辺境では体が資本だ。腹が減っては戦にならず、戦にならねば死ぬ。だから飯だけは惜しまない。
煮込んだ根菜と塩漬け肉の、重い湯気が天井の石に溜まっている。壁面の燭台に橙色の光がゆらめき、男たちの声が石壁に跳ね返って反響している。
フェルンが卓の端に腰を下ろした時、食堂の喧噪が一瞬だけ途切れた。
全員が頭を垂れた。
「——センプレア・サクラ、汝に世界の輝きを灯せ——」
聖句が、食堂に低く広がった。
多くの男たちの声が合わさって、石壁に反響する。低い声。太い声。枯れた声。若い声。それらが一つに重なった瞬間、石壁が震えた——ように感じた。身体に響いたのだ。腹の底まで。
この声には——明日も息をしていられるかどうかの重みがあった。前線に出れば死ぬかもしれない男たちが、飯の前にこの聖句を口にする。
少し遅れて、小さく唇を動かした。
——センプレア・サクラ、汝に世界の輝きを灯せ。
唱えてみて、自分の声の軽さに気がついた。百の声に混じっても、自分の声だけがまだ浮いている。あの重みは——ここで長く息をし、何度も死にかけた者だけが乗せられるものなのだろう。
唱和が終わると、一拍の沈黙があった。それから堰を切ったように匙と器がぶつかる音が食堂を埋めた。
隣の席にガルスが腰を下ろし、無言で汁物をすすり始めた。向かいの席にどかりと座ったのは——マルクスだった。朝の訓練場で副団長に肩を掴まれた金髪の男が、不機嫌な顔のまま飯をかき込んでいる。肩の痛みを引きずっているのか、匙を持つ手がわずかに強張っていた。それでも食う速度は落ちない。
マルクスの碧眼が、フェルンの尖り気味の耳と、盆の上に載った飯を一瞥した。
「お前、ヴェルデン出か? 飯の盛りが上品だな」
「……ヴェルダナの出だ」
「翠港か。水の都の坊ちゃんが何でこんな所に」
「本物になりたいから」
フェルンが答えると、マルクスは飯を咀嚼しながら鼻を鳴らした。
「馬鹿だな」
「……そうかも」
マルクスは何か言いかけて、代わりに麺麭を齧った。硬い外皮を引きちぎる動作が荒い。しかし会話が途切れた後の沈黙は、不快ではなかった。
ガルスが汁物の椀を卓に置いて、ぽつりと言った。
「今日、殿下の部屋に書物を届けた」
「団長室に……?」
ガルスの静かな瞳が一瞬だけ細まった。あの硬質な光が、ちらりと過った。
「飾りではないぞ」
それだけだった。ファビウスは「飾りだ」と言い、ガルスは「飾りではない」と言う。フェルンは頭の片隅に疑問符を一つ置いて、汁物をすすった。
卓の向こう——食堂の奥の方で、年嵩の兵が数人、酒の器を傾けていた。
ぼんやりと声が届いた。
「——聖盾の公爵令嬢が修道院送りになった話、知ってるか」
そのうちの一人が酒を呷りながら切り出した。
「公爵家のお嬢様がな、婚約を破棄された挙句、この世で一番戒律の厳しい修道院に放り込まれたんだと。つまり終焉の灯修道院——大裂溝のすぐ傍の、あれだ」
「どんな悪さをすりゃあんな所に送られるんだ」若い兵が身を乗り出した。
「禁術がどうとか、結社との繋がりがどうとか——まあそんなことはいい」男は肩をすくめた。「——あんな所にお嬢様なんぞ送ったらどうなるかって話だ」
酒を一口呷って、声を落とした。
「ここの瘴気なんてまだ序の口だぞ。あそこは裂け目のすぐ傍だ。飯は三日で腐るし、武具の手入れにゃ聖水が要る。何も知らんお嬢様がのこのこ行ったら即死するような土地さ」
「処刑も同然じゃないか。そんな所で暮らしてんのか……教団の奴等は化け物だな」
別の男が酒の器を卓に置いた。
「まぁ、その飯の面倒を見てるのは俺たちだ。連中は戦の専門家だが、物資を送らなきゃ干上がるからな」
「こないだも補給船が遅いと苦情が来たんだが、こっちも手が足りん。資金だって副団長殿が方々から掻き集めて下さってるんだぞ、こいつらの——」酒の器でマルクスのいる方を示した。「実家に『ご子息をお預かりしております』と丁重に脅……お手紙を送ったり、兵を出さん国に供出金を強請……掛け合ったり」
愚痴と自負が混ざり合った口調だった。教団が裂け目の最前線で戦い、騎士団がその後方で兵站を整える。どちらも手一杯だから互いを必要としている。
「北西の果ての裂け目なんてのもあったよな」酒を飲み干した男が、思い出したように言った。「変わった聖女が御座すらしいって。繋ぎの聖女とか——プラシダ様、だったか。噂じゃ見た目は儚げな娘さんで、それが背丈ほどの鉄槌を振り回すっていうんだから——教団ってのはやっぱり化け物の巣窟だな」
「教団には女の人もいるのに、こっちの城には一人もいないんですね」若い兵がぼやいた。
「前線じゃ教団と混成だから性別もへったくれもない。ただ城と港は軍事区域だからな。風紀維持の規則で女人禁制だ」
「なんでですかね」
「昔からそうなってる。理由は知らん。上の決めたことだ」男は杯を傾けて笑った。「お陰で変……辺境騎士団の名に磨きがかかってるがな」
酒席の話題が移った。
「——そういえば、あれだ。ヴェルデンの学院から送られてきた侯爵家の嫡男、覚えてるか? 婚約破棄で思い出したが、騒いでた奴がいたよな」
フェルンの手が止まった。
「ああ、金の巻き毛のな。届いた時は泣き喚いてたが、前線に出されてからは割と根性あったんだ。死んだがな、ありゃ運が悪かった」
男の声は、秋の落ち葉を踏むような乾いた調子だった。
「先月の輸送路で、朽鎧兵の群れに。墓はもう立ててる」
酒を呷って、それきりだった。学院で笑い話の種にされていた男は、もう「あの男」としか呼ばれない。名前すら出なかった。
フェルンの手の中で、匙が冷たかった。
——あの上級生は、ここで死んだ。
学院で噂を聞いた時は遠い出来事だった。だが彼は——本当にここに来て、本当に前線に出て、本当に死んだのだ。
別の兵が声を上げた。噂話は淀みなく続いていく。
「——そういえば聞いたか。先週の補給船で届いた知らせだが、蝕陽派の最後の家が潰れたらしいぞ」
「王兄を殺した奴等だ。最後に残ってた家の当主が、先月ついに発狂したとさ。これで蝕陽派は全滅だ」
「暗殺者たちも全員が数年のうちに不審死だったな。一人残らず。宮廷じゃ『あの子に手を出せば蝕陽派の二の舞になる』って迷信がまだ残ってるらしい」
若い兵が身を乗り出した。
「殿下って——やっぱり怖い方なんですか?」
「怖いかどうかは知らん。だが殿下の目はな」男が声を落とした。「色が変わるんだ。あの目だけは慣れん」
男がふと口を噤んだ。笑って酒を呷った。
「いや、なんでもない。辺境の酒の肴だよ」
向かいのマルクスは、自国の政局に関心がなさそうだった。飯を食い終わり、空のどんぶりを卓に置いて一言。
「どうでもいい」
同感だった——この時のフェルンにとっては。
*
午後の訓練の合間に、フェルンは懐の小袋に手を伸ばした。
封霊晶。小袋の革紐を解いて中を覗き込んだ。一つだけ残った結晶がかすかに翠色の光を帯びている。三週間前には二つあった。入団初日の夜、瘴気の匂いで眠れない時に一つを握りしめ、無意識に精霊力を引き出してしまったらしい。朝になったら結晶の中の翠の光が消えていた。使い切った封霊晶はただの石ころだ。
——あと一つ。
辺境では補充する術がない。補給隊に頼んでも「管轄外だ」と断られた。
訓練場の柵に背を預けて休んでいると、通りかかった年嵩の兵が、フェルンの手の中の結晶を見て足を止めた。
「封霊晶か。翠波騎士団の標準品だな」
「はい。あと一つしかなくて……」
「そんなもんに頼ってたら危ないぞ」
男の口調には嘲りがなかった。事実を告げる、乾いた親切さだ。
「ここじゃ精霊魔法なんぞ当てにならん。瘴気帯に入った途端に精霊が逃げ出すからな。お前が聖句の方を使えるなら、そっちを磨け」
「浄化の聖句なら、少しだけ」
「少しで十分だ。ここじゃ少しが命を分ける」
男はそれだけ言って、また訓練場の奥へ歩いていった。
封霊晶を小袋に戻した。革紐をきつく結び直す。最後の一つだ。
——大事に使えば、何とかなる。
三週間前にも同じことを思ったが、今はその「何とか」の心許なさが、少しだけ具体的に分かるようになっていた。
*
夕方、ファビウス副団長から「書架の帳簿を団長室に届けろ」と命じられた。
「帳簿二冊。書架の上から三段目の右端。団長室は三階の突き当たりだ。扉の前に置いて帰れ」——それだけだ。ファビウスの命令は常に一度で完結する。
革表紙の帳簿を二冊、両手に抱えて三階に上がる。階段は螺旋で、石段の角が長年の往来で削れて丸くなっている。三階はあまり人が通らないのだろう。足元の砂利が掃かれていない。
廊下の突き当たりに、素っ気ない扉があった。副団長室の扉には紋章が彫り込まれていたが、この扉には鉄の取手が一つ付いているだけだ。
扉は半分開いていた。
声をかけようとして——室内が目に入った。
夥しい数の蔵書だった。
壁面の書架は天井まで達し、隙間なく背表紙が詰め込まれている。それだけではない。床にも窓枠にも、書物と地図と図版が積み上がっていた。紙と古い革と乾いた埃の匂いが混ざり合っている。無秩序に見えて、しかし崩れてはいない。積み上げ方に法則のようなものが感じられた。高い山と低い山が交互に配置され、扉から奥の窓際まで通路が確保されている。
通路の先に細長い窓があり、窓の前に古い木の机と椅子が据えてある。壁の片隅には暖炉があり、火は入っていない。壁面以外にも書架はいくつか——どれだけの書物があるのだろう。
だが——
フェルンの目は、そこにないものを見つけた。
羊皮紙がない。
書物を堆く積み上げるほどの知識欲があるなら、覚え書きくらいは残すだろう。しかし室内には、覚え書き用の羊皮紙が一枚もなかった。墨壺もない。筆の一本も見当たらなかった。
——読むだけで、何も書かないんだな。
変わった部屋だ。そう思った程度で、フェルンは帳簿を扉の前の作業台に置いた。
帳簿を下ろして背筋を伸ばした時、背後から声がした。
「お届け物です」
振り返ると、小柄な男が立っていた。茶色の髪を刈り込んだ、目立たない風貌の男だった。灰色がかった茶色の目が穏やかで、表情に角がない。手に布包みを持っている。近づいてきた足音を、フェルンは聞いていなかった。
男は軽く会釈をして、帳簿の横に布包みを置いた。湯気のようなものがかすかに漏れて、煮込みの匂いがほのかに鼻を掠めた。
「孤児院の世話役のシルスです。院からの届け物で」
名乗りは簡潔だった。それ以上は何も言わず、シルスは来た道を戻っていった。足音がほとんどない。人混みに紛れても気づかれない類の気配だ。
後ろ姿を見送っていると、階段の下からガルスが上がってきた。
「孤児院の方が、ここに来るんですか?」
「そこそこな」
ガルスはそれ以上何も言わなかった。しかし三階の廊下を歩くガルスの足取りには迷いがなかった。何度も来ている者の足取りだった。
フェルンは帳簿の件をガルスに告げ、三階の廊下を後にした。
堆く積まれた書物と、羊皮紙のない部屋のことは——頭の隅に置いたまま、忘れた。
*
夜、城壁の上に出た。
非番の夜、兵舎で眠れない時に城壁を歩く癖がついていた。暮光城の城壁は分厚く、頂部には人が歩ける幅がある。内側には砦の明かりが所々に点り、外側には——瘴気帯の闇が広がっている。
地平線がない。空と地面の境目が分からないほど深い闇だ。月が出ていても、その光は瘴気に食われて拡散し、星のない曇り空に見える。時折、遠くで何かが明滅する。瘴気の揺らぎだ。音はない。匂いだけが風に乗って壁を越えてくる。三週間前は吐きそうになったが、今は鼻が慣れ始めている。慣れたことが少しだけ恐ろしかった。
城壁の角で、見張りに立っていたガルスがいた。槍を立て、外の闇を向いている。フェルンが近づくと、視線だけが動いた。
「眠れんのか」
「……少し」
「慣れる。半年もすれば瘴気の匂いが子守唄になる」
「嫌な子守唄ですね」
ガルスが口の端で笑った。
しばらく黙って、二人で外の闇を見た。風が壁面を撫でるたびに、城壁の縁に積もった砂利がかさかさと擦れる音を立てた。
ガルスが不意に、闇の先を顎で示した。
「あの海を越えたずっと先に、教団の修道院がある。裂け目のすぐ傍だ。ここの瘴気は、あちらに比べれば薄い」
食堂で聞いた話が頭を過った。先月、朽鎧兵の群れの中に消えた男。——放逐された上級生と同じ星の下に、今の自分はいる。
学院では変……辺境騎士団と笑っていた。確かに変だった。門番は欠伸をしている。あのマルクスが毎朝教官に噛みつく——と思ったら若い兵を庇って構えを崩していた。飯の前に全員で聖句を唱える声は重い。名ばかり団長の部屋には羊皮紙がない。孤児院の世話役が「お届け物です」とやってくる。笑い話の種にされた侯爵家の嫡男は、もう墓の下だ。
変だ。確かに変な場所だ。
——でも何かが、この場所には確かにある。
ガルスが瘴気帯の闇を向いたまま、ぽつりと言った。
「明日も面白い日になるぞ」
「面白いというのが副団長の鉄拳のことなら、遠慮します」
ガルスが笑った。低く、短く。
瘴気の風が壁を越えて、二人の間を通り過ぎていった。腰の小袋の中で、最後の封霊晶がかすかに脈打っている。
ふと小袋の紐を解き、結晶を取り出した。城壁の縁に据えた松明の火に翳してみる。炎を透かして、淡い脈動を返した。まだ呼吸している。
その奥に——一瞬だけ、格子のような線が走って見えた。
翠光の内側に、細い筋が幾重にも交差して——瞬きをした。消えた。結晶の表面に松明の揺らぎが映り込んでいただけだろう。森人の血を引く者は目が利く。父はそう言っていた。暗がりでは余計なものまで拾ってしまうのだと。
気のせいだ。壁の上は風が冷たい。
——ただ。父が言っていたのは、暗がりで影が揺れて見えるとか、気配に敏くなるとか、そういう話だったはずだ。格子のような線が走る——とは、一度も聞いたことがない。
結晶を小袋に戻し、革紐をきつく結び直した。
——結晶を失っても、ここには聖句がある。
まだ軽い声だ。百人の男たちの重みには遠く及ばない。それでも——今日、初めて唱えた聖句の震えが、まだ唇の内側に残っていた。
城壁を降りて兵舎に戻る。薄い藁の寝台に横たわると、石壁の冷たさが毛布ごと背中を抱いた。
目を閉じた。聖句の残響が、暗闇の中でかすかに震えている。




