第八話 黄昏の合理
フェルンの悪い癖だった。気になったことを訊かずにはいられない。相手が誰であろうと——尋ねずに済ませることができない。
あれはファビウスがとある前線視察から戻った数日後のことだった。喉元に刃を当てられた少年が、刷り込まれた教義を気怠く諳んじた光景が——頭から離れなかったのだ。「望まれない王族です」——あの空疎な暗唱が。
書架を整理しながら、フェルンはとうとう口にした。
「……殿下は、それで——大丈夫なのですか」
何が「大丈夫」なのか、自分でも整理できていなかった。大丈夫でなくても、どうしようもない。ヴェスペルの境遇を変える力はフェルンにはない。だがアルカディア王国の政争とは無縁のヴェルデン連合王国の人間だからこそ——忖度のない問いが口をついて出た。アルカディアの者であれば声にすることすら憚られる問いだ。ファビウスも、ガルスも——この砦で少年の傍にいる者たちは誰一人、この問いを口にはできない。
少年は本から顔を上げもしなかった。
「別にどうでもいい」
いつもの声だった。「好きにすれば」と同じ温度の、感情を一切含まない平叙文。天気を答えるのと同じ——いや、天気よりもなお軽い調子で、自分の境遇の全てを処理した。
皮肉もなかった。自嘲もなかった。悲壮感も、諦めも、怒りもなかった。
あの刷り込みの言葉を何年も繰り返されてきた少年が、自分の境遇に対して何の感慨も抱いていない。恨んでもいない。諦めてすらいない。諦めるためには、まず何かを望まなければならないからだ。
——本当に、どうでもいいのだ。
この少年には——望むという行為そのものが、最初から欠落しているかのように見えた。
*
フェルンがそれに気づいたのは、偶然といえばその通りであった。
あの日——ヴェスペルを「化け物だ」と確信してから、もう何度目かの朝が過ぎていた。暮光城は霧に沈んでいた。瘴気帯から流れ込む冷たい霧が石壁を濡らし、足元の石畳が湿って黒ずんでいる。
月の満ち欠けは魔物の活性化に影響する。昏い夜の続くこの頃、東端では前線の哨戒班が二つ増設され、兵站の再編が急がれている。ファビウスは砦内の「掃除」——十日にわたって続いた、いらない耳を追い出す作業——を終えた直後に、自ら隊を率いて東端の哨戒拠点に赴いており、暮光城を留守にしていた。「書類が溜まる。お前が整理しておけ」——出立の前日、執務室の鍵とともに素っ気なく言い置いて去った。
フェルンは今日も執務室の扉を開け、書類整理に取りかかった。
副団長の執務室は、紙の砦と呼ぶべき場所だった。石壁に沿って木棚が並び、羊皮紙の束が年月ごとに詰め込まれている。天井にまで、墨と古い紙の匂いが澱んでいた。ヴェスペルの団長室には紙が一枚もないのに、扉一枚隔てたこちらには洪水のように溢れている。歪んだ対称だ、とフェルンはいつも思う。
半年分の補給采配記録を年月順に並べ替えていた。兵糧の発注、装具の修繕依頼、人員の配置転換——それらを古い順に束ねて紐で括る、単純な作業だった。窓のない部屋で、卓上の灯火だけが頼りだ。炎の揺れに合わせて紙の上の文字が微かに踊る。
その手が止まったのは、三束目を広げた時であった。
補給の発注日と、ファビウスが人事決定に署名した日付が——逆になっている。
最初は写し間違いだろうと思った。だが二枚目も同じだった。三枚目も。秋口の前線再編——ファビウスが第三哨戒班の人員を差し替えた決定書には「夕暮月の十二日」とある。だがその差し替えに伴う補給物資の移送命令書は「夕暮月の九日」の日付で、三日も前に発行されていた。
人を動かすより先に、荷が動いている。
まだ決まっていないはずの人事に合わせて、物資だけが先行して動いている。
フェルンは灯火の下に書類を広げ直した。棚の奥から別の年度の記録を引き抜き、重ねた。冬季の兵站圧縮。春の増哨。夏の備蓄。秋の巡回路変更——どの案件も同じだった。ファビウスが決定したはずの日付より前に、物資だけが動いている。一枚ごとに、呼吸が浅くなった。
発注元の欄には「ネルヴァ」の名が並ぶ。だがネルヴァに独断の権限はない。「好きにすれば」——気怠い声が、紙の上の文字と重なった。紙には残らない命令。殿下の署名のない采配で、物が動く。
手が止まらなかった。棚の隅から、徴発対象者の調書を引き抜いた。
三年分を並べると、息が詰まった。「屑の美男」——素行不良で退学処分を受けた門閥の子弟たち。だが調書を読めば、一人として無能な者がいない。全員が剣術か魔法の実技で水準を大きく上回っている。教官から「惜しい」と記された者だけが、辺境に送り込まれている。
粒が揃いすぎている。
さらに遡った。前任副団長の時代——ファビウスが着任する以前の記録にも、同じ法則が這っていた。副団長が替わっても、日付の逆転は変わらない。「使える屑」の選定精度も変わらない。
フェルンの指先が震えた。紐を結び損ね、書類の束が卓上に崩れた。
七年分の紙が語る事実は単純だった。副団長が誰であろうと——この構図は動かない。紙の一枚も持たない団長室から、全てが動いている。
ファビウスの横顔が目の裏を過った。短刀の背で喉元を撫でるような諫言。あの男の目——ヴェスペルの横顔を見つめていた、あの複雑な目。侮蔑ではなかった。あれは——
蝋燭の炎が揺れ、崩れた書類の山に影が走った。フェルンは束を拾い直し、震える指で紐を結んだ。
扉の向こうは、静かだった。
*
団長室に戻った時、ヴェスペルはやはり本を読んでいた。
半分閉じた灰銀の瞳が頁を追っている。長い黒髪が頬にかかり、着崩した部屋着から覗く鎖骨は細い。だがフェルンの目に映るのは、もはや怠惰な少年の姿ではなかった。盤面を統べる王者の横顔だった。
書類を所定の棚に戻す。指先が震えた。
ファビウスの野心。マルクスの腕と、実家に見放された孤立。ガルスの、不自然なほど的確な状況把握。
——俺。
他国出身。ファビウスの監視網の外。聖別を直せる力。そして——人を見捨てられない性格。
「直せるでしょ?」
あの軽すぎる一言が脳裏を過った瞬間、全てが一つの線になった。喉の奥を灼いた虚蔵の淀み——あれを平然と押しつけてきた時、この少年は俺が直せると知っていた。
棚に置いた手が、木目を掴んだ。息が詰まる。
——全部だ。最初から、盤上にあった。
声にはならなかった。頁をめくる乾いた音だけが団長室に落ちている。ヴェスペルの方を見た。灰銀の瞳には、微塵の揺らぎもない。フェルンが何を悟ろうと、あの少年の世界は何一つ変わらない。
化け物だ。
監視者の短刀が頸を撫でた時にすら微動だにしなかった少年。あの無反応が——人の座標ではないことの、何よりの証だった。
フェルンはその場に腰を下ろした。膝が笑って、立っていられなかった。壁に背をつけ、膝を抱える。灯火は静かに燃えている。頁をめくる乾いた音だけが、一定の間隔で繰り返される。
その音を聞きながら、フェルンは動けなかった。
*
深夜に戻ったのは、置き忘れた書類の束があったからだった。
兵舎で横になっても眠れなかった。暗い天井に、あの日付の逆転が何度も浮かぶ。——計算されていた。俺のこの性格まで。それでも明朝までに棚へ戻すべき書類がある。結局、夜半を過ぎてから寝台を抜け出した。
廊下の灯火は半分が落とされていた。石壁が闇に沈み、自分の足音だけが低く反響する。吐く息が白い。
団長室の前で足を止めた。扉の隙間から灯火の光が漏れている。
まだ起きているのか——
扉を叩いた。返事がない。もう一度叩いて、やはり何も聞こえず、静かに扉を押し開けた。
灯火は机の上でとろとろと燃えていた。蝋が随分と短くなっている。蝋涙が台座から溢れかけ、黄ばんだ光が揺れるたびに壁の影が伸び縮みする。その灯りの下で——
ヴェスペルが、机に突っ伏していた。
暖炉の火は既に落ちている。冷えた空気の中に、蝋の溶ける甘い匂いと古い書物の匂いが混じっている。奥の布幕の向こうには整えられた寝台があるはずだった。敷布が掛けられ、毛布が畳まれた、誰も使っていない寝台が。——この少年は、すぐそこに寝台がありながら、机の上で潰れている。
本を開いたまま、腕の上に顔を伏せて眠っている。黒い髪が机の上にさらりと流れ、開いた本の頁にかかっていた。
このような姿を見るのは初めてだった。何事にも関心を見せず、世界のどこにも属していないかのように振る舞う少年が——完全に意識を手放している。寝息すら聞こえない。肩の微かな上下だけが、眠っていることの証だった。
そっと近づいた。灯火が揺れ、ヴェスペルの横顔を照らした。
息が詰まった。
頬が削げている。三日前に書類を届けた時よりも——さらに。元から華奢だった顎の線が骨の形をそのまま浮き彫りにし、目の下の隈が深い影を落としている。眉のひとつも動かさない気怠げな仮面が外れた顔は、あまりにも幼かった。
室内着の袖から覗く手首は、片手で容易く折れそうなほど細い。筆だこはない。仕事をしない手だ。白い指は開いた本の頁に触れたまま力を失って垂れている。
——紙に書かず。誰にも言わず。証拠も残さず。ただその頭ひとつで。
ファビウスの署名の三日前に、物資が動いていた。その指示は書類上のどこにもない。ガルスが訪ね、シルスが訪ね、ネルヴァが訪ねる。彼らが持ち帰る情報だけで——次の一手が、組み上げられていく。
フェルンの視線が、少年の肩甲骨の微かな起伏に落ちた。浅く、不規則な呼吸。——いつからだ。今日からではない。昨日からでもない。
全てを、その頭ひとつで。
——たった一人で。
フェルンの中で、何かが静かに崩れた。音もなく、熱もなく——ただ、今までそこにあったものが形を失っていく。怒りでも悲しみでもない。もっと深い場所で——何かの枠が外れた。
ヴェスペルが微かに身じろぎした。眉が寄る。苦しそうに——何かを見ているのか。
蝋燭の火が揺れた。芯が短くなり、蝋が机の上に溢れかけている。
フェルンは棚から予備の蝋燭を探した。書物の裏に一本だけ残っていた。埃を拭い、台座に立てた。古い蝋燭から火を移し、古い方を退けた。新しい光がヴェスペルの横顔を照らした。少年は微かに瞼を動かしたが、目を覚まさなかった。
新しい灯りの下で少年の顔を見つめていた時——それが見えた。
網だ。
少年の周囲から精密な糸が放射状に伸びている。壁を透かし、廊下を越え、砦の隅々にまで届く巨大な蜘蛛の巣。一月前に一瞬だけ見えた少年の輪郭の二重写しとは違う。今は糸の一本一本に輪郭がある。
比喩ではなかった。本当に、網のようなものが見えている。
三つ、四つと数える間——消えなかった。
その網の中心に、灯りがあった。蝋燭の炎ではない。少年の体の奥から、弱く不安定な光が滲んでいる。あの巨大な網を一身に支えているはずの灯りが——さっき台座から退けた、あの燃え尽きかけの蝋と同じだった。
封霊晶の格子。大剣の糸。砦の網。少年の空白。——この半年で、見えるものが確かに増えている。
森人の目——マルクスの祖母の言い伝え。だが父も母も、こんなものが見えるとは一度も言わなかった。
——なぜ俺にだけ見えるのか。
答えは出なかった。瞬きとともに知覚が薄れていく。網が溶け、灯りが消え、目の前にはただ——机に突っ伏した少年がいるだけだった。頬の削げた、腕の細い、少年。
——誰もこの網の中心を見ていない。
フェルンの手が止まった。
見てしまった以上、知らなかった頃には戻れない。
毛布がどこかにあったはずだ。
棚の隅から畳まれた薄い毛布を引き出した。使った形跡がほとんどない。フェルンはそれをヴェスペルの肩にかけた。風に揺れる灯火を覆うように、丁寧に。華奢な肩に指が触れそうになって、寸前で引いた。起こしたくなかった。
暖炉の前にしゃがみ、残っていた薪を組んだ。火打ち石を打つ。二度、三度。乾いた音が静かな部屋に響き、やがて小さな炎が薪の端を舐めた。
立ち上がって振り返ると、毛布の下でヴェスペルの肩がわずかに緩んでいた。
蝋燭の新しい灯りと、暖炉の低い炎。二つの光が少年の寝顔を照らしている。
フェルンは書類の束を棚に戻し、音を立てずに扉を引いた。
*
廊下に出た。
扉を静かに閉めて、石壁に背中を預けた。深く息を吐いた。遠くで夜番の兵の靴音が響き、また遠ざかった。
廊下の先、角を曲がったところに小さな窓がある。窓の向こうは暮光城の中庭だ。月は見えない。瘴気帯の霧が中庭の石畳を覆い、建物の輪郭すら朧だった。この砦の中で、多くの兵が眠っている。明日も前線に出て、瘴気に蝕まれた大地を踏む者たちだ。その全員の命が——あの部屋で突っ伏している少年の、磨り減った頭ひとつの上に載っている。
あのガルスの目を思い出す。あの異常なまでの崇拝——今夜ほど、近い距離で頷けたことはなかった。
瞼の裏に、さっき見た光景がまだ焼きついていた。机に突っ伏した細い背中。骨の浮いた手首。燃え尽きかけの蝋燭が最後の光を投げかけていた、あの横顔。
——駒で構わない。
最初から計算されていて構わない。全てが盤の上に載せられていたことなど、もう分かっている。あの冷えた部屋で、あの細い指が一本一本、糸を張っていたのだ。
だが、あの蝋燭を見た。あの寝顔を見た。
それで十分だった。
本物の騎士になりたかった。それは今も変わらない。だが温室で思い描いていたものとは違う。英雄譚にはならない。誰にも知られず、誰にも語らない。そういう類のものだった。
あの少年の張り巡らせた網の目の一つになる。それが切れないように支える。——俺はそれを、自分の意志で選ぶ。計算の中にあったとしても、選ぶという行為だけは俺のものだ。
フェルンは壁から背を離した。膝はもう笑っていなかった。暮光城の夜気が頬を叩いたが、寒くはなかった。胸の奥に、静かで重いものが座っている。高揚ではない。ただ——確かなものだった。
*
廊下を歩き出した。足音を殺す。あの少年を起こしたくなかった。
階段の手前で——廊下の奥から足音が聞こえた。重くはない。だが一歩ごとの着地が均等で、揺れない。この歩き方を知っている。
暗がりから現れたのは、ガルスだった。
深く静かな双眸がフェルンを捉え、次いで背後の団長室の扉へと移った。扉の向こうの気配を確かめるように、首がわずかに傾いだ。
「……火は」
低い声だった。問いかけではなかった。確認だった。——毎晩、この問いを自分自身に課してきた者の声だった。
「入れました。蝋燭も替えて、毛布も」
ガルスの口元が——ほんの一瞬だけ、緩んだ。笑みというには淡く、笑みというには——重かった。
フェルンが今夜初めて見たもの——削げた頬、深い隈、毛布も掛けずに机に突っ伏した少年の姿——を、この男はずっと前から知っているのだ。先月、シルスと廊下で短く言葉を交わしていた時の横顔が浮かんだ。同じ孤児院の出身だったのだと、あの時に知った。養い親の騎士を前線で亡くして行き場を失い、殿下が始めたばかりのあの孤児院に引き取られたのだと。居場所を失った少年に居場所を与えたのが——あの部屋で眠り込んでいる少年だった。
この男もまた——毎晩のように蝋燭を替え、毛布をかけていたのではないか。誰にも言わず。誰にも語らず。
「……そうか」
ガルスはそれだけ言った。扉の方をもう一度だけ見て——開けなかった。踵を返し、来た時と同じ足音で暗い廊下を戻っていった。
フェルンはその背中を見送った。
あの一瞬の笑みは——「お前もこちら側に来たか」という、言葉にしない承認だったのではないか。
今夜、この男はその役目を俺に預けたのだ。フェルンがやったことを聞いて、扉を開けずに帰った。ずっと前から、あの少年の傍で蝋燭を替え続けた男が——今夜、初めて、別の人間にそれを委ねた。
*
朝の訓練場に向かう途中で、マルクスが隣に来た。
「……お前、昨日から顔が変わったな」
金髪の大男が、浅黒い顔を横に向けてフェルンを見ている。青い目には遠慮も配慮もない。見たことをそのまま口にする、あの男らしい物言いだった。
「そうか?」
「ああ。何だそれ。腹でも下したか」
「……いや」
フェルンは少し間を置いた。朝日が石壁の上端を白く染め始めている。
「決めたことがある」
マルクスは足を止めなかった。前を向いたまま、短い沈黙があった。
「……そうか」
それ以上は訊かなかった。問わないことがこの男の信頼の形だと、フェルンはもう知っている。戦場で死線を潜り抜けた日から、マルクスは一度もフェルンの内面を問い質したことがない。フェルンもまた、この男の過去を訊いたことがない。それが二人の間合いだった。
訓練場が見えた。素振りの掛け声と教官の怒号と、誰かが水桶を倒して怒鳴られる声が聞こえた。暮光城の一日が始まる音だ。
「まあ、死ぬなよ」
マルクスが言った。声は素っ気なかった。だがこの男の「死ぬなよ」は、別の人間の「気をつけて」より余程重い。
「お前も」
二人は歩く。変わらない朝だった。瘴気帯の向こうから冷たい風が吹き、暮光城の旗が鳴っている。辺境の空は今日も低い。剣を振る兵たちの影が朝日の中で動いている。フェルンもまた——自らがその盤の上にあることを知っている。
その重い空の下で——フェルンは、自分の足が地面をしっかり踏んでいることを感じていた。
終
お読み頂きありがとうございました。
いちおう世界は多分、悪役令嬢とかが救う予定です。前回よりコメディ感出せましたかね。
そちらの方でおいおい男主人公に生えた能力の正体にも触れられるといいなあ。




