第37話 賢者サマはハグされたい
わたしの笑い声に、アズールがピクリと反応した。
彼はふらりと身体を回し、わたしを見つめた。
その瞳は、甘く蕩けた蜂蜜のように潤んでいる。
「……ミリアさん。あなたもですよ」
「えっ、わたし?」
アズールはふらふらと歩み寄ると、わたしの目の前で立ち止まり、切なげに眉を寄せた。
「あなたは……無防備すぎます。ご自覚がないのですか?」
「む、無防備って……」
「あなたが笑いかけるたびに、ボクの思考がどれほどショートしそうになっているか……。その笑顔は、ボクの理性を削り取る、最も凶悪で、美しい兵器です」
アズールはそのまま崩れ落ちるように膝をつき、わたしの腰にギュッと抱きついた。
「きゃっ、アズール?」
彼はわたしの腰に頬を擦り寄せながら、熱っぽい吐息を吐き出した。
「ああ……ミリアさん。あなたはボクの夜空に浮かぶ、唯一の星だ。あなたの重力が、ボクを離してくれない。……このまま、永遠にあなたに囚われていたい……」
「ちょ、ちょっとアズール?くすぐったいわよ」
「いい匂いです……。陽を受けて咲き誇る花のような……ボクを狂わせる香り……」
普段の彼からは想像もつかない、詩的で情熱的な口説き文句。
腰にスリスリと頬擦りする彼の顔は、とろけきっている。
そのあまりの変貌ぶりに、わたしが戸惑っていると。
「おい、離れろ色ボケ賢者!」
ブレイズが大声と共にアズールの襟首を掴んで、わたしから引き剥がす。
「……あにうえ」
引き剥がされたアズールは、虚ろな目で宙を彷徨い、そして目の前に立つブレイズの姿を認めると――。
「……兄上も」
アズールは両手を広げ、幼児のように求め始めた。
「兄上も……ギューって、してください」
「はあ!?てめぇ、気持ち悪りぃぞ!」
ブレイズがたじろぐが、アズールはお構いなしに兄の太い胴体に抱きついた。
ブレイズが驚愕で固まる中、アズールは兄の胸板に顔を埋め、グリグリと頭を押し付けた。
「ああ、兄上。あなたのこの温もり……。懐かしいです……」
「お、おいアズール。お前、マジで酔いすぎだろ……」
ブレイズは困惑して両手を彷徨わせているが、アズールはお構いなしに兄の温もりを貪っている。
そして消え入りそうな声で呟いた。
「……ボクは、ずっとあなたのことが大好きだったんですよ、兄上。誰よりも強くて、誰よりも優しくて、いつもボクの前を、太陽みたいに輝きながら歩いていた、ボクだけの英雄。……なのに」
アズールは、ブレイズの服を強く握りしめた。
「なのに、あなたは行ってしまった。ボクを置いて。あの冷たい、広い家に一人残して。……寂しかった。本当に、寂しかったんですよ……」
積年の想いを吐き出すようにそう呟くと、アズールの身体から力が抜けた。
そのままブレイズにもたれかかり、静かな寝息を立て始める。
完全に、限界が来たようだ。
食堂に、静寂が落ちる。
ブレイズは、自分の胸に寄りかかって眠る弟を、呆然と支えていた。
やがて、彼はため息交じりに、その大きな手でアズールの頭を、わしゃわしゃとぶっきらぼうに撫でた。
「……悪かったな」
その呟きは、あまりに小さく、眠る彼には届かなかったかもしれない。
けれど、それは確かに、ブレイズが初めて見せた、兄としての懺悔だった。
◇
「……う、うぅ……頭が……割れる……」
宿屋の一室で、アズールが死にそうな顔をしてベッドの上でのたうち回っていた。
顔色は青白く、その美貌は苦悶に歪んでいる。
完全に二日酔いだ。
「おはよう、アズール。……大丈夫?」
わたしが声をかけると、彼はビクッと身体を震わせ、恐る恐る顔を上げた。
そして、昨夜の記憶がフラッシュバックしたのだろう。
彼の顔が、青白さから一転して真っ赤に染まった。
「あ、あああ……ボクは、なんということを……!」
彼は頭を抱え、シーツに顔を埋めて悶絶した。
「ふふ。とっても可愛かったわよ?」
わたしはクスクス笑いながら、湯気の立つオニオンスープを差し出した。
「はい、これ飲んで。二日酔いに効くわよ。……いつもあれくらい素直になればいいのに」
「……忘れてください。一生のお願いです」
アズールが涙目でスープを受け取る。
そこへ、部屋の扉が乱暴に開かれた。
ブレイズだ。彼は冷たい水で絞ったタオルを無造作に投げ渡した。
「ほらよ。さっさと顔洗って酔い覚ましな」
「……兄さん」
タオルを受け取ったアズールは、バツが悪そうに視線を逸らす。
ブレイズは、そんな弟の頭をポンと軽く叩いた。
「安心しろ。もう置いていかねえよ」
「……ッ」
アズールが目を見開く。
ブレイズはニカっと笑うと、「準備ができたら出発だぞ」と言い残して部屋を出て行った。
残されたアズールは、タオルを顔に押し当て、しばらく動かなかった。
「……まったく。勝手な人だ」
タオル越しに聞こえた声は、呆れているようで、けれどどこか嬉しそうに弾んでいた。




