第35話 賢者の流儀
村を、二つの影が疾走する。
広場の木箱を飛び越え、建物の角を滑るように曲がる。
背後で「バシュッ!」と雪玉が壁に激突し、粉々に砕け散る音がした。
心臓が早鐘を打っている。肺が冷たい空気で満たされ、吐く息が真っ白に染まる。
こんなに全速力で走り回ったのはいつぶりだろう。
命のやり取りではない、ただの純粋な「遊び」。
それがこんなにも楽しいなんて。
「ふふっ、こっちよ!」
わたしは路地裏の狭い道を抜け、障害物を巧みに利用してブレイズの視界から消えた。
そのまま大回りで食堂のテラスへと戻り、息を切らせて滑り込む。
「はぁ、はぁ……!さすがに、しつこいわね……」
息を切らせてテラスに戻ると、そこには変わらず優雅に紅茶を啜るアズールの姿があった。
「お疲れ様です、ミリアさん。随分と楽しそうですね」
その表情を見て、わたしは思わず息を呑んだ。
いつもの冷徹な計算高さも、不機嫌なシニカルさもない。
穏やかで、どこか儚げな眼差し。
まるで、愛おしくてたまらない宝物を、壊さないように遠くから見守るような……そんな、泣きたくなるほど優しい顔。
「……アズール?」
わたしは乱れた髪を手櫛で直しながら、彼の顔を覗き込む。
「なんだか、すごく珍しい顔をしているわよ。何かいいことでもあった?」
「……珍しい顔、ですか」
わたしが覗き込むと、アズールは少し狼狽えて視線を逸らした。
「……自覚はありませんでしたが、そうかもしれませんね」
そして、照れ隠しのようにカップを両手で包み込む。
「不思議なものです。以前のボクなら、このような非生産的な時間の浪費など、唾棄すべき愚行だと切り捨てていたでしょう」
彼は広場の向こう、未だわたしを探してキョロキョロしているブレイズの姿に目を向け、静かに言葉を紡いだ。
そして再びわたしを見つめた。その蒼い瞳が、揺れる水面のように光っている。
「ですが、今は……。あなたたちが笑い合っているこの『騒音』が、どうしようもなく心地よい」
論理や効率を超えた、彼の本音。
アズールは、困ったように眉を下げて、わたしを見た。
「これが、『満たされる』ということなのでしょうか。……あなたと兄さんが笑っているだけで、世界が正しい形に収まっているような……この光景を守れるなら、世界を敵に回しても構わないとさえ思えるのです」
その言葉は、どんな愛の言葉よりも深く、わたしの胸に染み渡った。
自分の感情の変化に戸惑いながらも、それを素直に言葉にしようとする彼が、たまらなく愛おしい。
「アズール……」
わたしが胸を打たれ、何か返そうと口を開きかけた、その時だった。
「見つけたぞオラァッ!!」
テラスの外、雪玉を振りかぶったブレイズの姿が視界に飛び込んできた。
「油断大敵だッ!喰らえェェッ!!」
豪速球が放たれる。
回避は間に合わない。
わたしの頭脳が瞬時に弾き出した最適解は――。
「――ごめんなさい、アズール!」
わたしは目の前にいたアズールの襟首を掴むと、力いっぱい自分の方へ引き寄せ――そして、くるりと位置を入れ替えた。
「え?」
アズールの素っ頓狂な声。
直後。
ベシャァッ!!!!
鈍い水音が響く。
「…………」
時が止まった。
ブレイズが渾身の力を込めて投げた、一抱えほどの巨大な雪玉。
それが、アズールの美しい顔面に、寸分の狂いもなく直撃していた。
顔面を覆い尽くす白い雪。
整えられた金髪にも、雪の破片がベッタリと張り付いている。
「ぶっ……!ギャハハハハハ!!」
広場の向こうから、ブレイズの爆笑が轟いた。
「おいミリア!テメェ、インテリ野郎を盾にしやがったな!?ひーっ、傑作だぜ!最高の盾使いだな!」
「ふふっ、あはははは!ごめんなさい、アズール!身体が勝手に!」
わたしも笑いが止まらない。
あまりにも綺麗なヒットだった。
アズールは無言だった。
怒鳴るでもなく、嘆くでもなく。
ただ静かに、優雅な手つきで顔面の雪を拭い去る。
露わになったその表情は、能面のように無表情だった。
そして、その瞳からスッ……とハイライトが消える。
「……なるほど。兄さんはボクへの投擲攻撃、ミリアさんはボクを遮蔽物として利用……と」
アズールは立てかけてあった、愛用の杖『蒼天詠み(スカイゲイザー)』を手に取った。
「これが、あなた方の『遊び』の流儀なのですね。……ならば」
杖の先端が、キィンと高い音を立てて輝く。
彼が杖を一振りすると、周囲の積雪がふわりと舞い上がった。
そして、それらが空中で凝縮され、無数の――百個近い雪玉へと変貌する。
「ボクも流儀に従いましょう。――最大火力で」
ブレイズの笑い声がピタリと止まった。
わたしの笑顔も引きつる。
「お、おい……?アズール?それはちょっと、大人げなくないか?」
「待ってアズール!盾にしたのは謝るから!ねっ!?」
アズールは、美しくも冷酷な笑みを浮かべて杖を振り下ろした。
「問答無用。……殲滅します」
「うわあああああああッ!!?」
「きゃああああああッ!!」
杖が振り下ろされると同時、無数の雪玉がマシンガンのように射出された。
もはや雪合戦ではない。一方的な蹂躙だ。
悲鳴を上げながら逃げ惑うわたしたちと、それを冷徹な笑顔で追撃するアズール。
村中を駆け回る騒がしい追いかけっこは、日が暮れるまで続いたのだった。




