第1話 白き闖入者1
静寂に包まれた空間には、古びた羊皮紙と乾いたインク、そして微かな埃の匂いが漂っていた。
帝立中央図書館、地下深くに位置する『禁書庫』。
アズールの賢者の権限を行使して入ったこの場所は、わたしのような古代遺物マニアにとっては、まさに聖域だ。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
書架に並ぶ背表紙の重厚な革の質感、そこに箔押しで刻まれたタイトル……ああ、なんて素敵なの。
ここに眠る知識の残滓が、わたしに語りかけてくるようだわ。
「あー、クソ。字ばっかりで目が滑る」
そんな神聖な空気をぶち壊す、野太い欠伸が隣から聞こえた。
「金獅子」ことブレイズ・クリフォード。
その碧眼には、退屈の色がありありと浮かんでいる。
「ミリア、少し休憩にしねえか?」
「まだ一時間しか経っていないのよ、ブレイズ。それに、『月の民』の手がかりはまだ何も……」
「へいへい。お前がそのしかめっ面をしてる間に、俺様はもっと実用的な『お宝』を見つけたぜ」
ブレイズはニヤリと笑うと、一冊の分厚い図録をテーブルに広げた。
それは古代の宝飾品や武具が記されたカタログのようだ。
彼のごつい指が、一つのネックレスを指し示す。
「見ろよ。この『鮮血の首飾り』。真ん中のデカいルビーが、ちょうどお前の髪色に似合いそうだろ?」
わたしはその挿絵に目を凝らした。
確かに、燃えるような赤色の宝石は見事な金細工で縁取られている。
……けれど。
「ブレイズ……これ、『装着者の血液を魔力に変換して爆発的な火力を生む』自爆特攻用の呪具よ」
「なんだ、ただの飾りじゃねえのか。じゃあこっちの『嘆きの黒曜石』はどうだ?防御力が上がりそうだが」
「それは死者を操る呪具。趣味が悪すぎるわ」
次々と凶悪な「プレゼント候補」を提示してくる彼に、わたしは呆れて首を振った。
けれど、退屈しのぎにわたしに似合うものを探してくれる、その気遣い自体は……まあ、悪くない気分ではある。
「相変わらず無教養な駄犬ですね。静かにしていられないなら、外で棒でも拾ってきてはどうです?」
向かいの席から、苛立ちを隠せない舌打ちが聞こえた。
「静謐の賢者」アズールだ。
彼はブレイズとは対照的に、凄まじい速度で数冊の文献を並行して読み進めている。
その整った眉が不機嫌に歪んでいる。
「どう?アズール。何か見つかった?」
「……ありません。記述が、あまりにも少なすぎる」
わたしは彼に歩み寄り、その肩にそっと手を置く。アズールの身体が一瞬強張り、すぐに安堵したように力が抜けるのがわかった。
彼が差し出した古い年代記には、不自然な空白や、インクで黒く塗り潰された箇所が散見された。
アズールはその黒い染みを睨みつける。
「『歴史は勝者によって作られる』とはよく言ったものです。……ですが」
アズールは悔しげに唇を噛んだ。
「『月の民』という単語は、五百年前の建国記の前後に数カ所、否定的な文脈で散見されるのみ。具体的に彼らがどのような文明を持っていたかについては、不自然なほど記述がありません」
その表情には、未知への渇望と、兄のように力で解決できないことへの焦りが滲んでいる。
彼の完璧主義な性格にとって、知りたい情報にアクセスできない現状は、拷問にも等しいストレスなのだろう。
わたしは彼の隣に座ると、手の甲にそっと自分の手を重ねた。
「焦らないで、アズール。あなたがこれだけ調べても見つからないなら、それは『ここにはない』という貴重な発見よ。あなたの知性は無駄になんてなっていないわ」
「ミリアさん……」
普段は冷徹な賢者の瞳が、わたしを映して微かに揺らぐ。その人間らしい反応が、たまらなく愛おしい。
「ありがとうございます。貴女の声を聞くと、思考のノイズが消えていくようだ」
わたしの体温が伝わると、彼の瞳から険しい光が消え、代わりに熱を帯びた、とろけるような色が宿る。
彼はわたしの手を裏返し、その手のひらに恭しく唇を寄せた。
「ふふ、上手いこと言っても何も出ないわよ?」
「何も要りません。ただ、もう少しこうして……あなたの近くで思考を整理させてください」
彼は甘えるようにわたしの肩に頭を預けてきた。
普段は冷徹な「静謐の賢者」が、わたしにだけ見せる無防備な姿。
その重みと、微かに震える吐息が、わたしの母性本能をくすぐる。
ブレイズの視線が突き刺さる気配を感じつつも、わたしはアズールの柔らかな金髪を指で梳いた。
「おい、陰険モヤシ。調べ物が終わらねえからって、どさくさに紛れてミリアにべたべた触ってんじゃねえぞ」
「黙りなさい、野蛮人。これは紳士的な感謝の表現です。あなたのように、手当たり次第に呪いの装備を贈りつけようとする無神経さとは違う」
「ああん?」
二人がいつものように子供じみた言い争いを始めようとした、その時だった。
――バンッ!!
静寂を愛する図書館にはあまりに不似合いな音が響いて、禁書庫の扉が開け放たれる。
「アズール様!!!」
キンキンと響く甲高い声と共に、純白のローブを翻した小柄な影が、嵐のように禁書庫へ飛び込んでくる。
アズールが目を見開いて硬直した。
「せ、セシリー!?な、なぜここに……!?」
現れたのは、アズールの一番弟子。
彼女は肩で息をしながら、獲物を見つけた肉食獣のような目でアズールを捕捉する。
「ふふ、ふふふ……アズール様が塔を抜け出して、図書館に向かわれたことなど、お見通しですわ!!」
彼女の大きな瞳は、アズールを見つけた歓喜に輝き――その直後、アズールと密着しているわたしを見て、氷点下の憎悪へと変わった。
その瞳から、ハイライトが消える。
「アズール様……?」
地獄の底から響くような低い声。
彼女は震える指で、わたしとアズールの密着した距離を指差した。
「なぜ、その女と、密着しておられるのですか?研究のためですか?尋問ですか?それとも……まさか、わたくしが留守を守っている間に、いかがわしいことをなさっていたのではございませんよね!?」
「ご、誤解だセシリー!これはあくまで、資料の解読における視覚情報の共有であって、決してやましい接触などでは……!」
普段は冷徹な「静謐の賢者」が、教え子の剣幕に押されてしどろもどろになっている。
その狼狽ぶりは、先ほどまで帝国の歴史の闇に斬り込んでいた知の巨人と同一人物とはとても思えない。
わたしはやれやれと肩をすくめつつ、この騒がしくも愛すべき日常の光景に、小さく笑みをこぼした。




