第17話 温もり
わたしは裾を少しつまんで、ひらりと揺らしてみせる。
薄絹の下の素肌が、暖炉の明かりに照らされて微かに透ける。
「お、おい……ミリア……」
ブレイズが掠れた声を絞り出した。
その瞳には、先ほどまでの闘争心とは違う、もっと濃密で危険な色が宿っている。
「なんだ、その格好は……。お前、自分が今、どんな姿してるか分かってんのか?」
「え?ただの寝間着よ?この部屋に用意されていたから、着てみたのだけれど……変かしら?」
わたしはすまし顔でとぼけてみせた。
すると、アズールがハッとして目を見開いた。
「よ、用意されていた……?」
「ええ。この部屋に泊まる客人のために準備されたもの、でしょう?」
その瞬間、二人の顔からサーッと血の気が引いていくのが分かった。
彼らは戦慄の表情で顔を見合わせ、声を震わせた。
「……おい、アズール。この屋敷の客間の備品管理は、誰の管轄だ?」
「……形式上は執事長ですが、最終的な決済と、『特別な客』への配慮を指示するのは……間違いなく、父上です」
二人の間に、冷たい風が吹き抜けたようだった。
あの厳格なエドガー公爵が、こんな扇情的なランジェリーを自ら選んで配置した。
そして、のこのことやってくる息子たちの反応まで、すべて計算済みだったとしたら。
「あのクソ親父。俺たちをどこまで手のひらの上で転がせば気が済むんだ……!」
「底が知れませんね……。ボクたちの性癖まで把握しているとでもいうのですか……。なんて恐ろしい人だ」
帝国最強の騎士と天才賢者が、父親の深謀遠慮(という名の悪ふざけ)にガタガタと震えている。
その様子がおかしくて、わたしはこらえきれずに吹き出した。
「ふふっ。公爵様には敵わないわね。……で?いつまでそこで震えているの?」
わたしは一歩下がって、部屋の中へと二人を招き入れた。
甘く、とろけるような微笑みを浮かべて。
「せっかく来てくれたんだもの。中に入って、温まっていかない?」
二人は顔を見合わせ、まるで聖域に踏み入る信徒のように、おずおずと部屋の中へ入ってきた。
わたしはソファの真ん中に座り、両隣をポンポンと叩く。
「座って。……この部屋、わたし一人には広すぎて、少し寂しかったの」
わたしが苦笑すると、二人は少し迷った末に、わたしの左右に腰を下ろした。
右からはブレイズの熱い体温とアルコールの匂い。
左からはアズールのひんやりとした気配とハーブの香り。
この挟まれている感覚が、今のわたしには一番落ち着く。
「いただくわね」
わたしは苦笑しながら、ブレイズの手からスコッチのボトルを受け取り、グラスに注いで一口煽った。
カッと喉が焼けるような強いアルコール。
それはブレイズの激情そのもののように、胃の腑を熱く焦がす。
「ぷはっ……。強いわね、これ」
続けて、アズールが差し出したティーカップに口をつける。
ふわりと広がるカモミールの優しい香り。
それはアズールの献身そのもののように、ささくれ立った神経を穏やかに撫でていく。
「ん……美味しい。ホッとするわ」
交互に喉を通る、刺激的な熱と、優しい温もり。
二人の想いが、わたしの身体の内側から冷えを取り除いていく。
その心地よさに目を細めた、その時だった。
ふわり。
温かな記憶の断片が、脳裏を掠めた。
――『お疲れではありませんか、ミリア様』
誰かの優しい声。
戦いの後、傷ついたわたしを労り、甲斐甲斐しく世話をしてくれる手。
湯浴みの後、濡れた髪を丁寧に拭き、櫛を通してくれる、温かな指先。
顔は見えない。けれど、その声にはわたしへの深い慈愛と、絶対的な献身が満ちていた。
……ああ。
温かい記憶なのに、胸が締め付けられるように痛い。
その人は、もうここにはいない気がしたからだ。
今のわたしは、こんなにも満たされているのに、記憶の中のわたしは、どうしようもなく孤独だ。
「……ミリア?」
「どうされました?急に黙り込んで」
心配そうな二人の声に、わたしはハッと我に返った。
わたしはグラスとカップを置き、自分の膝を抱えた。
「ううん、なんでもないの。ただ……」
わたしは暖炉の炎を見つめながら、静かに言葉を紡いだ。
「思い出したの。昔、誰かがわたしをとても大切にしてくれていたこと。……でも、その記憶はとても儚くて、悲しい」
わたしは二人を見上げた。
「わたしの記憶を取り戻す旅は、きっと……想像以上に過酷なものになるわ。綺麗事だけじゃ済まない、辛い真実が待っているかもしれない」
わたしのルーツは『月の民』の『器』。
わたしに関わることは、破滅への片道切符かもしれないのだ。
「それでも……一緒に来てくれる?」
わたしの問いかけに、二人は呆れたように、そして愛おしそうに笑った。
「馬鹿野郎。今さら何言ってやがる」
ブレイズが、わたしの頭を乱暴に、けれど優しく撫でる。
「地獄の底だろうが、世界の果てだろうが関係ねえ。お前が行くなら、俺も行く。……当たり前のこと聞くんじゃねえよ」
「ええ、愚問ですね」
アズールが、わたしの手に自分の手を重ね、指を絡める。
「貴女の過去がどんなに過酷でも、ボクたちが貴女の未来を幸せなもので塗り替えてみせます。……離れろと言われても、離れるつもりはありませんよ」
二人の言葉が、凍えそうだったわたしの心に染み渡る。
ああ、わたしはなんて幸せ者なのだろう。
「……ありがとう」
涙が零れ落ちそうになるのを堪えて、わたしは精一杯の笑顔を向けた。
「ねえ……お願いがあるの」
「なんだ?なんでも言ってみろ」
「今夜は……このまま、一緒に寝てほしいの」
わたしが上目遣いでそう言うと、二人の身体がピクリと強張った。
わたしの薄いベビードール姿を改めて意識したのか、二人の視線が胸元や太ももに吸い寄せられ、慌てて逸らされる。
「何もしないで……ただ、朝まで、わたしの隣にいて。一人じゃ、眠れそうにないから」
弱々しく呟くと、二人は顔を見合わせ、やがて観念したように大きく息を吐いた。
「……チッ。相変わらずズルい女だぜ」
「仕方ありませんね。今夜だけは、休戦協定といきましょうか」
二人は苦悶の表情を浮かべつつも、わたしの願いを聞き入れてくれた。
天蓋付きの広大なベッドに、わたしたちは川の字になって潜り込んだ。
真ん中にわたし。右にブレイズ、左にアズール。
「……あー、クソ。拷問かよ、これは」
「同感ですね……。視覚情報と嗅覚情報が、理性を削りに来ています……」
彼らが必死に「男」としての衝動を理性で押さえ込んでいるのが、伝わってくる熱で分かる。
「ふふ。……おやすみなさい、ブレイズ、アズール」
わたしは遠慮なく、二人の腕にすり寄った。
右からは、薪ストーブのようなブレイズの熱。
左からは、ひんやりとしたシーツのようなアズールの涼しさ。
二つの異なる体温が、わたしを包み込む。
部屋の明かりが消され、静寂が訪れる。
最初は緊張していた二人も、今日一日の疲れには勝てなかったようだ。
やがて、安らかな寝息が聞こえ始めた。




