第12話 黄昏の瞳
「……戻ったか」
部屋の奥、書類の山に囲まれたデスクから、帝国の影の支配者――エドガー・クリフォード卿が顔を上げた。
ブレイズとアズールが、無言でわたしの左右に立つ。
二人の騎士に守られながら、わたしは一歩前へと進み出た。
「初めまして、エドガー公爵閣下。ミリアと申します」
わたしは背筋を伸ばし、彼の鋭い視線を正面から受け止めた。
夜明け前の空のような、底知れない瞳。
その視線が、わたしを頭の先から爪先まで、魂の形を測るように舐め回す。
普通の人間なら、この視線だけで萎縮して言葉を失うだろう。
ここで怯んでは、二人のパートナーとして相応しくない。
「ほう……」
やがて、彼は短く息を吐き、口元を僅かに緩めた。
「噂以上だな。ただ美しいだけではない。その瞳の奥に、決して折れぬ気高さと、全てを飲み込む強欲さを宿している」
「お褒めいただき、光栄です」
「ふん。愚息どもが骨抜きにされるわけだ」
認められた。
その事実に思わず安堵の息を漏らす。
「よかろう。約束通り、対価を払うとしようか」
公爵は椅子から立ち上がると、わたしたちを部屋の中央にある応接セットへと促した。
主従の関係を示す机越しではなく、対等に言葉を交わすための配置だ。
わたしたちがソファに腰を下ろすと、公爵はわたしたちの正面に座り、卓上に置かれた革袋から琥珀色の輝きを取り出す。
「まずは、『器』という言葉の真の意味について話そうか」
公爵の声が、一段低くなる。
「『器』とは、比喩ではない。文字通り、異界に座す『神』をその身に宿し、現世に顕現させるために生まれてくる存在のことだ」
公爵の視線が、わたしを射抜く。
「ミリア嬢。お前のその治癒能力、異常な魔力……それは全て、お前の身体が神を受け入れるために作られた、特異な器であるがゆえの機能だ」
喉が渇く。
わたしが、神様の入れ物?
あまりにスケールが大きすぎて、実感が湧かない。
「そして……歴史上、最も有名な『器』が誰か、知っているか?」
アズールがハッとして顔を上げた。
「まさか……」
「そうだ。帝国の建国の女神、聖女ゾルデだ。彼女こそが、『星の子ら』――『月の民』の最後の『器』だった」
衝撃的な事実に、アズールが息を呑む気配がした。
聖女ゾルデ。帝国の誰もが知る救国の英雄。彼女が、『月の民』だったなんて。
「ゾルデは、当時の人間族の王、アークライト一世を愛した。そして、愛する男が支配する完璧な世界を創るため、自らの意志で『真昼の瞳』に宿る灼熱の神をその身に降ろしたのだ」
エドガー公爵は、遠い過去を見るような目で虚空を見つめた。
「その力は圧倒的だった。彼女は神の炎を操り、帝国に逆らう全ての種族、都市、そしてかつての同胞さえも焼き払った。……それが、この帝国の始まりだ」
背筋が寒くなるような話だった。
愛ゆえの裏切り、そして殺戮。
帝国の繁栄の下には、そんな血塗られた歴史が埋まっていたのか。
「この『黄昏の瞳』もまた、神を宿す『創世の宝玉』の一つ。……お前が本当に『真なる器』であるならば、神の声が聞こえるはずだ」
公爵の言葉に、わたしはごくりと喉を鳴らした。
怖い。
触れてしまえば、もう二度と「ただのミリア」には戻れない気がする。
けれど――。
「大丈夫だ、ミリア。俺がいる」
「ボクもいます。……何も恐れる必要はありません」
左右から、温かい手と冷たい手が、わたしの手を握りしめてくれた。
ブレイズとアズール。二人の体温が、わたしの迷いを溶かしてくれる。
わたしは深く息を吸い込み、震える指先を『黄昏の瞳』へと伸ばした。
指先が、冷たい表面に触れる。
いつものように、遺跡の扉を開ける時と同じ感覚で、魔力を注ぎ込んだ。
ドクンッ!!
瞳の輝きが生きているようにうねる。
わたしの指先に圧倒的な魔力が質量を伴って絡みつく。
爆発的な鼓動と共に、視界が白く染まった。
「――っ!?」
◇
気がつくと、わたしは見知らぬ場所に立っていた。
執務室の壁も、ブレイズもアズールもいない。
そこにあるのは、どこまでも続く広大な地平線。
空は、燃えるような琥珀色と、夜の闇が混じり合う、美しい黄昏に染まっている。
大地は静寂に包まれ、時の流れさえもが止まってしまったかのような、永遠の夕暮れの世界。
美しく、そして泣きたくなるほどに寂しい世界。
『――目覚めの、時、来たり』
声が、聞こえた。
どこか特定の場所からではない。
地平線そのものが、風の音が、夕焼けの光そのものが、魂に直接語りかけてくるような、荘厳で、どこか物悲しい響き。
『永き眠りの果てに、我を呼び覚ます者よ』
目の前の空間に、琥珀色の光があふれる。
『その魂……間違いない。真なる〈器〉の系譜』
『我は、終わりと再生を司る者。この瞳に宿りし、黄昏の意志』
神。
これが、この世界の外側にいる存在。
圧倒的な質量の「概念」を前に、魂が震える。
『……聞け、新たなる〈器〉よ。時は、満ちた。腐敗した光の時代を終わらせ、世界を、次なる静寂の夜明けへと導くために』
『――集めよ。散り散りになった、我らが七つの同胞の魂を』
その言葉と共に、わたしの脳裏に、鮮烈なビジョンが流れ込んできた。
――視界が白く染まる。
吹雪が猛り狂う、極寒の山脈。
氷と雪に閉ざされた山の頂。
その奥深くで、一点の曇りもない青い光が、静かに脈打っている。
――次に見えたのは、陽炎が揺れる、灼熱の砂漠。
蜃気楼の彼方に浮かぶ、壮麗な水上都市。
その地下深く、豊かな水脈の底で、灼熱の輝きを放つ金色の光がゆらめいていた。
――そして最後に。
銀色に輝く石造りの祭壇。
星空のような天井の下、まるで無数の星々をその内に宿したかのように、見る角度によって虹色に輝く、七色の光が、静かに、しかし圧倒的な存在感を放っていた。
『……我が同胞は、お前を待っている』
『行け、愛しき運命の子よ。歯車は、再び回り始めた』
その言葉を最後に、黄昏の世界が、砂の城のようにさらさらと崩れ去っていく。




