見守る者と少年
春の終わり。
北方の辺境にも、ようやく暖かな風が吹き始めていた。
まだ朝靄の残る時間。
ヴァイスは村外れの広場で木剣を握っていた。
いつもの朝稽古である。
額には汗。
肩で息をしている。
しかし休まない。
振る。
振る。
ただひたすら振る。
既に千回を超えている。
普通の六歳児なら、とっくに倒れている回数だった。
だがヴァイスは続ける。
魔力循環を使わない。
身体強化もしない。
純粋な筋力だけで振る。
それが彼の決めた鍛錬だった。
「九百九十七……」
汗が滴る。
「九百九十八……」
手の皮が剥けている。
「九百九十九……」
腕が重い。
それでも止まらない。
「千」
木剣を振り抜く。
風が鳴った。
その瞬間。
「そこまでだ」
低い声が響いた。
振り返る。
父だった。
ベルド・サー・クーリー・アルフォンス。
かつて冒険者として名を馳せた男。
今は村長として村を守る父親である。
巨大な体。
傷だらけの顔。
無精髭。
豪快な見た目だが、家族には優しい。
「父さん」
「よくやったな。だが、そこで満足するな」
ベルドは木剣を肩に担いだ。
「今日はここから実戦だ。かかってこい」
ヴァイスは少し緊張した。
父との訓練は好きだった。
だが同時に怖い。
容赦がないからだ。
ベルドは息子だからと手加減しない。
むしろ真剣だった。
それは期待されている証でもあると、ヴァイスは最近ようやく分かり始めていた。
「行きます」
「来い」
駆ける。
踏み込む。
下段から斬り上げ。
しかし。
コン。
軽く弾かれる。
体勢が崩れた。
次の瞬間。
木剣が首元で止まる。
「死んだな」
「……はい」
悔しさが胸を刺す。
何度挑んでも届かない。
それでも以前のように落ち込むだけではなかった。
負けるたびに、自分に足りないものが見えてくる気がした。
「考えろ」
ベルドは言う。
「力が足りないなら技術を使え」
「はい」
「技術が足りないなら頭を使え」
「はい」
「頭が足りないなら準備しろ」
ベルドは笑った。
だがその目は真剣だった。
「覚えておけ、ヴァイス。強い奴が必ず生き残るわけじゃない」
「……はい」
「生き残る奴は、最後まで諦めずに考え続けた奴だ」
ベルドは木剣を下ろし、息子の肩を軽く叩いた。
「お前は魔法が使えなくてもいい。人より遅くてもいい。だが、自分で考えることだけはやめるな」
その言葉に、ヴァイスは胸の奥が熱くなるのを感じた。
周囲から向けられる視線を思い出す。
落ちこぼれ。
魔法も使えない子供。
そんな言葉を聞かない日はなかった。
だが父だけは違う。
できないことではなく、できるようになったことを見てくれる。
「勝てない相手に勝つ方法を考えるのが戦士だ」
ベルドの言葉は力強かった。
まるで息子の未来を信じていると言っているようだった。
ヴァイスは何度も頷いた。
その後も訓練は続く。
何度挑んでも負ける。
何十回負けても負ける。
しかし。
「良くなったな」
ベルドが言った。
「え?」
思わず顔を上げる。
「前は真っ直ぐしか来なかった」
「はい」
「今は相手を見ている。負けた理由を考えている」
ベルドは満足そうだった。
「それが成長だ」
短い言葉だった。
だがヴァイスには何より嬉しかった。
「才能より大事なのはそっちだ」
父の大きな手が頭に乗る。
一瞬だけ。
すぐに離れた。
照れ隠しのような不器用な仕草だった。
「焦るな。お前はちゃんと前に進んでいる」
その声は厳しくも温かかった。
ヴァイスは胸の奥に溜まっていた不安が少しだけ軽くなるのを感じた。
いつか強くなりたい。
父のように誰かを守れる人になりたい。
その思いが以前よりもはっきりと形になっていく。
「はい、父さん」
自然と笑みがこぼれた。
訓練を終えた頃。
森の奥。
誰にも気付かれない木の上。
一羽のペンギンがいた。
不思議なペンギンだった。
北方にも生息していない。
誰も見たことがない種類。
丸々と太っている。
しかし。
その瞳だけは異様なほど知性を宿していた。
ペンギンは黙って見ている。
訓練する少年を。
ただ静かに見守るようにジッと見つめていた。
ヴァイスが笑った。
父と何か話している。
それを見た瞬間。
ペンギンの目が少し細くなった。
嬉しそうにも。
悲しそうにも見えた。
風が吹く。
羽毛が揺れる。
ペンギンは空を見上げた。
青い空。
平和な村。
笑う親子。
その光景を見つめ
ペンギンは目を閉じ、そして再び少年を見る。
ヴァイスは何も気付いていない。
誰も何も気付いていない。
ヴァイスは、ただ今日も剣を振る。
未来のため、家族のために。
そして――まだ見ぬ誰かのために。
ペンギンは静かに羽ばたいた。
本来なら飛べないはずの翼で。
誰にも見られることなく。
青空の彼方へ消えていった。




