第一章 《死天使の像》 ~二十六~
秘蹟協議会常城支部の支部長、丹藤の脳みそから酒精が抜けきっていることを、派遣されてきた各支部のスタッフたちは驚きをもって知ることになった。丹藤のアルコール漬けの毎日は協議会内部でも有名で、近いうちに強制的な治療環境に放り込まれるのではないか、と噂されるほどだったのだ。
日本支局局長の水卜が既に、いつでもそうできるよう事務的な手続きを終わらせていることを、丹藤や、彼ら応援スタッフは知らなかった。
「うぅ、酒を飲みたい。浴びるほど飲んで、そのまま潰れてしまいたい」
「アホな現実逃避はやめてください。どれだけ仕事があると思ってるんですか」
丹藤の現実逃避発言に、木山が自身の体型よりも遥かに鋭いツッコミを入れる。事実、丹藤の前には後始末が山と積み上がっていた。
常城港の沖合にヘリが墜落した。常城港では大規模な破壊を伴う戦闘行為が行われた。上空を高速で移動する未確認生物がネット上に出回った。市庁舎屋上のヘリポートが破壊された。
蔓延していた神秘薬物への対応もある。
黒翼や麻薬組織が倒されたことで、神秘薬物の供給が途絶えた事実は喜ばしくとも、重度依存症者が離脱症状を呈して大暴れするケースが何件も上がっていた。うちいくつかは、肉体変容とまではいかなくとも、服の上からでもわかる筋肥大を呈するものもいて、万全に対応するためには地元警察との連携も欠かせない。
いかに優秀とはいえ大学生の蒼子にできることには限りがある。矢野はデスクワークよりも外で動くことを得意としており、必然的に支部長と、支部の年長者である木山の負担が増えるのだ。
処理の概ねの方向としては、ヘリが危険物を運搬していて事故を起こした、というシナリオになる。
市内に出回っていた神秘薬物を扱っていた麻薬組織が、抗争のためにヘリに武器弾薬を乗せて移動していた、ということだ。
市庁舎屋上は麻薬組織の人間が爆発物を使用して破壊した。常城港に向けて飛行していたヘリは何らかの機体トラブルで墜落した。常城港の破壊はその際に落下したヘリ車体や弾薬によるものだ。上空を高速移動する未確認生物は合成映像である。
実際に常城市では麻薬組織どうしの衝突は起きていたので、それがエスカレートしたという説明は容易に展開できる。その後の警察の捜査で、組織の本部からは実際に銃火器が発見されたことも、この説明を補強してくれるだろう。
流通している神秘薬物の回収と薬物依存者の対応は、情報操作よりも遥かに厄介だ。摘発された麻薬組織のデータベースから、優良顧客と売人の情報を手に入れた。手に入れると、もう片っ端から当たっていくしかない。
暴走する可能性が高いのは、神秘薬物の血中濃度が高い連中。要するに神秘薬物の摂取量が多いものたちなのだが、神秘や幻想を感知・検出する方法を持っていない警察では判別がつかない。警察が薬物所持で身柄を押さえた使用者たちへは、協議会の職員が神秘検知器を持って出向くだけで済むから、まだ負担は軽いと言える。
資料に名前があっても逮捕に至らないような使用者たちは、それぞれ虱潰しに当たっていく他ない。警察では無理なので、協議会が対応するのだが、如何せん、常城支部だけではとても手が足りないのが現状だ。
丹藤が日本支局を通じて応援を要請し、数十人が送り込まれてきた。そして丹藤は支部長の役割として、彼らを管理せねばならない。日頃、酒ばかり飲んで簡単な仕事ばかりをしてきた丹藤には辛い仕事だ。仕事の内容や仕事量がというわけではなく、仕事に追われて酒を飲めないことがなによりも辛い。
「なあ、木山君。酒を飲めない人生に何の意味があるんだろうな」
「世界を守るという意味がありますよ」
「世界の前に自分の精神を守りたい」
丹藤には行きつけのガールズバーがある。エルリアという名の、若くてきれいな女の子を揃えている店で、丹藤はそこの上客だ。
職場としての秘蹟協議会は、福利厚生はともかく、給料は非常に良い。
特に衛士は業務上の危険も多いことから、危険手当も高額になる。どこかの外食産業のように、責任者に碌な手当を支給しない名ばかり管理職ということもなく、支部長には役職と責任に見合っただけの手当てが充てられてもいる。
公開されているわけではないが、支部長の年収は二千万円台ではないかと推測されていた。比較的、安全とされる日本での金額であって、これが幻想同盟との衝突が多い地域での支部長となると、倍になってもおかしくはない。
更に加えて衛士としての手当ても含まれているとなると、ガールズバーに毎日毎晩通えるのも当然と言える。それでも月末になると金がなくなって、近くの安キャバに向かうのだが。神秘薬物への対応を迫られて酒を断って以来、一度も店に行っていない。いい加減、禁断症状でも出てきそうな不安に襲われる丹藤だった。
「ちょっとだけ休憩しないか?」
「三十分くらいなら仮眠もオーケーですよ。俺が起きときますんで、ちょっと横になってください」
「短すぎるよ、木山君。せめて二十時には上がらせてくれないか?」
「却下に決まってるでしょうが。ああ、あくまでも勤務時間中の休憩だということをお忘れなく。酒精などもっての外、寝酒なんて言わないように」
「えー」
丹藤は呻いてから、目の前の書類に向かう他なかった。
教室のドアは整備されたのか、スムーズにスライドした。九郎と椿が教室に入ると
「津田、俺はもうだめだ。よりにもよって綾瀬が万城目さんと一緒に登校してきたように見える」
「それはいけないな。目薬は持ち合わせがないから、綾瀬を締め上げることでしか解決できないぞ」
「それしかないのなら、そうしようじゃないか」
「朝っぱらからなにをバカなことを口走ってるんだお前らは」
「バカなことじゃない、重要なことだ」
「ああ、俺たちの健全で真っ当な学生生活のためにも、避けては通れぬ選択だ」
「選択してねえだろ、最初から決めてるだろ」
「結果は同じだ」
登校と同時にバカな発言に付き合わされ、九郎の気力はかなり削られる。隣では椿がおかしそうに笑っていた。
「相変わらず賑やかな空間だな、ここは」
「賑やかにしている原因の一つは椿だぞ」
「師匠と呼べ」
「学校の中で呼べるか」
「むぅ」
本日は一人の欠席者もなく朝のホームルームが始まる。
ただし今日もまた、いつも通りのホームルームではなかった。担任が教室に入る時間も似たようなものだったし、出だしの挨拶も変わりなかった。
変化はその直後。朝の連絡事項のトップに告げられた担任の言葉だけが違った。
「ちょっと続くが、今日から、このクラスに転校生が来る」
担任が新しい転校生が来ることを伝えると、教室がざわめく。椿が転校してきたのはつい最近のことだ。こんな中途半端な時期にこんな短期間に、続けざまに、しかもこのクラスに転校生が来るとは、教室中から驚きをもって迎えられた。
「騒ぐな。今回もご家庭の事情で急遽決まったものなんだ」
更なるざわめきが広がる。離婚をして戻ってきたのか、仕事をクビになったのか。興味本位で無責任な囁きな教室に満ちていく。
九郎が椿にアイコンタクトを送ると、椿は首を横に振る。どうやら協議会がかかわっているわけではなさそうだ。もしかすると椿が知らないだけということもありうるかもしれないが、今の常城支部にそんな余裕があるとも思えなかった。
急遽というわりには椿のときのように教師陣が上へ下へ走り回っている様子はない。急な転校に戸惑っている様子はあっても、混乱の様子がないのは、どうにもちぐはぐだった。
「急な転校なのに、書類を含めた手続きは完璧に終わっているわ、普段は仕事の遅い校長が全部の処理を片付けているわ、どうなってんだまったく」
ぼやく担任は咳払いをして閉じられたドアの向こうにいる転校生に入ってくるよう言う。「はい」という返事と共にドアがスライドした。
瞬間、無責任なざわめきは吹き飛んだ。低く響くモーターの駆動音と共に教室に入ってきたのは、車椅子に乗った美少女だった。性別の区別なく思わず見とれてしまうような美貌の持ち主で、教室中が静まり返る。
そんな中、九郎だけが驚いて立ち上がった。
「式!?」
「やあ、九郎。これからよろしく頼むよ」
第一章はこれで終わりです。
お付き合いくださりありがとうございました。




