祠
第75話「祠」です。
魔物の群れから逃れたアルとエルシア。
傷ついたアルを抱え、エルシアが辿り着いた場所には、一つの古い祠がありました。
そして、その奥には――。
今回も楽しんでいただけましたら嬉しいです。
山の中を、エルシアはひたすら走っていた。
背中にはアルがいる。
その身体は、ほとんど力を失っていた。
「アル……」
呼びかけても、返事はない。
時折、かすかに身じろぎするだけだった。
エルシアは何度も後ろを振り返る。
だが、追ってくる魔物の姿は見えない。
遠くから聞こえていた咆哮も、いつの間にか小さくなっていた。
それでも、足を止めることはできなかった。
アルの状態が、あまりにも悪い。
背中に伝わる体温。
かすかな呼吸。
そして――。
赤い血が美しい銀色の毛を、染めていく。
「……お願い」
エルシアは足を速めた。
どこへ向かえばいいのかも分からない。
ただ、魔物から離れることだけを考えて走った。
やがて、山の斜面を越えた先に、周囲を岩壁に囲まれた小さな谷が見えた。
その奥に、何かがある。
岩壁の一部が大きくえぐれ、その奥に、自然にできたように見える空洞があった。
入口の周囲には古い石が積み重なり、長い年月の中で苔や蔦に覆われている。
「……あれは……?」
エルシアは足を止めた。
人の気配はない。
身を隠すには十分そうだった。
「アルを休ませられる……」
エルシアはそのまま空洞へ向かった。
近づいてみると、そこは自然の岩陰を利用した小さな祠のような場所だった。
内部は薄暗く、それでいてアルを休ませるのに十分な広さがあった。
「ここなら……」
エルシアは慎重に中へ入った。
奥へ進み、崩れていない場所を見つける。
そして、背中に乗せていたアルをゆっくりと降ろした。
アルの身体が、岩の床へ横たわる。
「……アル」
返事はない。
エルシアはアルの顔を覗き込んだ。
顔色が悪い。
呼吸も弱い。
そして、まだ血が流れている。
「……どうしよう」
声が震えた。
エルシアはすぐに人型の姿へ戻った。
銀色の毛並みが消え、いつもの凛々しい人狼の姿になる。
そして、衣服を裂いて、アルの傷口へ押し当てる。
できるだけ出血を抑えようと傷口を押さえるが、出血はなかなか止まらない。
「治癒魔法……」
思わず呟く。
けれど、自分には使えない。
何度考えても、その事実は変わらなかった。
「私には……何もできない……」
胸が締め付けられる。
アルが苦しんでいる。
目の前にいるのに。
それなのに、自分には傷を治すことすらできない。
「……アル」
エルシアは震える手で、アルの髪を撫でた。
「お願いだから……」
返事はない。
「死なないで……」
その言葉を口にした瞬間、怖くなった。
考えたくもなかった。
もし、このままアルの呼吸が止まったら。
もし、二度と目を開けなかったら。
もし――。
「……嫌」
エルシアは小さく首を振った。
「そんなの……嫌だよ」
目の奥が熱くなる。
いつもなら、アルの隣にいるだけで楽しかった。
魔法の話をして。
一緒に歩いて。
アルが何かを見つけて嬉しそうにしている姿を見て。
そんな時間が、好きだった。
もっと一緒にいたい。
もっとアルのことを知りたい。
もっと――。
「……ずっと、一緒にいたいの……」
小さな声が祠の中へ消える。
エルシアは目元を拭った。
「泣いてる場合じゃない」
水が必要だ。
傷口を洗うためにも、アルに飲ませるためにも。
谷のどこかに水が流れている可能性はある。
アルの腰に下がっている革袋を取り外し、
「……待ってて」
エルシアは立ち上がった。
「すぐ戻ってくるから」
返事はなかった。
それでも、エルシアは祠を出た。
谷の中をしばらく進むと、岩の間から水の音が聞こえてきた。
「……あった!」
小さな流れだった。
エルシアは水に手を浸した。
冷たい。
澄んだ水だった。
革袋の口を閉じている紐を緩め水を汲んだ。
「これで……」
エルシアは急いで祠へ戻った。
入口をくぐったところで、ふと足が止まる。
「……?」
何かがおかしい。
さっきまでと、空気が違う。
祠の奥。
暗闇の向こうから、何かを感じる。
エルシアの耳がぴくりと動いた。
「……誰か、いるの?」
返事はない。
巨大な何かが、そこにいるような気配を感じた気がした。
警戒しながらもエルシアは水をこぼさないよう注意して、ゆっくりとアルのもとへ戻った。
「アル……」
アルは目を閉じたままだった。
「水、持ってきたよ」
革袋の口紐を緩め、アルの身体を支えながら、水を少しずつ口元へ運ぶ。
ほんの少しだけ、水を飲ませる。
「ゆっくりでいいからね」
アルの喉がかすかに動いた。
それだけで、エルシアは少しだけ安堵した。
だが――。
「……エル、シア……」
「なに?アル」
アルの目が、わずかに開いた。
焦点が合っていない。
「私はここにいるよ。大丈夫」
アルは声の方へ僅かに顔を向けた。
「……怪我……ない?」
「……え?」
「……魔物……」
弱々しい声だった。
「……追われて……たから……」
アルは苦しそうに息をする。
「……怪我……して……ない?」
エルシアは言葉を失った。
自分のことよりも。
こんな状態になってまで、自分を心配している。
「……私は大丈夫」
エルシアは静かに答えた。
「どこも怪我してないよ」
アルは安心したように、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……よかった」
そして、再び目を閉じる。
「アル……?」
返事はない。
呼吸だけが、かすかに続いている。
エルシアはアルのそばに身体を寄せた。
「……絶対に、死なせない」
今度は、はっきりと言った。
「私が守るから」
その瞬間だった。
祠の奥から、低い声が響いた。
「――ここで、何をしている」
空気が震えた。
エルシアの身体が強張る。
耳が立つ。
全身に緊張が走る。
背筋に冷たいものが走った。
声の主が誰なのか分からない。
ただ一つだけ分かる。
普通の相手ではない。
エルシアはアルを背後に庇うように身体を移した。
そして、祠の奥を睨みつける。
その瞳には、恐怖があった。
それでも。
一歩も退かなかった。
「……誰?」
エルシアは低く問い返す。
返事はすぐにはなかった。
代わりに、さらに重い気配が祠の奥から押し寄せてくる。
「我の眠りを妨げるのは――何者か」
エルシアは拳を握り締めた。
アルは動けない。
ならば、自分が守るしかない。
たとえ目の前にいる存在が、どれほど強大なものだったとしても。
「……この人には、手を出させない」
エルシアは身構えた。
祠の奥。
暗闇の中で、何かがゆっくりと動いた。
第75話「祠」を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、アルの負傷とエルシアの決意を中心に描きました。
そして、二人が辿り着いた祠の奥には、どうやら普通ではない存在が眠っているようです。
次回、第76話「龍王」では、その正体が明らかになります。
ここからアルたちの物語が、また新たな段階へ進んでいきます。
次回もよろしくお願いいたします。




