明日への一歩
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回は、フェンリルから正式にアルが託され、エルシアとの鍛錬が始まる前の静かなひとときを描きました。
派手な戦闘はありませんが、アルにとって大きな転機となる「学び」の始まりです。
次回からはいよいよ本格的な魔法鍛錬が始まります。
静かな風が訓練場を吹き抜ける。
アルはまだ先ほどの言葉を反芻していた。
――君だけの魔法。
その意味は、まだ完全には理解できない。
だが、不思議と焦りはなかった。
分からないなら、探せばいい。
それが研究者として生きてきた自分の答えだった。
エルシアはそんなアルの表情を見て、小さく微笑む。
「いい顔になった」
「え?」
「さっきまでより、ずっと」
アルは照れくさそうに頭を掻いた。
「そうかな」
「うん」
「少なくとも、迷って立ち止まってる顔じゃない」
その言葉に、アルは自然と笑っていた。
フェンリルは二人の様子を静かに見守っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「エルシア」
「はい、母上」
「しばらく其方へ任せる」
「アルを導いてやれ」
エルシアは真っ直ぐフェンリルを見る。
その表情には迷いはなかった。
「わかりました」
「お任せください」
短い返事。
だが、その一言には強い決意が込められていた。
フェンリルは目を細める。
そしてアルへ視線を向ける。
「アル」
「其方はまだ伸びる」
「今のままでも十分強い」
「だが」
一拍置く。
「其方が目指す先は、その程度ではあるまい」
アルは静かに頷く。
「はい」
「もっと知りたい」
「もっと魔法を理解したい」
「もっと……自由に使えるようになりたい」
その瞳には迷いはなかった。
フェンリルは穏やかに微笑む。
「ならば学べ」
「知識だけではなく」
「感覚を」
「魔力を」
「そして己自身を」
その言葉は、まるで人生そのものを諭すようだった。
アルは深く一礼する。
「ありがとうございます」
フェンリルは静かに踵を返した。
「明日より鍛錬を始めよ」
「今日はもう休むがよい」
「頭で理解したことを、一度心で整理する時間も必要だ」
「はい」
フェンリルはそのまま館の方へ歩いていく。
残されたのはアルとエルシアだけだった。
少しだけ気まずい沈黙が流れる。
するとエルシアがくすりと笑う。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
「明日から少しだけ付き合ってもらうだけだから」
「……少しだけ?」
アルが聞き返すと、エルシアは悪戯っぽく笑った。
「うん」
「たぶん、君が音を上げるまで」
「えぇ……」
思わず漏れたアルの声に、エルシアは声を立てて笑う。
その笑顔は、先ほどまでの落ち着いた雰囲気とは違う、年相応の柔らかさがあった。
アルもつられて笑う。
こうして始まることになった獣王の里での鍛錬。
まだこの時のアルは知らない。
この出会いが、自分の魔法を大きく変え、そして目の前の女性が、この先も長く旅路を共にする大切な仲間となることを。
夕暮れの柔らかな陽光が、獣人族の里を黄金色に染めていた。
館の玄関を前にアルは、見送ってくれる二人を前にしていた。
フェンリルとエルシアが並んで立っている。
「では、アル」
フェンリルが穏やかな声で言う。
「今日はゆっくり休むがよい」
「魔法は心の在り方も大きく影響する」
「焦って学ぶものではない」
アルは深く一礼した。
「はい。ありがとうございます」
フェンリルは満足そうに頷く。
「この者に案内させる。アズールのメンバー達は先に案内しておる」
「安心して逗留すると良い」
「わかりました」
フェンリルも頷きながら言った。
「明日の朝、日の出と共に訓練場へ来るとよい」
「エルシアが待っておる」
「承知しました」
隣に立つエルシアも、小さく微笑んだ。
「寝不足は駄目だからね」
「今日はちゃんと休むこと」
「鍛錬は体力も使うから」
姉が弟へ言い聞かせるような優しい口調だった。
アルも思わず笑う。
「はい」
「ちゃんと寝ます」
「うん」
「それなら安心」
エルシアは満足そうに口元を緩めた。
フェンリルも静かに二人を見比べる。
「明日からが楽しみだ」
「其方がどこまで伸びるか」
その言葉を最後に、フェンリルは館の方へ歩き出す。
エルシアも母の後ろへ続き、途中で一度だけ振り返った。
「また明日」
軽く手を振る。
アルも笑顔で応えた。
「うん」
「また明日」
二人の姿が館の中へ消えていく。
アルはしばらくその背中を見送っていた。
(明日から……)
獣王フェンリル。
そして、その娘エルシア。
この世界でも最高峰と呼べる魔法の使い手から直接教えを受けられる。
胸の奥から自然と高揚感が込み上げてきた。
(絶対に無駄にはしない)
(もっと強くなる)
(もっと、この世界を知る)
そう心へ誓った。
館の案内役が促す。
「アルフレッド殿。参りましょう」
「はい。お願いします」
アルは兵士の後を歩いていく。
夕暮れの里は、昼間とはまた違った穏やかな表情を見せている。
子どもたちの笑い声が聞こえ、家々の煙突からは夕餉の支度を知らせる煙がゆっくりと立ち昇っていた。
第35話を読んでいただき、ありがとうございました。
エルシアは「教える人」というよりも、アルと同じ目線で考え、共に成長していく存在として描いています。
ここからアルは、知識だけでは辿り着けなかった「魔法の本質」へ少しずつ近づいていきます。
一方で、物語の裏では黒ローブの動きも止まってはいません。
鍛錬と旅、その両方が少しずつ交わりながら、次の舞台へ進んでいきます。
引き続き応援していただけると嬉しいです。




