神の御心
第111話をお届けします。
今回は、教皇アルベリク十三世による年次説教。
穏やかな祈りの言葉の奥に、アルが感じ取ったものとは――。
どうぞお楽しみください。
王都の大聖堂は、朝から多くの人々で埋め尽くされていた。
高い天井を支える白い柱。
壁面を飾る、星々と神を描いた色鮮やかなステンドグラス。
祭壇へ続く中央の通路には、白い衣装をまとった神官たちが整然と並んでいる。
そして、その最奥。
大陸全土に広がる星環教の頂点に立つ男が、静かに祭壇へと姿を現した。
教皇アルベリク十三世。
その姿を見た信徒たちが、一斉に頭を垂れる。
ざわめきが消え、広大な聖堂が静寂に包まれた。
アルはエルシアとともに、信徒たちの一角に座っていた。
少し離れた場所には、イザベラとフィオナの姿もある。
周囲を見渡せば、平民から商人、貴族に至るまで、さまざまな身分の人々が集まっていた。
前方には、ルシウス王をはじめとする王都の有力者たちが並んでいる。
王は教皇に向かって深く頭を下げ、その背後には複数の貴族が控えていた。
(……すごい人数だな)
アルは、まず聖堂の様子を観察した。
単なる宗教行事という規模ではない。
ここに集まっている人々の中には、王都の政治や経済を動かす者たちもいる。
教皇の言葉は、彼らを通じて大陸の各地へ伝わっていくのだろう。
やがて、教皇が祭壇の前で足を止めた。
「皆様。どうぞ楽な姿勢におなりください」
穏やかな声だった。
信徒たちが顔を上げ、膝をついていた者たちはゆっくりと腰を下ろす。
教皇は、そんな人々を慈しむような眼差しで見渡した。
「本日は、このように多くの方々と祈りを捧げられることを、神に感謝いたします」
声を張り上げているわけではない。
それでも、不思議と聖堂の奥まで届く。
「皆様もご存じのとおり、近頃、大陸ではさまざまな災いが起きています」
教皇は、ゆっくりと言葉を続けた。
「魔物による被害。各地で起きる争い。そして、人々の暮らしを脅かす数々の不幸」
信徒たちの表情が曇る。
最近の魔物被害は、王都でも噂になっていた。
人族の町だけではない。
獣人族の里やエルフの集落、さらに北方の魔人族領でも、異変が起きている。
そのすべてが同じ原因によるものなのか、アルにもまだ分からない。
「なぜ、これほどの災いが続くのでしょうか」
教皇は一度、言葉を切った。
そして、静かに告げる。
「それは、私たちの祈りが足りなくなっているからなのかもしれません」
聖堂の中に、かすかなざわめきが広がった。
「日々の暮らしに追われ、神の御心を忘れてはいないでしょうか」
「自らの利益を求めるあまり、隣人への慈しみを失ってはいないでしょうか」
「困難に直面したとき、神に祈ることを忘れてはいないでしょうか」
教皇は、誰かを責めるような口調ではなかった。
むしろ、迷える人々に寄り添うような声音だった。
「どうか、ご自身を責めないでください」
その言葉に、顔を伏せていた信徒の一人が顔を上げた。
「人は誰しも、迷うものです。過ちを犯すこともあります」
「だからこそ、私たちには祈りが必要なのです」
教皇は微笑んだ。
「神は、迷える者を見捨てません」
「私たちが神を信じ、御心に従って生きるならば、神は必ず私たちを導いてくださいます」
信徒たちの表情が、少しずつ和らいでいく。
中には、安堵したように涙を拭う者もいた。
家族を失った者。
魔物の襲撃によって暮らしを奪われた者。
先の見えない不安を抱えながら、日々を生きている者。
彼らにとって、教皇の言葉は救いなのだろう。
アルにも、その気持ちは理解できた。
苦しいときに、誰かが自分を見捨てていないと言ってくれる。
それだけで、前を向けることもある。
だが。
「私たちは皆、神のもとに生まれ、神の御心に従って生きる者です」
教皇の言葉が続く。
「この大陸に暮らす者は、種族や身分が違っていても、神の前では等しく信徒なのです」
人族も。
エルフも。
獣人族も。
魔人族も。
その言葉だけを聞けば、種族の違いを越えた平等を説いているように思える。
しかし、教皇はそこで一度、目を伏せた。
「そして、私たちの命は、神から与えられたもの」
「その命を、何のために使うのか」
「それを決めるのもまた、神の御心なのです」
アルの思考が止まった。
(……今のは)
教皇の声は変わっていない。
表情も穏やかなままだ。
「どうか、神の御心を求めてください」
「祈りを通じて神の声を聞き、教えに従って生きてください」
「私たちがこの世で果たすべき役目を全うしたとき、神はその魂を救い、星のように輝く存在として迎えてくださるでしょう」
信徒たちが、深く頷いていた。
アルは、その様子を見つめる。
(命の使い道を決めるのも、神……か)
宗教そのものを否定するつもりはない。
信仰によって救われる人もいる。
苦しみを乗り越える支えになることもある。
それ自体は、否定すべきものではないだろう。
だが。
(神の御心に従うことが、何よりも優先されるなら……)
個人の意思は、どこへ行くのだろう。
誰かが「神のためだ」と言えば、命を差し出すことさえ正しいとされるのか。
その神の声を、人間が代わりに語るのだとしたら。
誰が、その正しさを確かめるのか。
(……危ういな)
アルは教皇から目を離さなかった。
穏やかな言葉だった。
慈悲に満ちた表情だった。
だからこそ、恐ろしい。
人々が自らの意思で従っているつもりのまま、その意思を手放してしまう可能性がある。
前世でも、神や大義を掲げて人々を支配しようとする者たちはいた。
信仰が悪なのではない。
信仰を理由に、他人の命や自由を奪うことが問題なのだ。
そして今、この国では。
王が教皇を敬い、多くの貴族がその教えを受け入れている。
この思想が政治と結びつけば、何が起こるのか。
アルは、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。
やがて、教皇が両手を広げた。
「皆様。どうか、今日からまた祈りを重ねてください」
「隣人を慈しみ、神の教えを胸に刻み、与えられた役目を果たしていきましょう」
「皆様の魂が、星のように輝くことを願っております」
教皇が静かに頭を下げる。
その瞬間、聖堂に大きな拍手が広がった。
祈りの言葉を唱える者。
涙を流す者。
安堵した表情で胸に手を当てる者。
人々は、それぞれの思いを抱きながら教皇を見つめていた。
そして。
最前列にいたルシウスが、ゆっくりと立ち上がった。
「皆の者、聞いてほしい」
王の声が、聖堂に響く。
「本日の教皇猊下のお言葉、まことにありがたく受け止めた」
ルシウスは教皇へ一礼し、それから信徒たちへ向き直った。
「我らが進むべき道は、明らかだ」
「神に祈り、神の御心を知り、その教えに従って生きること」
「それこそが、この大陸に暮らす我らの務めである」
王は、集まった人々を見渡した。
「我が王国も、星環教の教えを尊び、神の導きのもとで歩んでいく」
「皆も、どうか祈りを忘れないでほしい」
「神の声を聞き、その御心に従って生きるのだ」
ルシウスが片手を胸に当てる。
「そうすれば、神は我らの魂を救ってくださるだろう」
信徒たちから、再び拍手が起きた。
アルは、静かに息を吐いた。
(……なるほど)
教皇が語った思想を、今度は王が国の方針として語っている。
偶然の一致と考えるには、あまりにも自然な流れだった。
もちろん、これだけで二人の関係や、裏で何が行われているのかを断定することはできない。
だが、少なくとも。
教会と王政が、同じ方向へ進もうとしている可能性は高い。
アルは、その光景を記憶に刻んだ。
説教が終わると、聖堂の中は再び人々の声で満たされた。
信徒たちは教皇の言葉について語り合い、神官たちは帰っていく人々を見送っている。
アルたちは人の流れを避け、聖堂の側面にある柱の陰へ移動した。
「……どう思った?」
イザベラが尋ねる。
アルはすぐには答えなかった。
教皇の言葉。
ルシウスの言葉。
それぞれを頭の中で整理する。
「教会と王政は、かなり近い関係にあると思う」
「やっぱり?」
フィオナが表情を引き締めた。
「うん。ただ、どこまで互いの事情を知っているのかは分からない」
アルは続ける。
「教皇がルシウスを利用している可能性もあるし、ルシウスが教会の力を利用している可能性もある」
「……どちらも、相手を利用しているのかもしれないね」
エルシアが呟いた。
「そうだね」
アルは頷いた。
「でも、今の段階では推測だ。証拠が足りない」
捕らえた黒ローブの証言。
教会関係者から指示を受けていたという話。
そして、今日の説教とルシウスの発言。
それぞれは、少しずつ繋がり始めている。
だが、まだ全体像は見えない。
「それに……」
アルは、聖堂の奥へ視線を向けた。
「教皇もルシウスも、これだけで説明できるとは思えないんだ」
「どういうこと?」
イザベラが尋ねる。
「教会の勢力を広げることや、王として権力を維持すること。それぞれの目的は分かる」
「でも、それだけなら……わざわざ黒魔石を使って、魔人族の生命力を奪う必要があるのか?」
フィオナの顔が曇る。
「……確かに」
「黒魔石と精霊石。そして、魔人族領で行われていたこと」
アルは指を折るように、情報を整理した。
「それらの背後には、まだ別の目的がある気がする」
「それが分からない限り、本当の意味では何も解決していない」
エルシアは、アルの横顔を見つめていた。
その表情には、強い決意が宿っている。
「……調べるんだね」
「うん」
アルは迷わず答えた。
「何が起きているのか、全部知りたい」
「それから……」
ほんの一瞬、声が低くなる。
「俺の家族を奪った連中にも、責任を取らせる」
エルシアは、何も言わなかった。
アルの両親も、育ててくれたマリアも、もう戻ってこない。
その事実は、アルの中から消えることはない。
研究者として冷静に考えることと、失ったものへの怒りを抱くことは、矛盾しない。
ただ。
怒りだけに身を任せれば、見えるはずのものまで見失ってしまう。
アル自身も、それを理解していた。
「……アル」
エルシアが小さく呼びかける。
「一人で抱え込まないでね」
「分かってる」
アルは、少しだけ笑った。
「みんながいるから」
「だったら、私たちにも頼って」
イザベラが肩をすくめる。
「せっかくここまで一緒に来たんだからね」
「私も、できることは何でもします」
フィオナも穏やかに頷いた。
「ありがとう」
アルは、三人を順番に見た。
自分一人では、できることに限界がある。
だからこそ、仲間が必要なのだ。
情報を集める者。
危険を察知する者。
傷ついた者を支える者。
それぞれが違う力を持っているからこそ、見つけられる答えがある。
アルは、改めてそう感じていた。
その様子を、エルシアは少し離れた場所から見つめていた。
アルは前を向いている。
いつものように、未知を追いかけようとしている。
けれど。
(……本当に、大丈夫かな)
エルシアの胸には、小さな不安が残っていた。
家族を失った悲しみ。
ルシウスへの怒り。
黒魔石を巡る謎。
それらを一つずつ解き明かそうとするアルの姿は、いつもと変わらない。
だが、今のアルは、ただ知りたいから調べているわけではない。
知らなければ、大切な人を守れない。
真実を突き止めなければ、失ったものに決着をつけられない。
そんな思いが、彼を突き動かしている。
その決意は、きっと必要なものだ。
けれど。
もし、その思いが強くなりすぎたら。
アル自身を、傷つけてしまうのではないか。
「……エルシア」
不意に、イザベラから声をかけられた。
「少し、心配?」
エルシアは驚いて顔を上げる。
「……分かる?」
「まあね」
イザベラは小さく笑った。
そして、そっとエルシアの肩に手を置く。
「アルは、一度決めたことに夢中になると、周りが見えなくなることがあるから」
「……うん」
「だから、あなたがそばにいてあげて」
イザベラは、エルシアの目を見つめた。
「私たちも一緒に見ている。だから、あなた一人で全部背負わなくていい」
その言葉に、エルシアの胸が少しだけ軽くなった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
イザベラは肩を軽く叩く。
「それに、アルが研究に夢中になるのは、今に始まったことじゃないでしょう?」
「……ふふっ」
エルシアは小さく笑った。
「そうだね」
初めて魔法を見せてもらったときも。
精霊の気配を感じ取ろうとしていたときも。
アルはいつも、未知を前にすると目を輝かせていた。
その姿が好きだった。
だからこそ、失いたくない。
研究することも。
仲間と笑うことも。
そして、アル自身も。
(……私が、そばにいる)
エルシアは、静かに決意した。
アルが前へ進むなら、その隣を歩こう。
彼が立ち止まったときには、そばにいよう。
もし、怒りや悲しみに飲み込まれそうになったなら。
その手を取れる距離にいよう。
それが、自分にできることだから。
大聖堂を出ると、王都の空は夕暮れに染まり始めていた。
遠くには、王城の尖塔が見える。
その下では、教会の教えを称える人々の声が、まだ途切れることなく続いていた。
アルは一度だけ振り返り、大聖堂を見上げた。
今日の説教だけで、教皇の真意が分かったわけではない。
ルシウスとの関係も、黒ローブたちへの指示も、まだ確かな証拠が必要だ。
そして、黒魔石と精霊石が何を生み出そうとしているのか。
その答えも、まだ見えていない。
分からないことばかりだ。
だからこそ。
「……もっと調べないと」
アルは小さく呟いた。
教皇が何を望んでいるのか。
ルシウスが何を企んでいるのか。
そして、二人の思惑の奥に、何が隠されているのか。
そのすべてを明らかにするまでは、立ち止まるわけにはいかない。
アルは、仲間たちとともに歩き出した。
神の御心を語る者たち。
王の権力を支える者たち。
そして、その背後で動いている、まだ見えない何か。
その真実を知るための戦いは、静かに次の段階へと進み始めていた。
第111話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、教皇の説教を通して、星環教が掲げる思想とアルが感じ取った危うさを描きました。
穏やかな言葉の奥に何が隠されているのか。そして、教皇とルシウスは何を目指しているのか。
少しずつ明らかになっていく謎を、今後も楽しんでいただければ幸いです。
ブックマークや評価も、執筆の励みになります。
今後ともよろしくお願いいたします。




