「血啜りの記憶」―祝福と残響
―新暦五七五年・春初め 連合王国 王都ハインネル―
宿の食堂は、珍しく賑やかだった。
昼の光が窓から差し込んでいる。
木のテーブル。
粗い食器。
どこにでもあるような場所だった。
その中で。
ダガードが大きく笑っていた。
「で? 本当に引くのか」
からかうような声。
アルクスは、笑って答えない。
ジュナが先に言う。
「まだ決めたわけじゃないって言ってるでしょ」
少しだけ、頬を膨らませている。
「顔がもう決めてる」
ダガードが即座に返す。
「決めてない!」
そのやり取りに、ロッドが小さく笑った。
「でも……いいと思います」
照れくさそうに頭をかく。
「もう、十分戦いました」
視線をまっすぐ向ける。
「幸せになってください」
その言葉に、ジュナが一瞬だけ黙る。
そして、少しだけ視線を逸らした。
「……なによ、それ」
小さく言う。
照れているのが分かる。
ダガードが鼻で笑う。
「いいじゃねえか。めでたい話だ」
腕を組む。
「血啜り様も、やっと人間に戻るってわけだ」
「やめろ」
短く返す。
それでも。
その空気は、悪くなかった。
軽い。
久しぶりに、戦場ではない時間だった。
(……終われるかもしれない)
ふと、そう思う。
そのとき。
扉が開いた。
勢いよく、空気が変わる。
兵士だった。
息を切らしている。
視線が、部屋の中を走る。
アルクスで止まる。
「……報告!」
声が張りつめる。
「城塞都市バラン、陥落!」
時間が、止まる。
誰も動かない。
「ヴァイパーの大群です!」
「現在、防衛線は崩壊!」
「王都より、各部隊へ援軍要請が出ています!」
言葉だけが、落ちてくる。
バラン。
その名前だけで、胸がざわつく。
ナッツの顔が浮かぶ。
笑っていた。
「帰ったら、案内してやるよ!」
その声。
もう、いない。
ダガードが立ち上がる。
迷いはない。
「……来たか」
低く言う。
ロッドも立つ。
顔から、色が消えている。
それでも、目は逸らさない。
「行きます」
短く、それだけ。
ジュナは、一瞬だけ止まる。
アルクスを見る。
何か言おうとして。
やめる。
代わりに。
「……気をつけて」
それだけ言った。
矢筒を背負う。
弓を持つ。
振り向かない。
ダガードが言う。
「お前は来るな」
アルクスに向けて。
「分かってる」
答える。
それで終わりだった。
誰も、それ以上言わない。
分かっている。
行けないことを。
戦えないことを。
足音が遠ざかる。
扉が閉まる。
音が消える。
残ったのは。
静けさだった。
広い部屋。
誰もいない。
さっきまでの笑い声が、嘘のようだった。
アルクスは、座ったまま動かない。
手を見る。
義手。
黒くはない。
ただの、鉄。
足を見る。
義足を外し、今は何もない。
(……行けない)
それだけ。
簡単な事実。
(……俺は)
言葉が続かない。
バラン。
あそこには、知っている顔がある。
世話になった人間もいる。
ナッツの故郷。
笑っていた場所。
それが、崩れている。
(……なのに)
自分は、ここにいる。
暖かい場所。
安全な場所。
何もせずに。
(……いいのか)
問いが落ちる。
答えは、ない。
けれど胸が、ざわつく。
(……英雄)
そう呼ばれる。
持ち上げられる。
称えられる。
それなのに。
戦場にいない。
(……俺は)
何もしていない。
ただ、休んでいる。
それだけ。
(……許されるのか)
静かに。
自分を責める。
ナッツの声が浮かぶ。
ハイセンの背中が浮かぶ。
ジュナの言葉が重なる。
「一緒に生きよう」
その未来と。
戦場が、重なる。
(……終われない)
また、その言葉。
消えない。
消えない。
消えない。
アルクスは、ゆっくりと立ち上がる。
義足はない。
それでも立つ。
窓の外を見る。
王都の光。
遠く。
戦場がある。
見えない。
それでも、分かる。
(……なぜ)
問いが、また残る。
なぜ戦う。
なぜ生きる。
なぜ、自分はここにいる。
答えは、まだない。
だが。
(……終われない)
それだけは、確かだった。




