「血啜りの記憶」―残された夜
―新暦五七五年・春初め 連合王国 王都ハインネル―
王都ハインネルの夜は、明るい。高く積まれた石壁。磨かれた白い石畳。等間隔に並ぶ街灯が、金色の光を落としている。
だが、その光はどこか冷たい。王城に近い医療棟は、さらに静かだった。
白い壁。無機質な柱。長い廊下。足音だけが響く。
担架の上で、アルクスは目を開けていた。
天井が流れていく。装飾のない、ただの白。
どこにも血の色はない。戦場とは違う。清潔すぎる。
「……まだ意識があるか」
白衣の男が言う。
その目は冷静で、感情はない。
「すぐ処置に入る」
運ばれる。石の床。金属の台。整然と並ぶ器具。光が強い、眩しい。右脚に、感覚がない。いや、ある。鈍い痛みとして。内部から広がる、腐っていく感覚。
視線を落とす。包帯の下で黒が滲んでいる。
「毒が深い」
「このままでは、全身に回る」
「切断する」
決定事項だった。アルクスは何も言わない。分かっている。あの一撃で、終わっている。
「麻酔を使う」
「……必要ない」
短く言う。
「時間が惜しい」
それだけだった。
刃が触れる。
切れる。
音は小さい。
だが、痛みは遅れて来る。
爆ぜる。
焼ける。砕ける。裂ける。
それでも、目は閉じない。
(……これでいい)
思考は残っている。
それだけで、十分だった。
やがて。
「……終わった」
右脚は、もうない。
空白だけが残る。
外では、人が笑っている。
何も変わらない夜。
(……戦えない)
その事実だけが、そこにあった。
◇
王城。
玉座の前。
アルクスは膝をつく。
報告は、簡潔だった。
戦況。
損耗。
ヴァイパーの動き。
そして。
自分の身体。
すべてを、隠さずに。
玉座の上。
王は、しばらく動かなかった。
アルクスを見ている。
その全身を。
視線が、右脚で止まる。
わずかに。
息を吐く。
「……よく戻った」
低く。
「わが国の英雄よ」
「報告は聞いた」
静かに続ける。
「……よく戦った」
その言葉は、重かった。
称賛ではなく。
確認だった。
そして。
「お前は」
わずかな間。
「もう、十分に戦った」
視線は外さない。
逃がさないように。
「これ以上は、国としても望まない」
短くそして。
「引退しろ」
優しい声だった。
だが、それは命令だった。
◇
宿。
暗い部屋。
アルクスは天井を見ていた。
静かすぎる。
戦場の音がない。
血の匂いもない。
「……解散かもな」
ダガードの声が蘇る。
「アルが引くなら、終わりだ」
誰も笑わなかった。
ジュナも。
アーレもロッドも。
アルクスは目を閉じない。
思い出す。
ナッツ。
笑っていた。
ハイセン。
最後まで盾を構えていた。
名前が浮かぶ。
消える。
(……俺のせいだ)
指揮。
判断。
全部、自分だった。
守れなかった。
その事実だけが残る。
(……戦えない)
右脚はない、今あるのは血の通っていない鉄の塊。もう前線には戻れない。
(……じゃあ、どうする)
問いだけが残る。
◇
夜風が冷たい。
外に出る。
空を見上げる。
ジュナが来る。
「もう、いいでしょ」
声が震えている。
「義足でも生きていける」
「戦わなくてもいい」
一歩、近づく。
「私と、二人で生きよう」
静かな言葉。
アルクスは空を見る。
(……それもいいか)
一瞬、そう思う。
戦わない日々。
ジュナと笑う時間。
「……そうだな」
小さく言う。
ジュナの表情が崩れる。
翌日。
ダガードが笑う。
「そりゃいい」
ロッドが言う。
「幸せになってください」
ジュナが少し照れて怒る。
その瞬間だけ。
終われる気がした。
だが。
夜。
天井を見ている。
消えない言葉。
――減らされている
(……なぜ)
問いが残る。
やつらはなぜ突然現れた。
なぜ襲う。
なぜ今は止まっている。
そこに、人が生きている理由、人類存続の可能性があるのではないか。
(……知りたい)
それが、消えない。
(……終われない)
静かに、それだけが残った。




