「血啜りの記憶」―失われし物
空は、濁っていた。青でもなく、灰でもない。腐りかけたような色が、大陸北方の空を覆っている。
風が吹く。乾いているはずの風に、重たい匂いが混じる。腐敗と血。そして――毒。
かつて、ここには国があった。石造りの街並み。畑、人の声、子どもの笑い声。今はもうない。
崩れた城壁が斜めに倒れ、焼け焦げた木材が黒く固まっている。
地面はまだらに変色し、踏むたびにぬかるんだ音を立てた。その上を、影が横切る。
ヴァイパーウィスプ。
羽音は軽いが、近づくほどに空気が歪む。
細長い身体。
節のある外殻。
刃のような脚。
そして、滴る黒い液体。
それが地面に落ちるたびに、草が腐り、土が崩れる。
「前に出ろ!!」
声が遠い。
水の中から聞こえるように。
それでも、身体は動く。
踏み込み、黒喰を振る。
斬る。
感触は、まだある。
「隊列崩すな!!」
ダガードの声。
低く、通る。
前に出て、大盾を構える。
何度も叩かれた跡が残る盾。
それでも、まだ立っている。
アルクスは剣を握る。
左腕の義手は血に濡れ、鈍く光っている。
境界が分からない。
それでも、振る。
一体、また一体。
しかし、終わらない。
黒い影が空間を埋める。
輪郭が揺れる。
定まらない。
「アル!!右!!」
ジュナの声。
振り向く。
矢が横を駆け抜ける。
敵が崩れる。
オレンジの髪。
歯を食いしばった顔。
「集中して!!」
「……してる」
短く返す。
その瞬間。
違和感一体。
軌道が読めない。
(……速い)
わずかに遅れる。
そのわずかで、十分だった。
爪が走る。
右脚。
深く、裂かれる。
「……っ」
熱。
次に、冷たい感覚。
血が逆流するような感覚。
黒い液が、傷口から広がる。
皮膚が、沈む。
崩れる。
(……腐毒)
理解は一瞬。
その奥で、何かが抜け落ちる。
(……)
一瞬。
何をしていたのか、分からなくなる。
(……まだ終われない)
思考だけが残る。
振り下ろす。
斬る。
敵が崩れる。
痛みは、遅れて来る。
息が荒れる。
足元に血が広がる。
動かない。
それでも、立つ。
布を巻く。
歯で締める。
視界が揺れる。
そのたびに。
記憶が、少しずつ擦れる。
(……何かを)
思い出そうとして。
やめる。
必要ない今は。
戦う。
それだけでいい。
「アルクス!!」
ジュナの声。
「まだ、いける!」
それが本当かどうかは、どうでもよかった。
戦う。
それしか、ない。
「下がれ!!」
ダガードが前に出る。
盾で押し返す。
ロッドが続く。
槍を構える。
震えている。
だが、逃げない。
アーレの術が走る。
空間が歪む。
敵の動きが鈍る。
ジュナの矢が、正確に貫く。
それでも。
上空の影が増えていく。
羽音が、空を覆う。
終わらない。
(……終わっていない)
その感覚だけが残る。
次に覚えているのは、空だった。
濁った空。
運ばれている。
誰かの肩。
「まだ生きてる!」
「急げ!」
声が遠い。
振り向く。
そこにあったはずの戦場は。
もう、なかった。
戦い。
また戦い。
終わらない戦い。
仲間が減っていく。
名前が、曖昧になる。
呼ばれる。
「血啜り」
理由は単純だった。
戦いのあと。
義手が血に染まる。
それだけ。
意味は、なかった。
それでも。
(……終われない)
その思いだけが残る。
風が吹く。
腐った匂い。
同じ景色。
だが、違う。
音が遠い。
世界が、ずれている。
(……これは)
――記憶だ。
音が消える。
戦場の奥。
切り取られた空間。
そこに、いた。
人の形。
だが、人ではない、ヴァイパーキング。
輪郭が揺れる。
存在が浮いている。
「……お前が血啜りか」
アルクスは答えない。
黒喰を構える。
「よく戦った」
穏やかな声。
だが、温度がない。
一歩、近づく。
音がしない。
「……お前たちは」
空気が止まる。
「減らされている」
それだけ。
意味が分からない。
「……なぜ」
問いかける。
「……」
「管理され――」
そこで、切れる。
音が途切れる。
景色が崩れる。
記憶が終わる。
気づけば。
また、空を見ていた。
濁った空。
腐った風。
同じ場所。
だが。
胸の奥に、残っている。
(……何のために)
答えはない。
それでも。
消えない。
右脚は、動かない。
黒く沈んでいる。
腐毒が、侵していた。
肉だけじゃない。
何かが、削れている。
それでも。
(……終われない)
その思いだけが。
残った。




