memoirs,03
いきなり決まった家族旅行。
家族たちは呑気な様子でハワイに浮かれ、嬉しそうにはしゃいでいる。
そんな中、俺だけは過去を思い出し、海を眺めながらため息を吐いていた。
まだ幼かった頃、父が仕えていた屋敷でも、似たように家族旅行で海を訪れたことがあった。仕事を覚えるという名目でついてきた俺は、初めての海に浮かれた声を上げた。
「父さん、海だよ! すごく綺麗!」
子供ながらに発した純粋な言葉だったが、それを父は頑として許さなかった。
「やめなさい、あおい。ここへ来たのは遊ぶためじゃない……お前は執事として学ばなければならない身なんだ。どんなに嬉しくても、悲しくても、それを表情に出してはいけない。わかったか?」
「はい、父さん……ごめんなさい」
父は仕事に関しては厳しい人だった。まだ小学生の俺に対しても、仕事に向き合う姿勢は決して崩さなかった。それが窮屈で、執事という仕事を堪らなく嫌いにさせた。
そんな父が倒れて、入院することになったあの日。俺はあの少女と出会った。
少女は俺よりも幼いにもかかわらず、自分の生い立ちを受け入れ、笑顔で乗り越えようとしていた。そんな純粋でまっすぐな少女に背中を押され、俺は父と初めて向き合った。
なのに、聞かされたのは残酷な真実。
執事と令嬢の間に生まれ、汚点とされた許されない存在が俺だった。そんな俺を憐れとでも思ったのか、当時の屋敷で執事をしていた今の父親が俺を引き取り、育ててきた。
施設に入れられたり、令嬢の子として育てられるよりはきっとマシな人生だったと思う。けれど、結婚もせずに、俺を一人で育ててきた父の気持ちがよくわからなかった。
「あおい、ずっと黙っていてすまなかった」
父が残した最後の言葉が脳裏によぎる。俺は軽く舌打ちした。
他人なのに、汚点でしかない子供なのに、そんな厄介者を引き受けて、父になんの得になるのだろうか。そんな俺に、執事をやらせたのはなぜなのか、それもわからないまま父はこの世を去っていった。
(謝る以外に肝心な言葉がもっとあるだろうが)
俺がこうして苛立つのは、父親が憎かったわけではない。きっと、そんな父親の優しさに気がついていながら、感謝の言葉一つ言えなかったことが原因だろう。あの病室で過ごした数十分という時間は、俺に感謝の言葉が出てくるにはとても足りなかった。父親は誰にも感謝されることなく、虚しい人生を終えたのだ。
暗い記憶が、さらに俺の心を重く沈めた。
「海、綺麗ですね」
背後からかけられた声で我に返った。
俺が何を考えているのかも知らない亜矢は、自分の楽しかった思い出話を口にし始める。自分との環境の違いを比べてしまうのが嫌で、俺は素っ気なく返した。一刻も早く、その場から離れたくて、亜矢に背を向ける。
そして、立ち去ろうとした時だった。
腕にかけた上着を整えていると、あることに気がつく。少女から貰ったブレスレットがなくなっている。焦って振り返ると、そのブレスレットを拾い上げ、不思議そうに眺める亜矢が目に入った。
(触んなって)
大事なものを勝手に触られた苛立ちから、早足で亜矢に近づき、ブレスレットを奪うように取り上げた。
「それは、わたしのです」
意外そうな目をしながら俺に謝る亜矢を無視して、急いで離れようと足を踏み出す。しかし、数歩進んだところで、予想外の言葉が俺に向かって飛んできた。
「わかった!“あお兄”だっ!」
記憶の中の少女が俺につけた、あだ名。
それを亜矢はさらっと口にした。俺は息を飲む。
少女があの日、自分に向けて言った言葉と同じことを言った亜矢に違和感はあった。
そんなはずがない。何度も違うと否定した。
あの少女が俺の前にまた現れるなんて奇跡は起きない。そう、思っていた。
「なんで……お前が」
亜矢が懸命にブレスレットのことを話しているのに、俺の耳には届かなかった。
静かに亜矢へと歩み寄る。それに気がついた亜矢は、俺を不思議そうに見つめた。その顔を見た瞬間、俺の中の少女と亜矢の顔がぴったりと重なり合う。自然に顔がほころんだ。
「どっかで聞いた言葉だとは思ってたけど……まさか、また会うとはな」
早く気づけと言うように、俺は亜矢に告げた。
まっすぐな瞳に俺が映し出される。
「白藤さんが“あお兄”?」
その一言に俺は震えた。
懐かしいとか、会えて嬉しいとか、そんな単純な気持ちじゃない。俺を救ってくれた、ずっと探し求めてきた光。それが今、手の届く距離にある。
いつも自分の辛さを笑顔で隠して、人のことばかりを心配する。そんな変わらない亜矢が愛おしくて、もう自分が止められなかった。
「ずっと、俺はお前を望んでたんだ」
いつも強さを見せる亜矢が、今はか弱く、俺の腕に抱かれている。温もりを感じれば感じるほど、もう二度と手放したくないという気持ちが俺を支配した。
(あいつになんか渡せない)
神木に気持ちが傾いているのは知っている。
もうすでに、気持ちを伝え合っている可能性の方が大きい。
けれど、俺は知っている。
執事と令嬢の恋は、どちらかに迷いが生じれば、簡単に脆く崩れ去る。
俺はまだ不安定な場所に立つ二人を揺さぶるように、あえて挑発する態度を取った。これでバランスを崩して倒れていくのであれば、それだけの覚悟しか持っていない証だからだ。
「お嬢様のお世話係はわたしの仕事ですので、神木さんはどうか自分の仕事をなさってください」
神木に何か言いたげにしている亜矢の腕を、強引に引いて歩き出す。不意に神木と目が合い、俺は勝ち誇った笑みを浮かべた。神木の視線は俺から逸れ、亜矢に向けられる。
後から、亜矢に俺のことを聞かされた時の神木を想像した。心に生まれる小さな嫉妬心は、二人を強くするか、弱くするかの二択だ。
どう転ぶのか、それはいずれわかることだろう。
(今から俺一人に疑心暗鬼になるようじゃ、これから先が思いやられるな)
亜矢を部屋に連れていくと、不機嫌そうに俺を睨む。
「さっさとベッドに横になって寝てろ」
返事をせずに、亜矢はベッドに潜り込んだ。けれど、先ほどの神木への態度が気に入らないようで、亜矢はずっと頬を膨らませ、本棚から本を選ぶ俺の背中に視線を送り続ける。
(怒り方も子供かよ)
亜矢に隠れて、少し笑みを零した。怒った顔も可愛く思えるとは、俺も重症だ。
それでも、今は亜矢を甘やかす時ではない。神木と恋愛をするつもりなら、それなりの覚悟が必要なことをわからせなくてはならない。亜矢にとっては残酷な言葉だと知りながら、俺は現実を突きつけた。
「なんの覚悟も持たない奴が簡単にできるものじゃない……必ずお前は傷つく。“一緒に幸せ”なんて望みはまるで通用しない……それが今のお前がしている恋愛だ」
それなのに、亜矢の心は折れずに、頑なな意志を俺に向けた。
「覚悟があればいいの? 覚悟があれば、わたしは神木さんの傍にいられる……そうなんでしょ?」
その純粋さに呆れてしまう半面、まっすぐ神木を想う亜矢が愛おしく感じてしまった。
どうすれば、亜矢は俺を見てくれるだろう。
どうしたら、俺を愛するようになるだろう。
覚悟を知らない亜矢が、覚悟を持たない神木に傷つき、苦しむのは本望ではない。
だから、神木に警告した。
「わたしは今のあなたたちに邪魔立てするつもりなんてありませんから……どうせ、わたしが何もしなくても、あなたたちは勝手に壊れていくでしょうしね」
神木の顔が困惑と怒りで歪む。執事としては完璧であっても、恋愛に関してはまだまだ浅い。恋愛で生じる醜い感情や憎悪を見てきた俺にはわかる。亜矢がどんなにまっすぐに神木を想っていても、何かの弾みで簡単に断ち切られるだろう。それだけの覚悟を神木はまだ持ち合わせていないのだ。
こんな奴に先を越されたという苛立ちから、俺は言わずにいられなかった。
「俺とあんたじゃ“覚悟”が違う……いずれ“その時”が来たとしたら、俺はあんたになんか負けませんから」
その宣戦布告は、俺の想像よりも早く現実となった。
ハワイ旅行を終え、また平穏な日常が戻ってきた頃、その事件は起こった。
「白藤さん、申し訳ありませんがお嬢様のお迎えを頼んでもよろしいでしょうか?」
「はい、それは構いませんが……何かあったのですか?」
いつもより焦った顔の神木に、俺は尋ねる。
「今は詳しいことは伏せますが、旦那様のところに記者が来て、面倒な事態を招く前に記者会見を開くことになりました。その準備のために、今すぐ行かなくてはいけませんので……お嬢様のこと、よろしくお願いいたします」
「承知いたしました」
俺に頼むのは不本意だろう。けれど、それに構う余裕もないようで、神木は慌てて出かけて行った。
「俺も急ぐか」
迎えの準備をし、車を走らせた。約束の時間を少しだけ過ぎてしまったが、そこまで大きな問題になるとは思っていなかった。しかし、学校の門が見えたところで、俺は予想外の光景を目の当たりにする。
「何やってんだよ、あいつ!」
亜矢はなぜか、学校から走って離れていく。車でそのまま追いかけようとハンドルを切るも、車の通れない細道へと入ってしまったため、慌てて道路脇に車を停車させた。いきなりのことに、俺は思わず舌打ちをする。
「ったく、あのバカ」
何があったかは知らないが、晶が何かよからぬことを企んでいるかもしれないと、陽太の指示で送迎を頼まれている。それなのに、勝手に行動して、何か起きたら大変な事態になってしまう。車から下りた俺は、全速力で走り出し、亜矢の後を追った。
数分先の公園でやっと亜矢の姿を見つけ、俺は勢いよく駆け寄り、声を張り上げた。
「アホか、お前はっ!! 急に走ってどっか行くから、心配するだろっ、この馬鹿っ!!」
肩を掴んで亜矢を振り向かせる。その瞬間、俺は息を呑んだ。
今にも涙が溢れてきそうなほど大きく揺らぐ瞳、何かに怯えたように震える身体。亜矢の身に何かが起こったことをその一瞬で知る。
事情を話すこともままならない亜矢を優しく抱き締め、宥めるように背中を撫でる。いつもは笑顔で、俺にも強気な態度を取るのに、今はその面影もない。あまりにも弱々しく震える亜矢をどうにか笑顔に戻したくて、俺は心のままの言葉を口にした。
「もう、安心していいから……お前に泣かれると困るんだ」
亜矢の手が縋るように俺の服を握り締める。
しかし、落ち着きを取り戻した亜矢は健気にも、現実に立ち向かおうとしていた。
「白藤さんの言っていた“覚悟”の意味も、今日のことで少しだけわかった気がする……簡単にはいかないし、この先どうなっていくのかも想像がつかないけど……でもね、諦めない道をわたしは選ぶよ」
背中に響いた言葉に俺はそっと振り向く。亜矢は真剣な目を向けていた。どこまでもまっすぐで揺るぎない瞳に、つい引き込まれそうになる。
「神木さんとの恋が……ただ失って悲しむような結末なんて嫌だもん。“すべてを捨てる覚悟”なんてしない。二人で乗り切って“何も失わない恋”にしたいから」
あまりにも純粋無垢な発言に、俺が逆に恥ずかしくなってそっぽを向く。
「ったく、単純バカ」
茨の道と知りながら、それでも笑顔で進んでいく亜矢の姿に俺はまた恋をした。
それが嬉しくもあり、切なくも思った。




