第4話 『転校生と微かな違和感』
翌朝。私立聖陵高校、2年B組の教室。
僕はいつものように、窓際の最背面——教室の隅の席で、片手で頬杖をついていた。
ぼんやりと窓の外の景色を眺めているようでいて、脳裏を支配していたのは昨夜の出来事だ。
(どうして水野由梨は、あんな短時間で態度を一変させたんだ……?)
彼女の不可解な行動。その理由を考えれば考えるほど、胸の奥に不気味な違和感が募っていく。
(変わったのか……? いや、昔からあいつはそうだった)
昨夜の光景が、鮮明に思い返される。
◇
「ゆ、由梨……」
廃屋の奥、追い詰められた僕は数歩後ずさった。
ゆっくりと距離を詰めてきた由梨は、肩に斜め掛けしていた小さなバッグから何かを取り出すと、それを僕に向かって差し出した。
「これ……使いなよ。そんなに濡れてたら風邪ひいちゃう」
差し出されたのは、丁寧にたたまれた白いタオルだった。
僕は口を半開きのまま、ただ呆然とそのタオルを見つめた。
「は……?」
あまりのギャップに思考がフリーズする。
さっきまで人を狂わせるような勢いでドアを叩きつけていた女が、なぜ突然こんな親切を見せるのか。
だが、思い返せば昔からそうだった。
由梨という少女は昔から読めない。まるで二つの人格を持っているかのように、感情の振り幅が激しかった。
(僕が素直に従っていれば優しくなる。だけど、拒絶した瞬間に“狂人”へと変貌する……)
それが水野由梨だ。
ならば、僕が取れる選択肢は一つしかない。無駄に刺激せず、警戒心を隠して「普通の態度」を演じきることだ。変にトリガーを踏めば、命の危険すらある。
「……ありがとう」
僕はぎこちなく手を伸ばし、タオルを受け取った。
由梨の尖った視線が僕を刺す。ぞくっと背筋が凍りついた。
彼女は古びたソファに腰を下ろすと、着ていた黒い上着を迷いなく脱ぎ捨てた。
「っ!?」
僕は慌てて視線を逸らした。
頬にカッと熱が集まる。もうすぐ18歳になろうという年頃だ。幼少期なら気にしなかったような光景も、今では強烈な毒として僕の理性を揺さぶる。
ちらりと盗み見ると、彼女は黒のタンクトップ姿になっていた。バッグから予備の白い服を取り出し、慣れた手つきで着替えていく。さらに別のタオルで黒髪の水気を拭き取り始めていた。
(予備の服に、タオルが2枚……?)
まるで、最初からこうなることを知っていて準備していたかのような手際だ。
「座ったら? 服、濡れたままだと寒いよ」
由梨が服の裾を整えながら言った。
彼女が穿いているデニムのショートパンツは、幸いそこまで濡れていないようだった。
一方の僕は、制服のシャツもスラックスもずぶ濡れだ。明日学校で着ていく服ではないのが救いだったが、あまりに惨めだった。
(刺激しちゃダメだ……おとなしく指示に従おう)
僕は緊張を押し殺し、対面のソファに気まずく腰掛けた。
由梨はただ無言で、じっと僕の顔を見つめてくる。
その視線があまりに濃厚で、呼吸すら息苦しい。
『何その顔……? 雰囲気に怯えてるの?』
『私のこと、邪魔だと思ってんでしょ?』
過去の記憶——狂気を宿した瞳で僕の身体を押し倒してきた由梨の姿がフラッシュバックする。
僕は小さく首を振り、嫌なイメージを脳外へ追い出した。
と、由梨が立ち上がり、部屋の奥にある古い木製タンスへ向かった。
引き出しから何やら衣服を取り出すと、そのまま隣の暗い部屋へ入っていく。
警戒しながらその背中を追っていると、彼女はすぐに戻ってきた。その手に抱えられていたのは——整然と折りたたまれた、男性用の服とズボンだった。
「これ、着替えなよ。そのままじゃ絶対に風邪ひくから」
「……」
僕は眉をひそめた。
(なんでこの廃屋に、男物の服が用意してあるんだ……?)
疑問は尽きなかったが、背に腹は代えられない。濡れた服を着続けて熱でも出せば、それこそ身動きが取れなくなる。
「……助かる」
「どこで着替えればいい?」と僕が尋ねると、由梨はさっき入っていった部屋を指差した。
「あっち。暗いけど、嫌ならそこで着替えれば?」
ランタンの淡い光が届くリビングに比べ、その部屋は漆黒の闇に包まれていた。
僕が躊躇していると、由梨はくるりと背を向け、両手で自分の目を覆った。
「見ないから。早く着替えちゃいなよ」
選択肢はない。
僕は諦め、大急ぎで濡れた制服を脱ぎ捨て、渡された白いTシャツと膝丈のデニムパンツに袖を通した。衣類が擦れる音が静かな室内に響く。
(背を向けた由梨の唇が、僕には見えない角度で怪しく吊り上がっていたことに、僕は気づく由もなかった。)
「今夜はここで寝なよ。どうせ行く場所なんてないでしょ……私も、ここにいるから」
由梨は僕の向かいのソファに腰を下ろし、じっとこちらを見つめてきた。
激しい暴力を秘めた「動」から、静けさを纏った「静」へ。
その静寂こそが、いつ弾けるかわからない恐怖となって僕の神経を削っていく。こんな状態で眠れるはずがない。
僕は由梨に背を向ける形でソファに横になった。
瞳だけを動かし、警戒を怠らない。
時折後ろを振り返ると、彼女もまたソファに横になり、僕の後頭部を見つめるような体制でじっとしていた。
(嵐が過ぎ去るのを待つしかない……今逃げ出したら、またあの暴走を引き起こしてしまう)
土砂降りの雨音を聞きながら、張りつめた緊張感の中でまどろみに落ちていった——。
(夜半——午前3時。
雨が上がり、静まり返った廃屋に、卓上時計の不気味なカチ・カチという秒針の音だけが響いていた。
すやすやと眠る蓮の上に、影が覆いかぶさる。
いつの間にか起き上がった由梨が、蓮の体を押しつぶすように馬乗りになっていた。
うっとりと濡れた瞳で蓮の寝顔を見下ろし、その頬を、桃色に染まった顔で愛おしそうになぞる。
「……ずっと、こうしていたかった」
狂おしいほどの笑みを浮かべながら——。)
◇
「……はぁ」
現実の教室で、僕は深いため息を吐いた。
「思い出すのはやめよう……とにかく昨夜は無事だったんだ。朝になっても変なことはされなかったし、閉じ込められもしなかったんだから」
自分に言い聞かせるように呟いた、その時だった。
ガラガラガラッ!
教室の前後にある引き戸が勢いよく開き、ガヤガヤと騒がしい生徒たちが雪崩れ込んできた。
「おはよー!」
「ねえ、今日の数学の課題やった!?」
一気に日常の雑音で満たされる教室。
間もなくして、担任の男性教師が教壇に立ち、朝のホームルームが始まった。
「はい、全員席につけー。連絡事項の前に、今日からお前たちのクラスに編入する転校生を紹介する」
教師の言葉に、教室が瞬時にざわついた。
「えっ、転校生!? この時期に?」
「男子!? 女子!? どっち!?」
男子生徒たちが身を乗り出し、女子生徒たちは互いに顔を見合わせて期待に胸を膨らませる。
「男子生徒だ。入ってこい」
教師が廊下に向かって合図を送った瞬間——教室の前扉が静かに開いた。
一歩、教室に足を踏み入れたその人物を見た瞬間、女子生徒たちの口から「あ……」と吐息が漏れた。
中には隠すように机の下でリップクリームや鏡を取り出し、身だしなみを整え始める女子までいる。男子生徒たちも、その圧倒的な存在感に気圧されて言葉を失っていた。
そこに立っていたのは、まるで少女漫画やアニメの誌面から飛び出してきたかのような、極上の美少年だった。
艶やかな黒髪は重厚感がありながらも完璧に切りそろえられ、眉の上で綺麗に分けられたセンターパートの『コンマヘア』。
陶器のように滑らかな白い肌に、吸い込まれそうな涼やかな瞳。
「うそ……マジで……?」
「超イケメンなんだけど……!」
女子たちの目が一斉にハートマークへと変わる。
「じゃあ、自己紹介を頼む」
教師に促され、その少年は優雅に一礼した。
「今日からこちらのクラスでお世話になります、如月 樹です。よろしくお願いします」
通る声、爽やかな笑み。
「如月の席だが……あそこだな。一番後ろの、相沢の隣が開いている。そこを使ってくれ」
教師が指さしたのは、僕の隣の空席だった。
樹は「はい」と短く答えると、教室の通路を滑るように歩いてきた。その一挙一動に、女子たちの視線が釘付けになる。
(うわ……蓮の隣かよ。いいなぁ)
(ねえ見た? あの笑顔、やばくない?)
(蓮も顔は整ってる方だけど、雰囲気が暗いじゃん? 如月くんは喋りやすそう!)
ひそひそと囁かれる女子たちの比較の声。僕には聞こえていないと思っているのだろうが、丸聞こえだ。
樹は僕の隣のデスクに鞄を置くと、椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。
そして、担任が授業の準備を始める騒がしさの中——樹はくるりとこちらを振り返り、僕に向かって爽やかな笑顔を向けた。
そのまま、すっと小さな手を僕の前に差し出してくる。
(なんだ……いきなり)
僕は戸惑いながらも、差し出された樹の手を見つめた。
「よろしくね、相沢くん」
「……あ、ああ。相沢蓮だ。よろしく」
気まずさを隠しながら、僕はその手を握り返した。
(握手……? 男同士で?)
樹の手は、僕の手よりも一回り小さく、驚くほど柔らかかった。
僕自身、男子にしては手が小さい方だと自負していたが、彼の手に触れた瞬間、どこか不思議な違和感が走る。
(……あれ?)
樹の顔を見つめ返した瞬間、デジャブのような感覚が脳裏をかすめた。
どこかで、見たことがある気がする。
この整いすぎた顔立ち、柔らかい瞳、そして不自然なほど繊細な雰囲気。
僕の記憶の引き出しのどこかに、この少年の面影が眠っているような——そんな妙な胸騒ぎがした。




