第5話 群がる蜂と、侵入者
昼休みの到来を告げるチャイムが鳴り響いた瞬間、教室の空気が弾けた。
「如月くん! どこから引っ越してきたの!?」
「ねえねえ、部活とか入る予定ある!?」
「LINEやってるよね!? 交換しよ!」
チャイムの余韻が残る間もなく、2年B組の女子生徒たちがなだれを打って僕の隣——如月樹のデスクを隙間なく取り囲んだ。
高い声でのアピール合戦。露骨なボディタッチ。普段は男子と一定の距離を保っているクラスの女子たちが、まるで狂い咲いたように樹の気を引こうと躍起になっている。
「あはは、みんなありがとう。LINE? うん、いいよ。コード出すね」
樹は嫌な顔ひとつせず、極上の笑みを絶やさずに応対していた。
あちこちからスマートフォンのカメラのシャッター音が響き、女子たちの歓声が教室中にこだまする。
(なんなんだ、この熱量は……)
隣の席で巻き込まれた僕は、居心地の悪さに深くため息をついた。
窓の外へ視線を逸らし、世界の喧騒から自分を切り離そうと試みる。
「ねえ如月くん、これ良かったら飲んで! いちごオレ!」
「ちょっと、順番守りなよ! 如月くん、私のお弁当、半分食べる!?」
他クラスの女子まで押し寄せてきて、樹の机の上には紙パックのジュースや高級そうな焼き菓子が積み上げられていく。
樹はそれら全てを柔らかい物腰で受け止め、さらに女子たちを熱狂させていた。
「……はぁ」
これ以上ここにいたら、僕の精神が参ってしまう。
僕は意を決して席を立った。ガタッと椅子が音を立て、取り巻きの女子たちが一瞬だけ鬱陶しそうに僕を睨みつける。
僕はそれに構うことなく、逃げるように教室を後にした。
◇
賑やかな校舎を離れ、1階の自動販売機コーナーへ向かう。
ポケットから百円玉を数枚取り出し、缶コーヒーのボタンを押した。
ガチャン、ゴトン。
取り出し口から回収した冷たい缶のプルタブを押し開け、一口口に含む。
ほろ苦い液体が喉を通り、火照った頭が少しだけ冷やされていく。
「相沢くん!」
廊下の奥から声がした。
振り返ると、人混みを掻き分けてきた樹が、手にお弁当箱を持ってこちらへ走ってくるところだった。
「これ、よかったら一緒に食べない? 購買、混んでるでしょ」
樹が差し出してきたのは、綺麗に詰められた手作りのお弁当だった。
僕は缶コーヒーを握り直すと、冷淡な視線を彼に向けた。
「いらない。自分のでしょ、自分で食べなよ」
それだけ言い捨て、グラウンドへ続く勝手口の方へと歩き出す。
「あ、待ってよ——」
樹が追いかけようとした瞬間、角から現れた他クラスの女子グループが彼の前に立ちふさがった。
「如月くん! 探したよ〜!」
「ねえ、一緒に屋上行かない!?」
「あ……うん、ちょっと待ってね……」
樹が申し訳なさそうに僕の背中を追おうとするが、女子たちの壁に阻まれて身動きが取れなくなっていた。
僕は振り返らずに足を早めた。
(それでいい)
心の中で自分に言い聞かせる。
(僕みたいな暗くて冴えない奴が、あんな眩しい奴と一緒にいるべきじゃない。住む世界が違うんだ)
◇
日差しの差し込むグラウンドの片隅。僕はベンチに腰を下ろし、缶コーヒーをちびちびと飲んでいた。
目の前では、体育の授業か部活動の残りの男子生徒たちがバレーボールの練習をしている。ボールがコートに叩きつけられる快音と、掛け声が響いていた。
「あー、やっぱり外の空気は落ち着くな……」
缶コーヒーの苦みが、荒んだ心にじわりと染み渡る。
その時、僕の座るベンチのすぐ隣——植込みの陰にあるベンチに腰掛けた男子生徒二人の会話が、風に乗って耳に入ってきた。
「そういえばさ、水野のこと聞いた?」
「あー、あの『殺人鬼の娘』? ついに学校辞めたんだろ?」
「そうそう。まあ、あんな噂だらけじゃ居づらいよな」
「水野」という単語に、僕の手がぴたりと止まった。
「ていうかさ、あいつ家賃とか生活費どうしてんだろな。親父は捕まってて、母親は頭おかしいんだろ?」
「察しろよ。あの顔だぞ? 夜の街で売春でもして稼いでんじゃないのwww」
「ギャハハ! マジかよ! パパ活女子かよ、関わんなくて良かった〜!」
下品な嘲笑が、初夏の風を汚していく。
(……っ)
胸の奥が、焼夷弾でも落とされたかのようにカッと熱くなった。
僕は由梨が怖い。あいつの狂気が恐ろしい。
だが——何も知らない連中が、適当な噂話で彼女を汚物のように嘲笑うのを聞くのは、それ以上に吐き気がした。
ふと、昨夜の廃屋の記憶が脳裏をよぎる。
(……待てよ)
あの時、由梨が僕に渡してきた、埃ひとつついていない男物の服。
廃屋の元住人の遺品にしては、あまりにも新しく、丁寧に折りたたまれていた。
(まさか……あいつらの言ってる噂は、本当なのか……?)
由梨は、僕の知らないところで、誰か別の「男」と関係を持っているのだろうか。
あの服は、その男のものだったのか——?
ドクン、と不快な脈動が胸を打つ。
不吉な疑念が頭を支配しそうになった、その時だった。
「ふぅ……あそこから抜け出すの、本当に大変だったよ」
不意に隣から声がして、樹が僕の横に滑り込むように腰掛けた。
青空を見上げながら、爽やかに息を吐き出している。
「……なんでここが分かった?」
「相沢くんが歩いていくのが見えたからね」
樹はクスクスと笑うと、膝の上に包みを広げた。
「やっぱりお昼、食べてないでしょ? ほら、カレーライス持ってきたんだ。一緒に食べようよ」
樹はお弁当箱の蓋を開け、スプーンを僕に差し出してきた。
「……」
その手つき、差し出し方、そして距離の詰め方。
(なんなんだ……?)
デジャブのような違和感が、全身の毛穴を開かせる。
なぜだろう。樹のこの過剰なまでの親切さと執着が——
——水野由梨の影と、重なって見える。
「僕の顔に、何か付いてる?」
首をかしげる樹の顔を見つめながら、僕は必死で頭を振った。
(考えすぎだ。昨夜のことで精神が過敏になってるだけだ……)
「相沢くん?」
「……いや、なんでも——」
言いかけたその時。
「——あれ? 蓮じゃない」
鈴が転がるような、透き通った声が頭上から降ってきた。
振り返ると、そこに立っていたのは美しい黒髪を風になびかせた少女だった。
整った前髪、品のある佇まい。聖陵高校の“マドンナ”と称される、青山莉奈だった。
「青山……さん?」
なぜ彼女が僕の名前を知っているのか、なぜここにいるのか。困惑する僕を余所に、莉奈はごく自然な動作で僕の反対側の隣——ベンチの空きスペースに腰を下ろした。
一瞬にして、ベンチの空気が異様な重圧に包まれる。
学校一の美少年である転校生、如月樹。
学校一の美少女である学園のマドンナ、青山莉奈。
その二人に挟まれる格好になった僕は、文字通り身動きが取れなくなった。
「初めまして、転校生さん」
莉奈が、樹に向かって微笑みかける。
だが、その瞳には一切の温度が宿っていなかった。
「……初めまして、青山さん」
樹もまた笑みを返すが、その爽やかな表情の裏で、瞳の奥が氷のように冷たく冴え冴えと光っていた。
二人の視線が空中ではじけ飛ぶ。
(……なんなんだよ、この状況は……!?)
僕の肌を、尋常ではない冷気が突き刺していた。
周囲の喧噪が遠のき、二人の間に漂う目に見えない「刃」のせめぎ合いだけが、僕を押し潰そうとしていた。




