第3話 彼と一緒に行くべきではなかった場所に閉じ込められてしまった
苦い記憶が脳裏を駆け巡った瞬間、全身の血が凍りついた。
タッ、タッ、タッ……。
雨音を切り裂き、由梨の足音がまっすぐ僕へと近づいてくる。
「っ……あ……」
頭を強く押さえた。意識の奥底から、胸をかきむしるような恐怖の記憶が蘇ってくる。
僕の通学路を待ち伏せし、逃げ場を塞ぎ、狂おしいほどの執着で「一緒にいて」と縋りついてきたあの姿。
濡れた制服から伝わる冷気と、それ以上に冷たい彼女の視線。
本能が、耳元で甲高く警報を鳴らしていた。
——逃げろ。
考えるより先に、身体が勝手に弾け飛んでいた。
濡れたアスファルトを蹴り、僕は由梨に背を向けて全力で走り出す。
「ハッ、ハッ、ハッ……!」
チラリと後ろを振り返った瞬間、心臓が跳ね上がった。
由梨が、手にしていた傘を躊躇なく投げ捨て、雨の中に飛び出して追いかけてきていたのだ。
濡れて肌に張り付く黒髪の間から、その瞳がまっすぐに僕だけを捉えている。
「くそっ……!」
恐怖で息が詰まる。胸の奥が目一杯に締めつけられ、肺が破れそうだった。
がむしゃらに足を動かした。どこへ向かっているのかすら分からない。
だが——曲がり角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできた光景に、僕は思わず足を止めてしまった。
錆びついた鉄檻の門。荒れ果てた庭。
見覚えのある、あの廃屋だった。
「なんで……なんで、ここに来ちゃったんだよ……!」
血の気が引いた。絶対に近寄りたくなかった、僕のトラウマそのものの場所。
恐怖に囚われた潜在意識が、あろうことか僕をこの呪われた場所に導いてしまったのだ。
「しまっ——」
慌てて踵を返し、門の外へ逃げ出そうとした。
しかし、遅すぎた。
ギィ……と門の隙間を塞ぐように、濡れねずみになった由梨が立っていた。
前髪は雨を含んで重たく垂れ下がり、彼女の瞳を暗く覆い隠している。
だが、その濡れた唇の端だけは——歪んだ笑みを形作っていた。
顔からスーッと血の気が引いていくのが分かった。
逃げ場は、完全に潰された。
(最悪だ……! なんでこんなところまで逃げてきてんだよ、僕のバカ……!)
じり、と由梨が足を進める。
獲物を追い詰めた肉食動物のように、ゆっくりと、僕の反応を楽しむかのように。
「蓮……どうして逃げるの?」
雨音に紛れるような、静かな声だった。
「私、何か悪いことした……?」
由梨が一歩、また一歩と近づいてくる。
「ずっと一緒にするって……約束したよね?」
次の瞬間、彼女の顔から笑みが消えた。
代わりに浮かび上がったのは、底なしの深い哀しみ——そして、狂気。
「ねえ……どうして約束、破るの……?」
「……っ!」
返事をする余裕なんてない。由梨が一歩踏み出すたびに、僕は後ずさりした。
背中に冷たい感触が触れる。いつの間にか、廃屋の古い木製ドアの前まで追い詰められていた。
考える隙もなく、僕は後ろ手でドアノブを回し、廃屋の中へと飛び込んだ。
ホコリとカビの匂いが鼻をつく。トラウマの記憶がフラッシュバックするが、背に腹は代えられない。とにかく、アイツから離れることだけが頭を支配していた。
扉を閉めようと振り返った——その瞬間。
由梨が、恐ろしい速度で間合いを詰めてきていた。見開かれた瞳が目の前に迫る。
「うわぁぁッ!」
反射的に、体重をかけてドアを叩きつけた。
バンッ……!!
「くそっ……! くそッ……!!」
ドアに背中を押し付け、必死でドアノブを固定する。
直後、外から猛烈な衝撃が襲いかかってきた。
ガンッ! ガンッ!
「開けてよ、蓮ぇ……っ! ははっ……あはははっ! 狂っちゃうよ……私を狂わせないで……ッ!」
扉の向こうから、狂気を含んだ甲高い叫び声と笑い声が響き渡る。
「狂ってんのはお前だろ……! 離せ! 来るなッ!」
冷や汗が全身から吹き出し、制服の雨水と混ざり合って滴り落ちる。
腕も、足も、恐怖でガタガタと震えて止まらなかった。
ドカンッ! ドカンッ!
何度も、何度も扉が叩かれる。
だが——数分後、不意にその衝撃がピタリと止んだ。
「ハァ……ハァ……っ」
息を呑み、耳を澄ませる。
ドアの向こうからは、叩きつける雨の音しか聞こえてこない。
(い、行ったのか……?)
数秒間、固まったまま様子をうかがった。
この扉一枚では心許ない。僕はすぐ脇にあった、古びた小さな木製タンスに目をつけた。これなら扉の補強に使える。
床を擦る嫌な音を立てながら、必死でタンスをドアの前まで押しやった。
キィィィ……ガタガタッ。
静まり返った館内に、木が擦れる音が不気味に響く。
なんとかタンスでドアを塞ぎ終えると、僕はゆっくりとリビングの窓辺へ近づき、外の様子を覗き込んだ。
雨脚は強まる一方だった。落雷のフラッシュが暗闇を白く染める。
ドアの前には、もう由梨の姿はなかった。
「はぁ……っ……」
膝から崩れ落ちそうになるのを耐え、胸を撫で下ろした。
「助かっ……た……」
あの狂人から逃げ切れた。そう確信し、安堵の息を吐き出した——その時だった。
ガタァンッ……!!
背後の暗闇から、巨大な破壊音が響いた。
「っ!?」
心臓が跳ね上がり、弾かれたように振り返る。
視線の先にあるのは、ホコリをかぶった古いソファと、脚の折れかけたローテーブル。そして、画面の割れたブラウン管テレビ。
その奥には、勝手口へと続く暗い廊下とキッチンが広がっていた。
(お、おばけ……? いや、まさか……)
恐怖を打ち消すように自分に言い聞かせるが、指先の震えは止まらない。
僕は生唾を飲み込み、目を凝らしながら、静かに音のした奥の部屋へと歩みを進めた。一歩進むごとに、心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打つ。
そして、僕が廊下の角に差しかかった瞬間——。
ギギギギ……ッ。
古い引き戸が、重苦しい悲鳴を上げてゆっくりと開いた。
「ひっ……!」
足がすくみ、その場に縛り付けられた。
開いた暗闇の中から、ゆらりと現れた影。
そこに立っていたのは——僕が必死で逃げてきたはずの、由梨だった。
「な……なんで……」
声がかすれた。思考が完全にフリーズする。
そうだった。四年前、由梨はこの廃屋に溜まり場のように出入りしていたのだ。
表の玄関がダメなら、裏の勝手口から入れることくらい、彼女が知らないはずがなかった。
雷光が部屋を照らし出す。
雨に濡れた由梨の瞳が、暗闇の中でぞっとするほど鋭く、僕のことだけを見つめていた。




