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第2話 再会と思い出

「……久しぶりだね」


その声を聞いた瞬間、僕の喉はカラカラに干からびた。


「ゆ、由梨……?」


彼女の名前を口に出すことすら、恐ろしいほどの苦痛を伴う。


由梨は差していた傘を少し傾け、僕の顔を覗き込んできた。


艶やかな黒い髪。


彫刻のように整った、吸い込まれそうなほど美しい顔立ち。


そして——どこか凍てつくように冷たい、あの笑み。


「うん。私だよ」


由梨は嬉しそうに微笑んだ。


「蓮……背、伸びたね」


「……なんで、ここにいるんだよ」


「なんで?」


由梨は小首をかしげた。


「雨が降ってきたから」


「……それだけ?」


「ううん」


即答だった。


由梨が一歩、僕の方へと踏み出す。


「蓮がここにいるって、わかってたから」


「……!?」


心臓が跳ね上がった。


「どうして……どうして僕がここにいるってわかるんだよ……!」


「わかるよ」


まるでそれが当然の理であるかのように、由梨は答えた。


「だって、蓮だもん」


背筋にゾクリとした冷気が走る。


「昔もそうだったでしょ?」


「雨が降ると、蓮は外に長くいられない」


「特に雷が鳴ると、絶対に無理して歩こうとしない」


「……」


「雷、怖いもんね?」


——ドカンッ!


まるで彼女の言葉を証明するかのように、遠くで空を割るような雷鳴が轟いた。


僕の身体が跳ねるように強張る。


由梨はその瞬間を見逃さなかった。


「ほらね」


彼女は小さく、くすりと笑った。


「まだ怖がってる」


「……違っ、怖くなんて——」


「嘘つき」


優しい声だった。


だからこそ、余計に恐ろしい。


「昔から全然変わってないよ、蓮」


「雷が鳴ると、いつも耳を塞ぎそうになる」


「怖くないフリをしてても、本当は身体が震えてる」


「……もう、四年前の話だろ」


「四年前のことだからって、私が忘れると思う?」


由梨はパチリと瞬きをした。


「忘れるわけないよ」


そのまっすぐな瞳が、僕の視線を射抜く。


「私、蓮のことなら全部覚えてる」


「好きなものも」


「嫌いなものも」


「怖がっているものも」


「……それに」


由梨の視線が、ずぶ濡れになった僕の制服へと落ちた。


「蓮には、もう帰る場所なんてないってこともね」


「……っ」


胸が押し潰されそうになる。


彼女の言ったことは、痛いほどの事実だった……。あいつは本当に、僕のことを全部覚えているんだ。


昔の記憶が鮮明に蘇り、僕の胸を恐怖と戦慄で満たしていく。


僕が由梨と急接近したのは、中学一年生の時だった。


十三歳だったあの頃、両親が事故で亡くなり、僕は引っ越しをすることになった。引き取ってくれた叔父の家に同居し、同い年の従兄弟と同じ中学に通うことになったのだ。


見知らぬ土地の学校で、僕にできた唯一の行動は、従兄弟である相沢陸の後をついてまわることだけだった。


当然のように、僕は陸の友人グループに交じった。


だが、元々根暗で口数が少なく、人と接するのが苦手だった僕は、一人で静かにしている方が楽だった。


上手くグループに馴染めず、次第に僕はクラスで浮いた存在になっていった。


それには理由があった。僕が話をしようとすると遮られ、輪に入ろうとしても「妙な奴」を見るような不快な視線を向けられた。さらに、陸たちのグループのノリが次第に過激で攻撃的なものへ変化していったことで、僕は嫌気がさして自ら距離を置くようになったのだ。


どうしてあそこまで陰湿になれるのだろう。結局、自分には合わないと感じ、僕はクラスで大人しく過ごすことを選んだ。


何をしても無視され、誰も僕の言葉に耳を傾けてはくれない。


僕は、心の底から孤独だった。


そんなある日のこと。


自分の部屋で横になっていた時——。


「ギャーッ!!」という、女性の金切声が響き渡った。


驚いた僕は跳ね起き、窓から外の様子を覗き込んだ。


庭の隅で、一人の少女が膝を抱えて丸まっていた。


(……同い年くらいかな?)


暗がりの中、僕は窓越しに彼女を見つめた。


(なんでこんな夜遅くに、外で丸くなってるんだろう)


叔母の家の隣にある一軒家に目をやる。


(さっきの叫び声、あの家から聞こえたような……)


なぜあの少女は、あんなに寂しそうにうずくまっているのだろう?


それ以来、僕はその少女を目で追うようになっていた。


彼女は毎晩決まって夜の八時になると、僕の家の庭の前にやってきて、同じようにしゃがみ込んで丸くなっていたのだ。


なぜいつもあそこにいるのだろう。悪い奴に声をかけられたりしないのだろうか。そんな余計な心配が頭をよぎる。


「何見てんだよ」


陸が嫌味な笑みを浮かべながら近づいてきて、窓の外を覗き込んだ。


「あいつ、由梨ってんだよ」


陸は興味なさそうに吐き捨てた。


「由梨……?」


確認するように呟く。


「そう、B組の奴」


「顔だけは可愛いだろ?」


僕はもう一度、窓の外へ視線を向けた。


確かに横顔からでもわかる美少女だった。長く伸ばした髪を一つに結び、儚げで綺麗な目元が印象的だった。


「けどな、絶対あいつに近づくなよ」


陸は低く警告した。


「……犯罪者の娘なんだから」


「え……?」


思いがけない言葉に、僕は息をのんだ。


「京都からここに引っ越してきたのもさ、父親が誘拐と計画殺人に加担したのがバレそうになったからなんだってよ。それだけじゃなくて、前には違法物の密輸にも関わってたらしいぜ」


「デカい事件だったから、この辺まで噂が広まってんの」


陸は僕を脅すように説明を続けた。


「じゃあ……毎晩聞こえるあの女の叫び声は?」


「母親だろ」


「旦那が犯罪ばっか犯すから頭おかしくなったんだよ。ストレスで毎晩のように夫婦喧嘩してんだとさ」


陸は「チェッ」と舌打ちをした。


「マジで最悪だわ。なんであんな不吉な一家が隣に引っ越してきたんだよ」


「とにかく、絶対関わるなよ。ろくなことになんねーから」


そう言い残して陸は去った。


窓の外を見ると、もう少女の姿はなかった。


学校の生徒たちもまた、由梨のことを酷く嫌っていた。


ある日の登校時、由梨の家の前を通った時のことだ。


二人の男子と一人の女子が、由梨の家の門に落書きをしているのを見かけて、僕は思わず足を止めた。彼らはビリビリに破いたノートの切れ端を敷地内に投げ散らかし、散らかしまくっていた。


「ひひっ、出てきたぞ! 逃げろ! 父親に殺されるぞ!」


「待ってよ〜!」


「うわ、手にチョークついて汚ねえ!」


彼らはキャッキャと下品に笑いながら、逃げるように走り去っていった。


やっぱり、うちの中学の生徒だった。


……一体、何を書いていたんだ?


気になった僕は、由梨の家の前で足を止めた。


鉄製の門扉には、白いチョークで殴り書きされた文字がびっしりと躍っていた。


『犯罪者の娘 由梨』


『誘拐魔の子供』


『殺人鬼の娘www』


『ここを通る時は走れ! 連れ去られるぞ!』


『目を合わせたら死ぬ! 殺される!』


不気味なバツ印のついたドクロの絵まで描かれていた。


ガチャリと音を立ててドアが開き、リュックを背負った由梨が出てきた。登校しようとしていたのだろう。


しかし門の落書きを見るやいなや、彼女は苛立ちを露わにして門をバタンと閉めた。家から絞った濡れ雑巾を持ってくると、無言で門の落書きをゴシゴシと擦り始めた。


ゴシ、ゴシ、ゴシ……。


「……何見てんの? あんたも落書きしに来たわけ?」


由梨が振り向き、感情のない声で僕を射抜いた。


初めて、彼女と正面から目が合った。


間近で見る彼女の顔は、驚くほど整っていた。いつも丸まって暗くうずくまっていた少女と、今、こうして視線を交わしている。


「……さっさと行きなよ!!」


その氷のように冷たい声と、空洞のような瞳に気圧され、僕は思わず数歩後ずさりし、そのまま逃げるように走り去った。


陸の言葉が頭をよぎる。


やっぱり、近づいちゃダメなんだ……。


由梨の悪評は、学校中で完全に定着していた。


『頻繁に学校をサボる』


『授業を抜け出して早退する』


『教科書も筆記用具も持ってこない』


『上履きすら履かずに廊下を歩いている』


『宿題を一切やってこなくて毎日のように教師に怒られている』


『筋金入りの遅刻魔』


そして何より——『誘拐犯と殺人鬼の娘』。


それだけの理由で、由梨は学校中の人間から心底嫌われ、忌み嫌われていた。


けれど、授業中にいつも机に突っ伏して丸くなっている彼女の背中を見るたび、僕は夜の庭で丸くなっていたあの姿を重ねてしまっていた。


それが、どうしようもなく僕の心をざわつかせるのだ。


◇


そして、その日の放課後。


「じゃあなー! 今日カラオケ行こうぜ!」


「マジ? 部活サボっちゃう?」


「おい、置いてくなよ〜!」


賑やかな話し声とともに、生徒たちが一斉に下校していく。


僕は靴箱の前でスニーカーの紐がほどけていることに気づき、しゃがみ込んだ。


固く結び直し、よし、と立ち上がった時だった。


ふと、女子トイレの方から妙な違和感を覚えた。


静まり返った廊下に、コンコン、と奥の個室を叩くような鈍い音が響いていたのだ。


すでに生徒の大半は下校しており、校内は閑散としている。


女子トイレに入るのは気が引けたが、胸騒ぎに突き動かされるようにして、僕はそっと中を覗き込み、ドアをノックした。


無駄なことだと分かっていた。けれど今思えば、あれが全ての始まり——僕の悪夢の幕開けだったのかもしれない。


「……誰か、いるの?」


「助け……て……誰か……」


消え入りそうな、弱々しい女子の声。


外側から掃除用のモップがドアノブに突っ込まれ、鍵代わりにロックされていることに気づいた。


僕は慌ててモップを引き抜いた。


ドアを開けた瞬間——中にいた少女が、崩れ落ちるように僕の胸へと倒れかかってきた。


「うわっ……!?」


僕たちは重なるようにして冷たい床に倒れ込んだ。


覆いかぶさった彼女の身体を支え上げると——そこには、顔を蒼白にした由梨の姿があった。


「うぐっ……ゆ、由梨……!? 大丈夫か!? 顔色がすごく悪いぞ……!」


「なんでこんなところに閉じ込められてたんだよ……!」


彼女の息は荒く、心拍数も信じられないほど弱かった。


パニックになりかけた僕は、慌てて立ち上がろうとした。


(保健室の先生、まだいるかな……!)


「ちょっと待ってて! 今、先生を呼んでくるから——」


そう言って離れようとした瞬間、細く柔らかい手が、僕の手首を強く掴んだ。


「っ……!?」


思いがけない力で引き寄せられ、次の瞬間、僕は彼女に強く抱きしめられていた。


ドサッ……!


「ゆ、由梨、離してくれ……! 保健室に連れて行くから!」


ぎゅっ。


由梨の指先が、僕の制服の背中に爪を立てるほど強く食い込む。


(すごい力だ……)


彼女に強く抱きしめられたまま、僕は必死で身体を引き剥がそうともがいた。


「行かないで……お願いだから、どこにも行かないで……」


由梨の口から漏れた切実な絞り出すような声に、僕の心臓はドクンと大きく跳ね上がった。


生まれて初めてだった。


僕という存在が、誰かにこんなにも強く求められたのは。


耳元で感じられる彼女の吐息。密着した身体から伝わってくるのは、恐怖と寒さでガタガタと震える小さな体温だった。


気づけば、僕の身体は勝手に動いていた。


彼女を落ち着かせるように、僕は優しくその背中をぽんぽん、と叩いた。


トン、トン、トン……。


(少しは落ち着いたかな……?)


彼女の呼吸が少しずつ整っていくのを感じる。


(危なかった……。もし僕がドアを開けなかったら、あいつは明日の朝までここに閉じ込められてたかもしれない)


夜になれば真っ暗になる校舎。そこにたった一人で閉じ込められる恐怖を想像し、僕は背筋が寒くなった。


あの日からだった。


僕が由梨に近づく勇気を持てるようになったのは。


僕は彼女を抱き返した。


だって彼女もまた、僕と同じ暗闇の中にいたから。


ううん……。


きっと僕なんかより、ずっと深い暗闇の中にいたから。


ドクン、ドクン……。


抱きしめられた由梨の頬が、朱色に染まっていった。

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