第1章 雨季
毎週木曜日から日曜日に章を更新します。
梅雨の、ある夜のことだった。
あいつは僕を、僕の突飛な妄想ですら思いつかないような場所へと連れ出した。
目の前に立ちはだかっていたのは、一軒の古びた二階建ての廃屋。窓ガラスは埃で真っ白に汚れ、その歪んだ反射の奥には、吸い込まれそうなほどの暗闇が広がっていた。
「ゆ、由梨……もう帰ろうよ。なんでこんなところに……」
額から冷や汗が伝い落ちるのを感じながら、僕——蓮は尋ねた。
「蓮……どうしてそんなに急ぐの? 外はまだ雨が降っているのに」
平坦な声だった。表情ひとつ変えず、彼女は静かにそう言った。
その無表情さが、かえって僕の焦燥感をかき乱す。そもそも、なぜこんな気味の悪い廃屋に僕を誘ったのだろうか。
——ゴロゴロ、ドカンッ!
空を割るような雷鳴が響き渡り、僕は思わず肩を跳ね上げた。僕がこの世で一番苦手なもの、それが雷だった。
由梨は、くすりと小さく笑った。
「ほらね。無理して帰ろうとしちゃダメだよ。それに……ここなら、誰にも邪魔されずに二人きりで過ごせるでしょ?」
そう言って、由梨は笑みを浮かべた。
僕の顔は強張り、きっと今、血の気が引いて真っ青になっているに違いなかった。
無理に走って帰ろうとすれば、雷に打たれるかもしれない。そんな恐怖が足をすくませる。
暗雲の隙間から、紫色の閃光が幾重にも走った。
由梨が一歩踏み出し、廃屋のギシギシと鳴るドアに手をかける。
僕は眉をひそめた。
「言ったでしょ? 鍵なんてかかってないって。さあ、入って。ここなら外の邪魔なものから離れて、二人だけの時間を過ごせるよ」
彼女は振り返り、僕を見つめた。
息をのむほど美しい顔立ちをしているのに、その眼光と笑顔には、どこかぞっとするような恐ろしさが宿っていた。
扉が開かれた瞬間、中に溜まっていた冷気が外へと溢れ出し、肌を刺す。暗く不気味な室内を見つめながら、僕は意を決しようとした。
「おいで」
由梨は僕の手を握りしめ、強引に中へと引きずり込んだ。
その瞬間——足を踏み入れた途端に、肌を泡立たせるような刺すような悪意と気味の悪さが、全身の皮膚にへばりついてきた。
限界だった。
「ひっ……!」
僕は振りほどくようにして外へ飛び出した。
雷鳴が響き渡り、土砂降りの雨が視界を遮るのも構わず、ただひたすら夢中で駆け抜けた。あんなに恐ろしかったはずの雷への恐怖さえ、今の僕にはどうでもよかった。
雷なんかより……あの家よりもずっと暗く、底知れない『何か』を秘めた君の存在の方が、何倍も恐ろしかったから。
◇
それから、四年が過ぎた。
ザァァァァ……。
雨音が、絶え間なく窓を叩き続けている。
放課後の教室。
「うわっ、服が最悪に濡れたわ……」
隣の席の男子生徒が、不機嫌そうに制服の袖を払った。
「マジでこの雨、いつ止むんだよ」
「雨が降ってるって分かってて外出たお前が悪いだろ。梅雨時期なんだから雨が降るのなんて当たり前じゃん」
別の男子が呆れたようにツッコミを入れる。
すると、前の席にいた女子生徒が椅子を引いて、男子たちの輪に加わった。
「ねえねえ、みんな。うちの学校の近くにあるあの廃屋……この雨でどうなってると思う?」
「あそこか? こんな雨じゃ、絶対ジメジメして真っ暗だろ。空もどんよりしてるしな」
「だよね……。まあ、あんなボロ屋、誰が気にするかって話だけど。マジでどうでもいいわ」
別の男子が生返事を返す。
「ちょっと、知らないの? 幽霊って湿気が多くて暗い場所が好きらしいよ。もうあの廃屋、おばけの住処になってるかもね」
女子生徒が脅すように言うと、男子は露骨に眉をひそめた。
「はあ? 馬鹿馬鹿しい。幽霊なんているわけねーだろ」
「あ、そうだ。悠人ってさ、部活の帰りあそこらへん通るんじゃなかった?」
「それがどうかしたか?」
「気をつけなよ〜? 連れて帰って憑依されちゃうかもよ?」
女子生徒はおどけて見せた。
「冗談抜きでさ……あそこって四年前、家族がサイコパスに惨殺された殺人現場でしょ? あれ以来ずっと放置されてるし、犯人もまだ捕まってない噂じゃん……」
別の女子が声をひそめて付け加える。
ひそひそと交わされる陰口。それが僕の耳に届いた瞬間、忘れていたあの日の記憶がフラッシュバックした。
四年前のあの日、僕と由梨がいたあの廃屋での出来事——。
ぞわりと背筋が凍りつき、僕は無意識に頭を振って気味の悪い記憶を振り払おうとした。その拍子に、手元からシャーペンがすっぽ抜け、床を転がっていく。
コロコロと音を立てて転がるペンを拾おうと、僕が身をかがめたその時——。
「うわっ……びっくりした!」
それまで話していた女子生徒の一人が、急にわざとらしい悲鳴を上げた。
「な、なんだよ急にビクッて動いて……。ペン拾おうとしてただけかよ。本気で幽霊かと思って心臓止まるかと思ったわ」
「ウケる。つーか、蓮ってマジで幽霊みたいだよな。いっつも陰気くさくボッチでさ、目立ちたいのか知らんけど」
「顔だけは無駄に良いからって調子乗ってんの? あの気取りまくった暗い態度、ホント見ててイライラするんだけど。誰も話しかけねーっつーの」
冷ややかな視線と、嘲笑を含んだひそひそ声が集まってくる。陰キャで社交性のない僕は、クラスで完全に浮いた存在であり、鬱陶しい嫌われ者だった。
「てかさ、あいつが浮いてるのって自分の性格のせいだけじゃないでしょ」
女子の一人が、くすぐすと不吉な笑みを漏らした。
「隣のクラスの『あの女』……由梨とつるんでるからじゃん」
「あー……父親がギャンブル狂いの酒中毒で、犯罪者スレスレの家族のやつか」
「そうそう。由梨も暗くて気味が悪いから学校で完全に孤立してるし。お似合いの『陰キャお似合いカップル』って感じ? ふたりとも変人だしね」
「てかさ、由梨って最近ずっと学校サボって休んでるじゃん? 噂だけどさ……あのクズな父親に金づるにされて、売春でもさせられてんじゃないの? パパ活とかさ」
「ハハッ、あり得る! 金のためにオジサン相手にしてたりしてな!」
教室に下品な笑い声が響き渡る。
僕はその鋭く突き刺さるような悪意をただ無視し、横の窓の外へと視線を向けた。彼らが何を言おうと興味もないし、反論する気すら起きなかった。
なにより……僕は、由梨という人間がどういう存在かを知っている。
脳裏に一瞬だけ浮かんだ彼女の狂気じみた笑顔を、僕はもう一度頭を振って強く打ち消した。
(……だからって、あいつらが勝手な推測で由梨を『体を売っている』なんて侮辱していい理由にはならない)
僕は再び首を振る。
……どうして僕が、あいつの心配なんてしなければいけないんだ。僕の深い心の奥底では、未だにあいつという存在に囚われ続けているのだろうか。
◇
放課後、僕は自宅——正確には、叔父の家へと向かって歩いていた。
両親は僕が七歳の時に事故で他界した。今年で十七歳になるから、二人を失ってからもう十年が経つことになる。
家にたどり着き、玄関のドアノブに手をかけて引いてみた。
……カチャ。
鍵がかかっていて動かない。
おかしいな、と思い耳をすませると、中から重低音の効いた賑やかな音楽が漏れ聞こえていた。
トントン、とドアを叩く。
「おい、クソガキ! 開けねえぞ! 友達の家にでも泊まれや! 今から連中とパーティーしてんだよ!」
中から荒々しい男の怒鳴り声が響いた。
従兄弟の声だ。叔父と叔母の息子である。
そういえば、叔父と叔母は今日から仕事の出張で不在だったことを思い出した。
僕は胸の奥に溜まった息苦しさを吐き出すように、深く、長くため息をついた。
(友達……?)
僕にそんなものがいるはずもない。
一体、どこへ行けというのだ。
あのロクデナシの従兄弟は、学校でも僕を徹底して無視し、不良仲間たちとつるんでいた。叔父や叔母がいる時でさえ、僕がこの家に居座っていることへの不快感を隠そうともしなかったのだから。
パラパラと、再び雨が降り始めていた。
止んだと思ったら、また雨。
雷は恐怖でしかないが、僕には他に選択肢がなかった。
雨粒が制服を濡らし、冷気がじわじわと肌を刺していく中、僕はただ当てもなく歩き続けた。
あてもなく、どこへ向かうでもなく。
胸の中は、ぽっかりと空洞になったように虚ろだった。
学校では嫌われ、友達もおらず、自分の存在価値すら認められない。居場所であるはずの家でさえ、叔父一家にとっては邪魔者でしかないのだから。
僕は俯いた。
雨水に紛れて、一筋の涙が頬を伝い落ちていく。
激しく打ち付ける雨のおかげで、この胸のつかえと涙を、誰にも気づかれずに吐き出すことができた。
その時だった。
「……蓮」
耳になじんだ、鈴を転がすような透き通った女性の声が僕を呼んだ。
記憶のどこかに深く刻み込まれた、あまりにも聞き覚えのある声。
ハッと息を呑み、ゆっくりと顔を上げる。
そこには——彼女が立っていた。
傘を差し、まっすぐに僕を見つめながら、あの時と同じ笑みを浮かべている。
「……久しぶりだね」
僕の身体が、凍りついたように動かなくなった。
ガタガタと膝が震え出す。
これほどの恐怖が胸を締め付けたのは……一体、いつ以来だっただろうか。




