3話 ヘンタイども
川平啓太の変化を嘆いていたのは霊能界隈の者ばかりではなかった。もっと地下の、アンダーグラウンドの、さらにその奥深くに潜む住人たちの間でも啓太の変貌はある種の憤懣を持って語られていた。
「全くあいつにはここ数年、失望させられっぱなしだぜ」
そうぼやきながらコップに入った日本酒をぐいっと呷っているのは着流しを着た職人風の男だった。
「久しぶりに遊びに行ってやったら言うに事欠いて”おまえらと友だちづきあいした覚えはねえ。通報しないだけ感謝しろ!”だとよ! その後、犬みたい追い払いやがってチクショウ!」
飲み干したグラスをだんと卓袱台の上に置き、さらに傍らの一升瓶を抱えるとその中身を空のコップへとドボドボ注いだ。
「まあ、今は川平さんも色々とお立場がありますからね」
そう答えたのはスーツを着た小太りの男だった。卓袱台を挟んで職人風の男の反対側に座っている。彼は縁が欠けた湯飲み茶碗で出がらしのお茶をゆっくりと飲んでいた。アンダーグラウンドの世界で職人風の男は親方、小太りの男は係長と呼ばれていた。
彼らはとある廃ビルの完全に資材に埋もれた地下室のそのさらに奥の秘匿された小部屋にいた。
元々はもう少し表層に根城を持っていたのだが、昨今のコンプライアンスの強化及び警察のまっとうな活動によって、闇へ、地下へと追いやられたのだ。
一応、台所やシャワールーム、ソファに冷蔵庫が完備され、中央には畳、卓袱台、積み上げた布団などの生活スペースがあるが、表社会から隠れ潜んで生きる者特有のうらぶれた雰囲気が空間を満たしている。裸電球の弱々しい黄色い明かりが中年男二人を侘しく照らし出していた。
そんな秘密の拠点で親方は再び怪気炎を上げていた。酒を呷り、
「ちくしょう! なーにがお立場だ! なーにがバラ色のキャンパスライフだ! オンナとよろしくやることばかり熱心になりやがって! 知ってるか、係長? あいつここ五年たったの一度も公衆の面前で裸になってないんだぞ! ただの一度もだ!」
それがまるでとんでもない大罪であるかのように親方は糾弾した。それから急にどこかしんみりとした口調になってとんとグラスを卓袱台に置いた。
「……ほんと〝裸王〟の称号が泣くぞ、バカヤロウ」
係長も神妙な面持ちになる。まるで惜しい人を亡くしたお通夜のような雰囲気だ。ちなみに川平啓太は何度かストリーキングで逮捕されたことがあるが、自ら望んで全裸になったことはないし、裸王と名乗ったこともない。だが、そこら辺の理屈はこの二人には通じないのだった。
「あいつはもう終わっちまったよ」
そう愁い顔で呟く親方は名うての下着ドロで、係長はドMのドヘンタイなのだった。
近年、警察の正当かつまっとうな働き(何度も強調するが)により、親方はその活動範囲を極めて限定されるようになった。かつてはぱりっとしていた和服も今はよれて垢じみている。いつしか生えっぱなしになっている無精髭には白いモノ混じり始めていた。
ちなみに係長は単にドMというだけで別に官憲に追われている訳ではないのだが、迫害されているというシチュエーションが自らの性癖にドストライク(+ほんのちょっとの友情)なので親方と行動を共にしていた。
親方はふいに声を張り上げた。
「なあ、ドクトル! あんたもそう思うんだろう?」
五秒ほどの間。
静寂。
親方と係長が心配そうに顔を見合わせた頃合いでようやく、
「そうですね。啓太さんには啓太さんの生活がもう出来たのでしょうね」
どこからともなくそんな声が聞こえてきた。親方と係長はほっと安堵の吐息をついた。
良かった。まだいる。
まだ現世に存在している。
彼らの盟友にして覗きのスペシャリストたるドクトルの姿をここ半年ほど親方も係長も目にしたことがなかった。どこかに出かけているのではない。
ずっとこの部屋にはいるのだ。
ある日ふと、
〝最近、心の底から覗きたい、と思うものが少なくなってきたのですよ〟
淡々とそんなことを呟いて以降、一歩も外に出歩かなくなった。出歩かなくなったが同時に仲間たちもそのシルクハットとタキシードという特徴的な格好を目の当たりにすることもなくなってしまった。
かつては神さえ謀った隠形の達人である。親方や係長がどれほど入念にこの部屋を探してもその影すら見つけることは叶わないだろう。親方も係長も口には出さないがある一つの不安に駆られていた。
ドクトルはひょっとしたらこの世に飽き、疎み、ゆっくりと段階的に消失しようとしているではないだろうか?
妄想なのかもしれない。
でも。
その証拠に彼の存在感は日に日に薄れていっているような気がする。時にいくら呼びかけても一日、返事がない日もある。
親方は再び酒を呷り、係長はお茶を口に運んだ。言いしれぬ閉塞感が彼らのをずっと支配していた。
誰もそれを打ち破る者などいなかった。
「なでしこ。あなたもケイタは”終わってしまった”霊能者だと思う?」
喫茶店『レ・ザルブル』でようこはなでしこに改めて問いかける。なでしこは最初、身を縮めたまま押し黙っていた。だが、やがて意を決したように口を開いた。
「正直なところわたしが啓太様を論評することなど論外です。あの方がいらっしゃらなかったらわたしは死よりも無よりももっとおぞましいところに堕ちていたでしょう。それをあの方がすくい上げて下さった。だから、わたしはあの方がどんな形だろうとどんな状態だろうと最大限の敬意を持ってただただご恩をお返しすることだけ考えています。ようこさん、それはあなたに対しても」
いいって、いいって、というようにようこは手を振った。
辟易したようにべえっと舌を突き出し、
「そーいうのケイタもわたしも正直、ドメーワクだよ。なでしこ、あんた色々と重たすぎ」
なでしこは微笑んだ。
「だから、わたしはあの方が今、世間でどんな風に言われていても」
「どんな風に言われても? ケイタってそんなに今、評価低いの?」
「あ、ちがいます、ちがいます! えーと」
なでしこは手を振り、考え考え言った。
「皆さん、啓太様に対して要求が高すぎたんだと思います。啓太様に霊能者として致命的な落ち度があったことなどこれまでただの一度もない。なのに色々と言われてしまうのはひとえにあの方への期待が高すぎるから」
なでしこは手のひらと手のひらを合わせた。弟を案じる姉のような表情で、
「わたしはその過剰な期待がもしかしたらあの方をひどく苦しめているのではないかと心配していて」
その時、ようこがゆっくりと笑い出した。最初はふふふ、という笑い方からやがてくくく、という風に。
最後には高らかにあはは、と、
「なでしこ。やっぱりあんたでもケイタのことはよく分かっていないんだね。それがよーく分かったよ」
ようこははっきりと明言した。
「いい? なでしこ。ケイタは昔から何一つ変わっていない。五年前、あなたを。そしてもっと遙か前にわたしを救ってくれたように。なでしこ。ケイタはね」
言い切る。ぴっと人差し指をなでしこに突きつけた。
「この国で最高の霊能者だよ。今でもね」
一点の疑いもない表情だった。
色々な人たちの期待や失望や想いを知るよしもなく、川平啓太は眠っていた。大型船のイカリに使用されそうな太い鉄鎖でベッドにくくりつけられた状態で熟睡している。遊びに来た河童が彼のおなかの上で丸くなっていた。
彼はまだ自分に待ち受けている幾多の荒れ狂う未来を知らなかった。
点けっぱなしのテレビでは近日、行われる日本の首相とアメリカ大統領の会談のニュースが延々と流れていた……。




