4 灰月の朝 ― 官舎通りにて
夜の名残を引きずるように、街はまだ薄暗かった。
灰月の朝、霧が地を這い、石畳の隙間から凍てついた白い息が立ちのぼる。
王立裁定院近くの官舎区。屋根にはうっすらと雪が積もり、煉瓦壁にかけられたランプが淡く滲んでいた。
ドアを叩く軽い音。
しばらくして、軋む蝶番の音とともに扉が開く。
寝癖のついた金髪に、白いシャツ姿のルシアンが顔を出した。
「……ピップか。おはよう」
「おはようございます、兄貴!」
裁定院補助員の少年は真っ赤な鼻をして、息を白く弾ませている。
ピップは、元は貧民街の子ども達からなる“ミストラッツ”という小さな情報屋集団のリーダーだった。
今ではエドガーの後見のもと、王立裁定院の補助員として働く十二歳の少年である。
黒いコートの裾には霜がつき、手には封筒を一通。
「先生からの伝言です! “朝イチで法務官室に寄ってほしい”って!」
「朝からご苦労だな。了解」
「はいっ!」
にこやかに笑うピップの歯の根が、わずかに合わない。
ルシアンは思わず吹き出した。
「今日も寒いな」
ピップをとりあえず部屋の中へ入れる。
ルシアンは金髪をかき上げ、欠伸をしながら、奥のクローゼットに近づくとオリーブグリーンの制服へと素早く袖を通した。
黒い外套をその上から羽織る。
テーブルの上、煙の残る煙草をちらと見ると、それを灰皿に押しつけるようにしてしっかりと消した。
床に転がしていた黒革の書類フォルダを拾い上げ、軽く外套についていた埃を払う。
玄関で待っていたピップの背を押しながら一緒に部屋の外へ出た。
頬を刺すような、冬の冷気。
左右に長く続く廊下にはまだ、人影が少ない。
扉に鍵をかけ、ピップと並んで歩き出した。
窓から差し込む光は、どうにも鈍い。
まだ灯されたままの廊下の壁のランプは、心許なげに小さく揺れていた。
石の廊下に二人の足音は遠くまでよく響く。
「朝飯でも奢ってやる。行こうぜ」
「え? 俺もう官舎の食堂で食べてきちゃいましたけど?」
「早いな。じゃあ屋台でも行こう。ついて来い」
「えぇ~、寒いのに。外で食べるんですか!?」
ルシアンが軽く笑いながら足を早めると、ピップはやれやれと首を振りながら急ぎ足で彼に並んだ。
階段をくだり、官舎の玄関ホールから外へ出る。
街を覆う、重い霧。
しばらく道なりに歩くと、その霧の向こうに通りの屋台から煙が立ちのぼっているのが見えた。
パンの焼ける香ばしい匂いと、スープの湯気が漂ってくる。
二人が近づいていくと、露店の女主人が「今朝のスープは豆とベーコンだよ」と声を上げ、ルシアンは懐から銀貨を一枚取り出した。
「うわ、高い……」
「ははは。でもきっと美味しいぞ」
二人が笑う。
白い息がふわりと絡み合い、霧の中に溶けていった。
パンの温もりを掌に感じながら、ルシアンはふと空を仰ぐ。
霞む尖塔の向こう、白亜の裁定院の影がぼんやりと浮かんでいた。
「灰羽隊の隊員リストを、僕の方で軍監査局経由で取り寄せたんだ」
法務官室。
朝陽を背に立つエドガーが、一枚の紙を机越しにルシアンへ渡す。
「補給経路に関係していた人物として、この名前が挙がっていた。……見覚えはある?」
ルシアンは書類を受け取り、文字に視線を落とした。
「――あぁ。クラウス少佐だ。俺の隊長だった」
「そうか。だが……」
エドガーは、ルシアンの持つ紙を指で軽く叩く。
「二ヶ月前に“死亡”とある」
ルシアンが顔を上げた。
「……何だと?」
群青の瞳と琥珀の瞳が、一瞬交錯する。
「詳しい死因は記されていない。だが、軍監察局の印がある」
「……そうか……亡くなったのか」
ルシアンは低く呟き、資料にまた、視線を落とした。
「そうか……」
目を細め、自身の金の髪にそっと触れる。
「会っておきたかったな……」
エドガーは小さく頷くと、席につき、机の上で指を組む。
淡い影が、調書の上に落ちていた。
「それから……そのリストなんだけど、“所在不明”や“転任先不明”の者が多いのが、少し気になるんだ」
ルシアンは紙を持ったままストーブの前に移動し、短い金髪をかいた。
「……俺のいた部隊は、偵察や諜報任務が多かった。知りすぎた奴は、身を隠すこともある」
「そうか」
床に置いていた革の書類鞄に紙をしまい、脇に抱える。
「このリスト、助かるよ。あとは俺の方で当たってみる」
「うん。頼んだよ」
黒い外套の襟を立て、ルシアンは廊下へ出た。
窓の外では、王都の屋根に静かに雪が降り積もりはじめていた。




