5 遺された紙片
王都のはずれ、オルドン西区。
住宅街の一軒家の前に立ち、ルシアンは扉を二度、静かに叩いた。
玄関脇には荷造り途中の木箱が積まれ、そこへ雪が淡く降り積もっている。
背後では粉雪が舞い、石畳の上を濡れた色に変えていた。
グレイブ川に架かる橋の欄干では、ガス灯の炎が橙の輪郭を揺らめかせている。
黒の外套の襟を立て、マフラーを鼻まで引き上げる。
吐息は細く、白く、すぐに霧へ溶けた。
扉がわずかに開く。
暖気が、にわかにこぼれてきた。
「突然失礼いたします。外部調査局、特別調査官のルシアン・ヴェイルと申します」
隙間から徽章を示すと、扉の向こうにいた夫人の瞳が揺れた。
「……ルシアン・ヴェイル?」
か細い声。
だが、彼女は小さく息を吐いた。
ルシアンの琥珀の瞳を見上げ、一度強く口を引き結ぶ。
「……入ってください」
素早く扉を大きく広げ、彼女の手はルシアンの袖を鋭くつかんだ。
「……急いで。早く」
雪を纏ったまま屋内へ押し込まれる。
そして、夫人は周囲を短く確認してから、扉を閉める。
「あの……?」
「奥へ。暖炉の前にどうぞ」
先ほどの強さが嘘のように、また、弱い声に戻っていた。
白髪の混じる髪は簡素にまとめられ、肩にかけられたショールの下には黒い喪服。
彼女のあとを、ルシアンは黙ってついて歩く。
短い木床の廊下を渡り、居間のような部屋に通された。
そこに一人残され、ルシアンは静かに部屋を見回す。
家具も、荷物も、ほとんど見当たらない。
ソファとテーブルが辛うじて残っているだけの部屋では、暖炉の火さえどこか心許なかった。
壁紙にはヤケが目立つ。
長らくそこには小さな絵か何かが飾られていたのだろうが、今はただ、白く浮いた四角がいくつか残されているだけだ。
ルシアンはそっと、ソファに座る。
彼を置いて台所へ行っていた夫人は、色味の薄い紅茶の入ったカップを持って戻ってくると、ルシアンの前に静かに置いた。
彼女が向かいのソファに腰掛ける。
ルシアンは一度深く頭を下げた。
「……夫人」
「主人の件でしょう? ヨアヒム・クラウスの」
「……はい。この度は……」
夫人は小さく首を振った。
「あなたは軍の方ではないのよね」
「ええ。王立裁定院の者です。
ですが、五年前まで、彼は私の上官でした。……大変お世話になりました」
一瞬だけ壁に視線を滑らせたルシアンを見て、夫人はひとつ、笑みをこぼした。
「この家は引き払うつもりですの。主人が亡くなってしまって……。でも軍人恩給は“調査中のため保留”と言われて支払われず、生活も苦しくなってしまいました。
子ども達は皆独り立ちしておりますから、私は実家へ……」
「……保留、ですか」
ルシアンの指が、カップの縁で止まった。
夫人は暖炉の火を見つめ、低く続ける。
「遺体も戻ってきませんでした。
軍から届いたのは、小さな箱に詰められた遺品だけ。
わたくし、もう軍を信じられないのです……」
ルシアンは黙って聞いた。
震えを隠すように、手をそっと膝の上に置き換える。
――つまり、密葬。説明も恩給もなし。
――クラウス少佐は“消された”。
「……ヴェイルさん」
「はい」
顔を上げる。
「少し、お待ちになって」
夫人は立ち上がり、隣室から小さな木箱を持ってすぐに戻ってきた。
「軍から返された遺品は、これだけです」
蓋を開ける。
丁寧にたたまれた軍服と、たった一枚の紙片。
彼女は、紙を摘み上げた。
「これ。ご覧になって」
ルシアンは受け取り、視線を落とす。
そこには、記号のように並んだ名前の列。
その中の一つ。
――“L. Vail”。
そして、灰羽隊の仲間たちの名。
顔を上げると、夫人は静かな眼差しで言った。
「軍は意味のない紙だと思って返したのでしょう。
でも……私はどうしても、主人が何か伝えたかったのではないかと」
ルシアンは、思わず息を呑む。
「明日、ここを出ます。
そんな時、この紙にあった“ヴェイル”という名のあなたが訪ねてきた……。
主人が“これをあなたに渡せ”と告げている気がしたのです。
――受け取ってくださいますか?」
ルシアンの琥珀の瞳が揺れる。
視線をもう一度紙に落とすと、自分の指がひどく震えていることに気づいた。
一度紙片をテーブルに置き、ぐっと手を握りしめた。そうして、やっと紙片を持ち直す。
「……お預かりします、夫人」
視線が合う。
「……ありがとう。少し、楽になりましたわ」
彼は、深く頭を下げた。
玄関先まで見送りに現れた夫人は、凍える空気の中で微笑んだ。
「主人は正義感の強い、さっぱりした人でした。自慢の夫だったの」
「ええ。私にとっても、誇りある上官でした」
彼女の口元が、ほんのわずかに柔らかくなる。
「……誰にも主人の話ができませんでしたの。今日は……救われましたわ」
ルシアンは一礼して彼女に背中をむけた。
扉へ、手をかける。
「あなたは、家族を残して逝ってはだめよ」
振り返ると、夫人はショールを握りしめていた。
「……軍人の妻が言うことではありませんわね。
外は寒いですわ。どうかお気をつけて」
「夫人も……。お元気で」
軽く頭を下げ、外へ出る。
扉が閉まる音。
街には、雪が静かに降り積もっていた。
白い雪は、すべてを飲み込みながら降り続く。
ルシアンは外套の襟を立て、その中へ足を踏み出した。




